道場法話 2017年度3月


第416話◇言葉を振りかざす人は… ••••••
道徳的な言葉を振りかざす人は、何で嫌がられるのだろう?
道理を説いているのに、何でめんどくさい奴と思われるのだろう?

そういう人は、「人間は弱い面も持つ」という当たり前のことを知らないかの如く振る舞ってしまう浅はかさがある。
そう振る舞う姿こそが、「いい歳になっても人を知らない浅はかな男」「冷たく包容力のない男」「自分を棚に上げて安全圏から出てこない男」等の印象を周囲に与えてしまう。

また、先哲の言葉を振りかざしても、言外に「自分だけが正しい」という心を忍ばせているように見えてしまう。

そして、そんな態度に無自覚であることが多い。
だから、めんどくさがられる。嫌がられる。


…それはとても悲しいことだ。


そもそも我々人間は、「造化」の何十何百億年という絶え間ない悠久の努力によって、ようやく生み出された存在である。
その偉大さと、己の未熟さに思い至れば、もっと人には敬意や慈悲や寛容さも以って「接する」ことこそが、人の道であるはず。


接する…。
そこなのだ。
どのように人や物事に接するかという己の行為こそが、言葉よりも大切である。

優しい言葉を使うなら、深く優しく大きな慈悲の塊のような態度で接して欲しい。
強い言葉を使うなら、威厳ある毅然とした行動を示して欲しい。
偉大な言葉を使うなら、偉大な行動で感化して欲しい…と、心の底ではお互いに期待しているのではないか。


正論を振りかざして周囲から弾き飛ばされている人は、己の言葉ではなく、己の行為こそ己の寄るべだと自覚したら、きっと周囲の反応は変わる。



例えば、「孝」という心の本質は、感謝という感情と報恩という意志にある。
そこで、恩に報いるという意志を体現するために、孝心は必ず孝行とならなければいけない。

同様に、自分自身の「意を誠にす」「心を正す」という「大学」の八条目においても、それは「身を修む」「家を斉(とと)のう」「国を治む」…と、己の行為とならなければ何も生まれない。何も変わらない。

当たり前だ。


維新を求めるが故に、先人達は「知行合一」「言行一致」を大切にして言葉を慎み、行動に重きを置いてきた。


新年度を迎えるにあたり、
自らの胸に刻むべきは、
「(己の誠に基づく)行為こそ己の寄るべ」である。






第415話◇恐怖心 ••••••
恐怖心は人間に与えられたものであるから、造化に資するよう使うことが大切である。
どんな武器も諸刃の剣。従って、当然ながら、使い方を間違えれば自分を傷付ける。

恐怖心を捨てなかったからこそ、人類は生きながらえて来たことだろう。

しかし、恐怖心に飲み込まれてしまったら、浅はかな選択や、情けない行動に終始することになる。


戦いにおいても然り。
敵は己を恐れ、己は敵を恐れる。
恐怖心というものは、どんな人間にも等しく与えられている。

大切なことは、
「前に出る」ということ。

相手が1歩出れば、こちらは2歩前に出る。
相手が100歩出てくれば、こちらは1,000歩出る。

「恐い。しかし、前に出る!」という精神こそが、己を敗北の惨めさから遠ざけ、勝利へと導く。

自反してみれば、「前に出る」精神こそが、己の誠の心であると思い至るはずだ。

一箇所に留まっていてはいけない。
恐怖心に飲み込まれると、いつまでも同じ所にいる正当性ばかり考えて、恐怖心を擁護し、惨めさを擁護するようになる。


大事なことは「前に出る」こと。
恐怖心は己の一部である。

恐怖心を引き連れて、
前に出ることである。






第414話◇自分の山に登る ••••••
各々が自分の山に登る。

その山とは、、、
「北大の医学部に合格する」
「今の俺の山は、35年の住宅ローンを嫁と一緒に払い切る事だ」
「世界一美味しい茶葉を作る」
「世界大会で優勝する」
「今65歳。68歳までにエベレスト登頂を果たす」
「今の研究でノーベル化学賞を取る」
「うちの会社の社長にまで登り詰める」
「シェイクスピアを超える劇を書く」
「ギターを極める」等々。

また、仲間と共に同じ山の頂きを目指すなら、当たり前だが、同じ方向に歩いているかどうかを確認する。


皆、自分の登る山⛰がある。
向こうの山に向かって、「ヤッホー」「おーい」とは呼びかけるけど、「バカヤロー」や「ごめーん」とは言わない。
応援はするが、批評はしない。


人間の身体は、降りるより登る方が簡単に出来る。そういう風に人間の体はつくられている。
ということは、多分人間は上向き、前向きに進むようになってるのだ。

だから、自分の登る山を見つけたら、いつまでも麓(ふもと)でうろうろしていてはいけない。


そして、最も大切なことは、てっぺんを極めたら、ちゃんと降りること。
降りるより登る方が簡単なのだから、大人になったらより難しい「降りる」ということもできなくてはならない。

そもそも、人間はいつまでも同じ場所にいる動物ではないのだ。

もし、山のてっぺんから戻ってこなかったら、それは「遭難」になってしまう。


山の頂きに立てるかどうか、それは自分で決めることじゃない。人間は人事を尽くすだけ。

山は危険だって?
危険はあったりなかったりするのではない。危険は自分の一部だ。

全部ひっくるめて、できるかできないかは分からない。やってみるまで分からない。
だから、やるを選ぶ。
自分の山に挑む。

後のことは山や天候が教えてくれる。
自分の山に登る。そして降りる。
それだけ。






第413話◇義を通す ••••••
相手の方が立場も力も上。
そのような場合、相手の理屈で事を進められると、こちらには理不尽を押し付けられたとしか思えない場合もある。

そんな時にも、こちらの志義を明確にして、覚悟を決めて渡り合う。
こちらの道義を通さなければならない時もあるのだから。


「彼に一度会って頂きたく思います」
「ジジィの顔なんか見ても相手も面白くねぇだろ(会うに値しないと言っているのが分からねぇのか!)。適任者は俺の方で用意するから、そう彼に伝えておけよ」
「会ってもいないのに、それだけはご容赦下さい」
「何だと?お前、俺の判断に楯突くのか?お前は俺の敵か?」
「そのようなことにならぬよう、宜しくお願い申し上げます」

「…ふざけた奴だ。

不味い酒出したら許さんからな。

おい、一献付き合え。美味い酒がどういうものか教えといてやる」

相手に器量があってよかったです。笑






第412話◇恥とは何か ••••••
恥とは、耳に心と書く。
耳とは柔らかいという意。若しくは人々の言葉を様々に聞くという意。
そういう耳の心、つまり、柔らかい心、練り上がらずにフラフラとぐらついている心を恥という。

鍛錬を積み、肚が坐り、志や覚悟が決まっているのなら、心はフラフラとぐらつくものではない。グズグズと思い悩むものではない。

心がフラフラ、グズグズしているから、道理や己の道義に背(そむ)く行いをして、面目(人に合わせる顔)を失ってしまう。


「恥」は身体にも現れる。
覚悟や志義が決まっていれば、身体の軸も定まり、動きの中においても芯がブレることは少ない。
何気ない所作においても、凛とした雰囲気を感じさせる人は、身体の芯がブレていないもの。

稽古において、身体の芯がどうしても定まらない人は、より一層の体幹の筋トレ!…ではなく、今一度稽古に向かうその姿勢や目標を確認して欲しい。芯が定まらない原因は自らの心に求めるのも一興。



己の志や道がはっきりしているのに、グズグズと思い悩む人たちもいる。
彼等は情に脆い。
しかし、情に脆過ぎたり流され過ぎてたりしていては、志義を見失う。
優しい男たちが陥りやすい過ちである。

そもそも「過(あやま)ち」とは、「過(す)ぎる」と書く。「過ぎたるは猶(な)お、及ばざるが如し」と論語にもあるように、過ぎることは足りないのと同じように正しくない。しかし、「足(あやま)ち」とは読まないように、足りないより過ぎてしまった方が始末に悪いのだ。


情に厚いのは弱さではない。
しかし、情に脆過ぎるのは、やはり過ちである。男が反省すべき弱点である。


…そうは言っても、男は「己を知る者のために死す」という一面も持つ。
自分の気持ちを分かってくれる人がいるというのは、何ものにも代え難い嬉しさがある。その人に対しては、弱くもなる。


誇り高く、たまに弱くなり、そして恥を知る愛すべき男たちとの稽古も、何ものにも代え難い。笑






第411話◇ノリと勢い ••••••
人間が物事を達成することの原動力は、ノリと勢い!
そんな浅はかな事で物事を進めるから、志や義、見識胆識や造詣を養うことを忘れた男たちが次から次へと湧いてくる…。

そんなノリと勢いは、自分たちを時にとんでもない場所に連れて行ったりもする。

そしてそして、、ノリと勢いに操られ、周囲の笑顔に無理ばかり押し付けられた志義の無い自分は、体面だけを整えようとして、惨めな醜態を晒す。

そしてそしてそして、そんな愚かなことにいつまでも気が付かない。


己の志は何だ?
己の本義を見失っていないか?

自分は、
心の届く場所にいるだろうか。






第410話◇消しゴムの役割 ••••••
消し字性能で言えば、日本製の消しゴムはどれも素晴らしい。

しかし、「間違えた文字を消す」だけが、消しゴムの仕事ではない。

人間が使う以上、消しゴムにはもっと別の役割もある。

「造化」の観点から考えてみると、答えに思い至る。
それは、「間違えても構わないよ!」と、書く人の心を安心させることだ。


そう思えば、小学生の頃はいつも消しゴムが応援してくれていた。

「大丈夫!
俺がついてる!
間違えてもいいから、
思いっきりいけ!!」。


私は今、ドイツのステッドラーの消しゴムを使っている。


そして、消しゴムの応援を超えて、筆ペンも万年筆もよく使っている。






第409話◇人づくり 国づくり ••••••
私達は「人づくり」を掲げる。

「人づくり」において最も大切なことは、「他人をどう取り扱うか」ではなく、「自分自身をつくる」ということである。
自分を棚に上げて「人づくり」と言ったところで、それは空理空論でしかない。

では、「人づくり」で言うところの「人」とは何か。

これは「FEG人物論」でも何度も取り上げているが、 人とは、まず気力体力を含めエネルギーが旺盛、つまり元気でなければならない。
そこから、志・理想・目標が掲げられなければならない。掲げた志に従うように、理想や目標に対する情熱、関連する教養や信念、器量や風格等を育くんでいく。


また、人間には本質的内容としての「徳性」、付属的性質としての「知性・知能」「技術・技能」、そして人間の重要な内容である「躾、習慣」「環境、人間関係」という五つの要素が相まって創り上げられていくものが人間である。


これを、人の一生(幼少青年期・中年期・晩年期)という観点から言えば…、、

・幼少青年期…突き詰めると、胎児の問題ということになるが、幼少期(中学卒業程度まで)は、人間の本質的要素たる徳性と、付属的性質の知性・知能、技術・技能、そして習慣を育む大切な時期である。
つまり、義務教育を終わる頃までに、その人間の個性・品格・躾・習慣・知能・技能等の基本が出来上がる。
それが、高校や専門学校や大学を経て、修正・修飾されて人間として一応出来上がる。

従って、知識や技術を学ばせようと思うなら、義務教育の力点は自己の修養・鍛錬・充実に当てる、つまり、人間教育や道徳教育を厳しくして良い習慣を身につけさせ躾けることが重要である。


・中年期…この時期は、家庭生活、職業生活、社会生活をいかに営むかが大切となる。家庭人、職業人、社会人として、どのような心掛け、修養鍛錬が必要か。
特に職業の本義を見誤らないこと。人は職業を通じて収入を得て生活するが、職業の本義は生活の手段たいうだけでなく、職業を通じて世の中を進運を亮(たす)け、人のために役立ち、自己を発揮するという意義がある。

従って、社会生活を機能させていくという点においては「職業に貴賤はない」が、世の中の進運を亮け、人のために役立つ意義や効果の偉大なほど、その職業は貴い。
もしもそのような内容が無いなら、どんなに金を儲けても、それは賤しい職業である。

同時に、職業に従事するのは人間であるから、如何に貴い職業でも、人の質によっては限りなく賤しくもなる。またその逆もある。
つまり、「貴賤」は、職業だけでなく人間にも存在する。

そこで中年期に大切なことは、己の家庭、職業、そして社会を貴いものにすべく邁進していくことと、そういうことに努力していける後進や子孫をつくっていくことである。


・晩年期…人生の集大成であるこの時期は、己の使命を把握し、死生観を持ち、祖先や家族や友人、そして社会や自然に対して感謝・報恩の生活をしていくことが本筋となる。


以上を基準として現状を観察し、過ちを正していくことが重要で、これを会得して初めて「人づくり」が言える。


「人づくり」が分かれば、「国づくり」も自明となる。
「人づくり」において「人とは何か」を解明してきたように、「国づくり」においても、まず大切なことは「国家とは何か?」を正しく理解すること。

この理解には、一元的国家論や多元的国家論の対立がある。
多元的国家論を突き詰めていくと、無政府主義にもなるが、詳細は別の機会に。


そして、国家の維持存続のためには、「礼・義・廉・恥」という四つの原則(四維、国維)がある。
これらを一言でいうと「公共精神」である。
この公共精神の実践のためにどうすれば良いかが、政治政策の眼目となる。
これを忘れて「人づくり、国づくり」と言い、金をかけて具体的政策を打ち立てても、それは予算の無駄遣いに過ぎない。


結局、
「人づくり、国づくり」の精神的原理・原則を明確に打ち立て、そこを外さないように具体策を実践していくこと。

それが「人づくり、国づくり」の道である。






第408話◇日頃の心がけ ••••••
わざわざ遠いところお疲れ様でした。上がって下さい。コーヒー☕️淹れましょう。

…仕事の愚痴ですか?分かりました。私でよければ聴かせて下さい。


…なるほど。で、あなたを傷付けた相手と刺し違えて会社を辞めると。そういうわけですね。分かりました。頑張って下さい。

…ただ、自分のメンツ、体面を守ることばかりに終始して、大義を忘れてはいませんか?

一つ、質問させて下さい。
あなたの大義はどこにありますか?

まさか、感情論で事態をかき回そうとするつもりではないでしょう?

言葉にして私に伝えて下さい。
あなたの大義はどこにありますか?


自分のプライドですか。では、そのプライドとは何ですか?


そうですか。男として世に恥ずかしくない生き方をすること…ですか。

ではその根本はどこにありますか?
その根本は何ですか?

…根本が答えられないと言うのは、日頃の心がけが無いからでは?


男が「プライド」という言葉を使うなら、それは自ら道を開いて進む努力をするといことではないですか。
その態度こそ、自分を大切にするということでしょう?

その態度を極めるならば、その根本とは物事に命を懸けて取り組むということではありませんか?


そうだと言うなら、あなたはなぜそうしないのでしょうか?



今が最悪ならば、それは自己を磨く修行期間ではないですか?最高でも最悪でもどんな時でも、その時に相応しい態度で処していくだけではないですか?

命懸けで修行すると思えば、敵の存在は自分を磨くために必要不可欠です。

…敵や戦いを欲する私としては、何とも羨ましい限りですが。

失礼しました。あなたの話でしたね。


なぜ命懸けの努力をしないのですか?
大きく見れば、修行の機会を与えようという会社からの温情をなぜ生かそうとせず、刺し違えて辞めるのですか?


自分の都合ばかりでものを見るから、責任転嫁するようなワガママな答え、社会的な死に体となるような答えにしかたどり着かないのではないですか。


例えば、、
今ここで一礼してみて下さい。
お辞儀の本義とは、まず自分自身を敬うということです。その尊い自分でもって相手を敬い、相手に礼する。これがお辞儀です。

お辞儀や一礼の形とは、相手にいつ命を取られても構わないという覚悟で首を差し伸ばした態度です。
その形そのままの覚悟があってはじめて、相手に物申すことができるのです。

あなたは、常々その覚悟をもって仕事をしてきたと言えますか?


己の未熟さに気付いたなら、うかうかと社会的な死に体となるような選択をしている場合ではありません。

どう戦うかを、話しましょうか。

え?もう分かった?
…分かりました。頑張って下さい。






第407話◇素直になることの強さ ••••••
「論語」にある克己復礼も、「孟子」の言う自反も、「中庸」の誠も、己の持ち前というありのままに手を加えない「素直」という言葉も、どうしても他人事のような理解だった。

しかし、「大学」の三綱領のひとつである「民に親しむに在り」を読んで、ようやく「しまった!」と自覚した。
民は自分に対するもの全てであるが、まず親しまなければならないのは、当たり前ながら自分自身である。
もちろんそんな事は分かっていたが、出来ていなかった。


普段、人と接していて、どうしても「その虚勢は痛々しい」と感じることがある。そう感じる人達に共通していることは、その人達が自分自身を好きだと思っていないということだ。

…ということは、私も相手に「お前、その虚勢は痛いよ」という印象を与えていることがあるのだろう。笑

自分自身と距離があるからそういうことになる。
それではいけない。自分の素や誠という自分自身の根本(性 命)に蓋をしてしまい、虚勢を張って武装して社会と接するから、心が自分から離れていく。やがて自分の好きなことさえ、人が納得するものでなければいけないと思い込んで、ますます自分が自分から離れていく。

自分の心を変えるというのは、そういうことじゃない。

これでは「自分の人生」が始まらない。自分の中で嫌だと思う部分(弱さ、臆病、怠惰等)があると、そこを取り繕うために、ますます自分を欺くことは、自分を変えるということではない。
他人の基準で物事を選択して、自分(素直な自分)から遠ざかるという事だ。

こんな心で過ごしていたら、自分と向き合う勇気さえ失ってしまう。

緊急事態だ。
これでは自分の人生の始まりを持つことなく、人生が終わってしまう。


それは嫌だ。
そんな自分を新たにするには、2,400年前の先哲が言ったように、結局「民(自分自身)に親しむに在り」である。

心を丁寧に慎重に扱うしかない。小さな感激に敏感に。
喜怒哀楽を超えたところに人生はない。
全て喜怒哀楽の中にある(「伝習録」王陽明)のだ。自分の喜怒哀楽に向き合うしかない。


桜の咲きはじめたこの時期、ひとりなら、「花が綺麗だな」と素直になれるだろうか?
花を見て、素直な自分の微妙な気持ちを掴めるだろうか?
そんなことより金儲け…だろうか?

私にとっては、そんな些細なことが、「自反」できるかどうかの試金石だ。


「私の好きな花の色は、オレンジ、黄色、ピンク、白。」
恥ずかしがらずにそう言えることが当たり前だし、大切なこと。それが分からなかった。
今は言える。
私は福寿草やヒマワリが好きだ。

…紫陽花や蓮が好きなのは、写真の被写体として撮った時の、あの色合いが綺麗だから。笑。私の素直な気持ちとはちょっと違った。その違いにようやく気付いた。笑


そういえば、父は「日々草」が好きだった。


子供の頃を振り返ってみれば、「好きな色は?」と聞かれて、「オレンジ!ミカン!」と何のためらいもなかった。
それがいつの間にか、…自分自身から遠ざかってしまった。人と比較することを覚え、自分の小ささに嫌気がさしたのだ。継続した努力よりも、浅はかな結果を求め、思うような結果が出ない未熟な自分を捨てたのだ。鍛え育むことから逃げ出したのだ。

そこまで弱い自分だったから、「私の好きな花の色はオレンジと黄色!福寿草とヒマワリが好きだ」と、また素直に言えるようになるまで、こんなにかかってしまった…。

残念だけど仕方ない。

取り繕うことばかり上手くなって、自分も自分に上手く騙されていた。


2,400年前の「大学」に、そんな自分を変えるよう命じられた。
ようやくそんな弱い自分と訣別して、自分と親しみ、新たにしていくことができる。ここから自分の「素にして直き誠」を伸ばしていける。

自分の「性 命」に親しまなければ、自分の始まりを持つことができない。


昨日はそういう意味で私自身の革命の日だった。古典、先人に感謝。






第406話◇人物論ノート ••••••
何度もこのテーマで書いているが、以前より頷けるようになったので、また書く。


「自分の心が熱を持ち(1.元気)、自分自身への自覚が生まれた時(2.自反・克己復礼)、自ずと道が生ずる。
古典は、人道(天道)の理(道理)を示し、己の道は人道の内にあると導く。

己の道と共に志を立て、義を明確にして(3.立志、道義を立てる)道を歩み(4.義利の弁、5.見識胆識を養う 6.節操を養う 7.造詣を深める)、造化へと徹していく。

それはもはや己の誠の心のままに生きるという事と同義である。笑うべき時に笑い、怒るべき時に怒り、悲しむべき時に悲しむことであり、同時に節度を持つ(中庸)。

そして、8.広く人と親しみ、9.ありったけの艱難辛苦、栄枯盛衰、喜怒哀楽、利害得失を勇猛果敢に経験していく。

人類の一員として、絶対的な自己として、その進歩・発展のためにやるべきこと、責任を負うべきことは山ほどある。

その中で、限りなく強く大きく温かな心(仁義)や実行力(忠恕)を育み、10.風韻風格を養い、己の道の中で位育参賛・博施備物を限りなく主体的・創造的に体現していく。


何を通じて己の道を歩むか。
起居動作・日常生活・職業・学問・趣味等、己の志と誠と義を見失わなければ、何をしても己の道を離れるということはない。

自分をより良く生きる一助として、造化の理、道理、人道について学ぶことで、精神的背骨が養われる。
その後は、喜怒哀楽の一つ一つ、様々な経験や勉強の一つ一つが、柔軟な筋肉となって骨格を覆い、自己を生き生きと活動させる肉体の一部となる。

最後まで、覚悟をもって己の道を歩む。
その道は、人道であり天道であり、造化そのものである。」


道場は、「各自の道を示す」場でもある。
己の道は自分から離れることなない。
だから、先哲は「人生、至る所が道場だ」と言ったのかもしれない。


[FEG人物論]

1.元気(気力/骨力)を養う。
2.克己復礼。稚心を捨てて志気を養う。
3.理想/志/目標を持ち、道義を養う。
4.「義利の弁」 何を判断基準とするか。
5.見識(判断力)、胆識(実行力)を養う。
6.節操を養う。誘惑/脅威に動じない。
7.造詣(専門知識・専門技術)を深める。
8.広く人と親しむ。信義/礼節/謙譲を重んじる。元気・笑顔を渡し、また、元気や笑顔を受け取る。
9.勇猛果敢に人間の栄枯盛衰・喜怒哀楽・利害得失・艱難辛苦を経験し尽くしていく。
10.器量/風韻/風格の中で包容力/創造力/一貫性を育む。位育参賛・博施備物に献身。

文字という制約上、このような書き方になるが、本来は順番があるのではなく、同時存在・同時作用である。






第405話◇人を瞬時に見抜く ••••••
人を見抜く方法として古来から言われる「八観」や「六験」。
それとは別に、瞬時に見抜く方法がある。

人間というのは、初めて相対した瞬間に雌雄が決まる。やってみなければ分からないというのも一つの理ではあるが、やはり、やってみなければ分からないというのはまだまだ未熟なのである。


いじめに遭ったひとはよく分かるだろうが、人を虐(しいた)げようとするいじめっ子の悪意は残酷で、実は殺意によく似ている。
殺意はあからさま過ぎて表に出す人は多くないし、殺気は相手に伝わりやすい。
ただ、笑顔で「よろしく」と握手を求めてくる人の中にも、こちらに悪意を抱いている人もいる。

だから、殺気の前段階にある悪意を見抜く技は、自分や周囲を守るためにも有用なのである。


稽古では、「先(せん)を取れ」と伝える。未発の先、気の先等から始まり、対の先、後の先まで様々なタイミングで取るべき「先」はあるが、その内実は、戦いにおいて相手の悪意・殺意を瞬時に見抜くことにある。


見抜く技は普段の稽古に取り入れてある。

攻者は守者に対して、「自分の親の仇を取るように攻撃しろ…」と言うのがそれだ。
それはどういうことか。

攻者は守者に悪意や殺気を放つ。
守者は、「お前をぶっ殺してやる」「八つ裂きにしてやる」等、攻者の悪意や殺気を感じ取るようになってくる。
それこそが、当(まさ)に技なのである。

いじめられっ子や武道家に限らず、ある程度の所に到達した人達は皆、敵か味方か分からない相手の本性を瞬時に見抜く。

全身で「相手の悪意を感じ取る」という技を身に付けているのだ。

護身という観点からすれば、悪意や殺意という相手の気を感じたら、躊躇(ちゅうちょ)することなく一撃必殺(必滅)を狙う。
一発目が当たれば、二発目三発目も当たりやすい。それが「先の先」を取る先手必勝法。

また、「毒を制するには猛毒をもって」と言われるように、攻者を圧倒する殺気も効果的な力となる。
圧倒的な殺気以外には怯まない相手もいるから。


ただ、それだけでは「殺気vs殺気」であって、武の本義から遠ざかる。
そもそも「武」とは、「二つの戈を止める(争いを止揚して一段上に上がる)」ことであり、その観点からすれば、守者が反撃に転じる時は、悪意や殺気とは別のものも必要となる。

別のものとは、例えば造化そのものの心(正心・無心)である。

演武稽古の時には、攻者と守者お互いがそれぞれの心(殺気と正心・無心)を交互に尽くすことで陰陽相交わり、造化を顕現させていくように演武を二人で築き上げていくことになる。

稽古の中で、また次の答えを各自体得して下さい。
これは教外別伝のことだから。






第404話◇応援する力 心配する力 ••••••
あなたの応援は、挑んでいるあの人にとって大きな力になる。

そして、自分が挑めば誰かが応援してくれる。
人からの応援を素直に受け止めてみれば、その応援は大きな力になると自覚できるはずだ。


一方、応援するより先に相手を心配してしまう人もいる。
心配とは相手を慈しみ悲しむ心から来る。
応援は誰でもできるが、心配は相手への慈悲が無いとできない。

ただ、その心配が、選手の積極的な気持ちを消極的に変えてしまう事もある。だから、なるべく慈悲は相手に覚(さと)られないようにする。


あなたの応援は、挑む人の力に変わる。
あなたの心配は、挑む人をそっと支える優しさに変わる。
どちらも、人と人との間に生まれる強くて優しくて温かい力だ。


人を応援することができない、批判ばかりする天邪鬼もいる。
でも、気付かないところで誰かがきっと応援している。誰かがそっと心配している。
誰かがきっと祈っている。

理不尽や不条理な事も人生にはたくさん起こる。が、それも一興。そこで歩みを止めない者だけが、本当に強く優しくなって、登るべき山の頂(いただき)に立つ。
ひとりひとりが、自らの山の頂に立てるよう、みんなでみんなを応援できたらいいね。

One for all.All for one.(ひとりはみんなのために。みんなはひとりのために。)
ラグビーの精神みたいに。


誰かの先導も応援の有る無しも関係なく、威厳をもって猛々しく自ら進む者たちもいる。彼らを「猶興(ゆうこう)の士」と呼ぶ。

本来、私達は皆猶興の士であるべきだ。

ただ、大切な人に、自分の情熱をかけた姿を見てもらいたいと思うのも自然なこと。


誰かを応援するのに、その人が挑んでいるものを好きになる必要はない。
どんなにつまらなく見えたとしても、譲れないその場所に全てを懸ける人がいること、必死に生きてる人がいることを、理解すればいい。

挑む人が真剣だからこそ、人はその姿に一喜一憂し、心配を内に秘めて声援を送る。


ひとりひとりの命が生き生きと伸び行くように、「これだけは譲れない」と挑む人の心を応援するのだ。


応援と心配は大きな力になる。
その力を侮ってはいけない。






第403話◇知る ••••••
「理解する、知る」とは、学んで知る・理解するという「学知」と、何かがきっかけとなって悟って知る・理解するという「覚知」とがある。
学知と覚知には大きな違いがある。

「学知」とは漸々修学であり、少しずつ段階を経て学んでいくことである。「一万回の祈りを捧げろ」や「点を連ねて線を作り、線を並べて面を作り、面を重ねて体を作る」と言われるように、大事を成すための本筋である。

しかし、
学んで得た知識でも、その豊富な知識に体系的統一がなければ雑学になってしまう。
雑学では、その知識の量が多いだけにそれだけ迷うことになる。「知」が「病」となってしまう。

つまり、、、痴(ばか)である。

体系的統一がなければ分裂へと進む。分裂してしまっては、自ら判断することができなくなってしまう。

例えば、
肉食がいいか?それとも菜食の方がいいか?
雑識としてなら、どちらの効用も得ることができる。
それどころか、穀類、果物、断食、節食、身土不二、雑食…等様々な食生活や、それに付随する健康のための知識は、世の中に無数に散らばっている。
「何が良いか?」という視点なら、立場により良し悪しは異なるのだから、答えは何でもありになる。人の数だけ答えは出てくる。収集はつかない。
結局、周囲の情報に踊らされるか、己の食欲に従うだけ…となりかねない。

食事について、そして健康について、その道理が分かっているかどうかにより知識が統一されるかどうか決まってくる。そして、その道理を外さずに自分の特質を加味していく。
それが食事の面からの健康増進となる。


そして、学理的に追求して自得した「学知」の先に「!!!」と心底から閃くことがある。閃きは理屈を超え、他人の入り込む隙はない。経験から生まれる自分だけの気付き、閃き、感覚。
これが「覚知」である。


知るとは、「学知」に留まらず、「覚知」へと到達することが何より大切。

武道の技も同じ。
経験からの自分だけの気付き、閃きが、体得には不可欠。


人の道も同じ。道理を知るとは、学知ではなく、覚知に至ることが大切。

「道理を体得し、己の明徳を明らかにしながらその特質を伸ばし、万物の明徳を明らかにして、かつ親しみながら、己の道を通じて造化の働きを生き生きと限りなく体現していく。それが、生成化育・位育参賛・博施備物という天の道(仁)、即ち人の道(誠)である。」

人の道…、!!!と閃いた?笑






第402話◇「生兵法は怪我のもと」 ••••••
中途半端な攻撃は、かえって自分を傷つけてしまう。

仕事も勉強も然り。

そして、冷徹なやり方はダメ。
知識も熱がないと批判的になる。
批判的なものでは、何かを生み出すことはできない。造化にならない。


そもそも、男とは熱を帯びてこそ真価を発揮する生き物だ。

己が志(理想・目標)に届かないのは、熱が足りないことが大きな原因だ。


頭は冷静であっても、胸は熱く滾(たぎ)っていることが、男であることの必須条件だ。

熱意は磁石。男の熱意に人は集まってくる。
熱意が足りなきゃ怪我をする。


熱の足りない男じゃダメだ。
太陽のような灼熱の男たれ!


その灼熱の心の中に、己の信念を通す覚悟が生まれる。






第401話◇優しい ••••••
「そんな風に言って欲しくない」
「ノーテンキ野郎!」
「お前の思慮も感情も浅すぎる」
そんな風に言われても、それでも寄り添い続ける人がいる。


「相手が聞いてくれないなら、そこまで寄り添うことはない。自分が傷ついてしまうよ」と「論語」の慈悲を感じ、それでも相手に寄り添い、笑顔で励まし続ける人がいる。


プライドがあるからこそ、真心を本当に大切にするからこそ、自分の弱さに寄り添ってもらうことや、同情されることを潔しとしない人がいる。


助けてあげたいけれど、そんな力は持ち合わせてなくて、そんな自分の小ささに唇を噛んで耐えながら、なんとか励まそうとする人や、自分の行為の恥ずかしさに押し潰されそうになりながりも、自分を守るために立ち去る人がいる。



み~んな、愛おしくて、悲しくて、優しい。

み~んな、優しい。






第400話◇鍛える ••••••
自分を傷つけるのではなく、
自分を養う。鍛える。

敢えて自分を傷つけて鍛える事もあるが、それは、鍛える時に伴う痛みをすぐに会得するため。だから、傷つけて鍛えることは本筋ではない。

傷つけて鍛えるのではなく、己に親しんで後鍛える。
「大学」の三綱領のうちの一つ、「民に親しむにあり」である。


それには先ず、自分の心を欺かないこと。
そして、つまらない私利私欲に心が振り回されないこと。

己の誠の心に素直にね。
天邪鬼はだめだよ。


親しみ、鍛え、そして己を新たにする。






第399話◇もっと強く ••••••
⚫︎遅刻をしてきた人がいる。
「何を申し訳なさそうな顔をしているのだろう?何も学ばずに、すぐに忘れるあなたなのに…。」と、嫌味を言いたくなるような、どんよりとした雰囲気を彼は作り出してしまっている。

→そんなことより、どんな遅刻の言い訳で笑わせてくれるかを楽しみにしていたのに。


⚫︎ちょっと油断して、すぐに騙される人がいる。

→そんな危うさも俗世の魅力の一つ。
それなのに、文句を言ったり落ち込んだり…。
あまりにみっともない所を見せられてしまうと、こちらまで悲しくなる。


⚫︎「ちゃんと俺の言うことを聞け」「誰も俺の言うことなんか聞いてくれない」

→そんな事言ってると、底が知れてしまう。
そもそも、弱い人の言葉には力がない。言葉の力は、その人のしてきた決意の数で決まる。
言霊とは、しかるべき人の発する言葉に宿るもの。言葉に力を持たせたいなら、己の心と立居振舞を鍛えるべき。
本末を間違えてはいけない。


⚫︎強い者が生き残るのではなく、生き残った者が強い。

→自分のやり方で真剣に取り組み、生き残って下さい。

しっかりしろよ!そこの男!






第398話◇走り方 ••••••
走る時に足のどこから着地するかについて、踵着地(ヒールストライク走法)、足裏全体着地(ミッドフット走法)、つま先着地(フォアフット走法)がある。


どの走り方にも一長一短ある。

⚫︎踵着地(ヒールストライク走法)
日本人の骨格(骨盤の傾き)に合う。ふくらはぎやアキレス腱への負担が少ない。
踵から着地する事でブレーキがかかるので、速く走るのには向かない。

⚫︎足裏全体着地(ミッドフット走法)
走る事へのブレーキがかからない。地面からの情報を足裏全体で受け取れる。
踵着地に比べ、ふくらはぎやアキレス腱はの負担は増す。

⚫︎つま先着地(フォアフット走法)
効率よく速く走ることができる。
踵着地、足裏全体着地に比べ、ふくらはぎやアキレス腱への負担は増す


基本私はフォアフット走法。
前足底辺りからそっと地面に足を着けることができるから。
猫背にならないよう背筋を伸ばして、腕の振りと足を連動させて走るのが気持ちいいから。

ふくらはぎの筋力など鍛える必要はあるが、優しく地面に触れる事ができるのは、私にとってはミッドフット走法やフォアフット走法だ。


そういえば、何かと理由をつけて物事を諦めるのは、ヒールストライク走法に似ている。
踵から着地する事でブレーキがかかる。他の走り方と比べてみれば体感できる。

できない理由をくっつけて、やりたい気持ちにブレーキをかける。
そこに生ずる気持ちが、いつしか忍耐力と混同される。
そして、「やらない」という忍耐力に優れた臆病な人が出来上がる。

もし、自分は臆病だと思う人がいたら、フォアフット走法を試してみるといい。
力強く自分を前に進める、前足底や足指から着地して、地面を蹴り出すのだ。

人間の身体の構造は、
後ろに後退するよりも、前に進むように、
下り坂を降りるよりも、上り坂を登るようにできている。


一緒に走ろ。






第397話◇勇気 ••••••
馬鹿だから、学歴がないから、金がないから、前科持ちだから、人脈がないから、どの会社にも雇ってもらえないから、皆んなに無理だと言われたから…、

当たり前だが、そうやって最初からできない理由ばかり集めて諦めているなら、その人は何もできない。

それは、ただ甘えているだけ。
勇気がないだけ。

できない理由を集める奴は、勇気の無さを隠したいだけ。

しかし、まだ見込みはある。
勇気の無さを隠したいということは、腰抜けの自分が恥ずかしいと心の中では自覚しているのだろう。

臆病を克服したいなら、その恥ずかしさを絶対忘れるな。恥ずかしさから逃げるな。
勇気が無くて、言い訳ばかり巧みになって生きていくというのが人間の生き方だろうか。

無理かどうかは、やってみた後にそれが決める。
山登りと同じだ。
山頂まで行けるかどうかは、自分が決めるのではない。人は人事を尽くすだけ。
山頂に立てるかどうかは、山が決める。
私達にできることは、人事を尽くすことだけなのだ。


「無理だ」「できない」。
そう言って自分の人生を安売りする馬鹿には、何を言っても伝わらない。

自分を諦めた奴、勇気のない奴を守ってあげる義理はない。


己の志の実験に必要な仕事なら、土方でも船乗りでも掃除でも何でもする。
自分の価値を他人に決めさせる必要は全くない。自分の価値は私自身以外の誰からも決めさせない。

その昔、殷の湯王は毎日の沐浴の水を入れる盥(たらい)に、自戒の銘としてこう刻んでいた。

「苟 日新 日 日新 又 日新」

苟(まこと)に日に新たなり、日々に新たなり、又日に新たなりと。
人は、時々刻々に変化して進歩発展していかなければならない。


人生は、常に「今」「此処」がスタート地点だ。
自分の志(理想や目標)に誠実に生きる。それが自分のやりたいことだろう。
ならば、自分の志に生きるとは、やりたいことをして生きるということだ。

それができない人の多くは、勇気がないのである。


臆病、甘え、怠惰を自分から一掃すればいい。
勇気、自覚、努力という習慣に置き換える。

人に見せるものは、何にでも立ち向かっていく勇気。


勇気。勇気。勇気。

志を立てたら、勇気を間断なく行動で見せるだけでいい。






第396話◇牙を忘れた狼は…、 ••••••
牙を忘れた狼とは、威厳も尊厳も失ってしまった狼だ。
それは狼はではない。

それなのに、失ったものの大きさに気付かないフリをして、恥じらいもなく甘える。

「なぜ狼は戦わなきゃいけないの?」と。

戦う理由を誰かに教えてもらいたいのだろうか…。
理由なんて幾らでもつくることができることは、本人も知っているはずなのに。

結局、戦う気がない、戦う覚悟がないのだ。
それを自覚したくないがために、木偶(でく)の坊のフリをする。

「でも、いざとなれば俺だって本気出す」と、もっともらしい言葉に寄りかかり、「今」から逃げていく。
情けない…。
恥を無くした狼は、今を戦えない狼は、…やっぱり狼ではない。


どうしようもない世界だと言うなら、正気を保つために、敢えて木偶の坊になったりする輩もいるだろう。
しかし、それは狼の態度ではない。

そんな最低の世の中だと言うなら、一体自分はそこでどれだけ役に立つのか、少しでもまともにするために、一体どんな意義あることを始めたのか、何を築いたのか、何を成したのか、誰とどんな協力や援助をしたのか。

不平不満や諦めは、狼ではなく負け犬の態度である。


生きていれば辛いことも苦しいことも沢山あるけれど、だからと言って心まで負け犬になってしまったら、大事なことまで全部見逃してしまう。

悲しいことも嬉しいことも、それらを感じる心は一つなのだ。


生きるとは、負け犬の心で生きることではない。

生きるとは、素敵なことを沢山見たり経験したりすること。
沢山の人を応援し、沢山の人から応援されること。
知らないことを沢山知ること…何気ない言葉が誰かを傷つけてしまうことや、誰もが譲れない想いを持っていること。
何度倒れてもその度に立ち上がること…。


死は生の変化であって、生の反対ではない。
生の反対は、何もしないこと。

失敗は成功の途中であって、成功の反対ではない。
成功の反対は、何にも挑戦しないこと。


結局、、まだ何も「始まり」を持っていないんじゃないだろうか…。


錬磨した牙を使ってこそ
狼。






第395話◇一番と一流と目標 ••••••
「一番、二番…」というのは、他との比較の中での自分の位置付けである。
一番を目指す人達が集まれば、競争が始まる。

「一流、二流…」というのは、他人との比較のでの自分の位置付けではない。自分を磨くことである。
一流を目指す人達が集まれば、切磋琢磨が始まる。

一流は全員がなることも可能だ。
一番はひとりだけ。
そこが違う。


一流を目指すのか、一番を目指すのか?
目標は、その区別を自覚して設定する。

目標を設定することで、甘えやふざけた心を一掃して真剣になることができる。
真剣になれば意識や感情は誠になる。誠になるとは、自分を欺かず偏らないということ。誠になれば心は統一されて純一になっていく。目標そのものに自分が徹底されていく。


目標には、「明確性・具体性・期限」が大切。そうすることで、自覚と覚悟ができる。
クライマックスを避けたり先延ばししたりする事がなくなる。
そして何より、己の力が集中する。


目標は大きく!
大きな目標とは、大いなる欲求であり最強の生活である。それは常に自己犠牲とも契合する。
つまらない私利私欲など吹き飛び、くだらない争いなど無意義となる。






第394話◇生死の覚悟 ••••••
「死を覚悟する」とは、甘えやふざけた気持ちを一掃して物事に挑んでいくことである。

臆病な心、怠惰な心、卑怯な心、言い訳する心…などの甘えた心は無い。
代わりに滲み出てくるのが、真心、真情、勇気、気迫、誠、仁義…である。


誠の心、真心を大切にするからこそ「覚悟」が生まれる。それは人を凛とさせ、厳しくさせる。
それは、人を冷たくさせるわけではない。冷たいというのは、慈悲や思いやりの欠落、敬恥の欠落から生まれるもの。
誠や真心は、慈悲や思いやりをより深くすることはあっても、決して欠落させることはない。

死の覚悟とは、
決して、「死んでもいい」などと軽々しく、どこか投げやりな、どこか自分を見限るような、そんなふざけた心境ではない。
そういうふざけた心を一掃することこそ、死を覚悟するということだ。

生の覚悟とは、
決して、「死ぬのは嫌だ」と、命の使い所も定めずに、ただ延命することにしがみつくような、そんなふざけた心境ではない。
そういうふざけた心を一掃することこそ、生を覚悟するということだ。


「死の覚悟」とは、全身全霊をかけて今に集中して自分を生きること。

「今」という永遠を愛する心である。

決して命を粗末にすることではない。

だから、世間からの同情や憐れみを潔しとはしないのである。


門下生諸君、
「死の覚悟」が無くてもできること、つまり、甘えた心やふざけた心のままできることなど、大した事ではない。

それは大志を成し遂げようと生きる態度ではない。
自分の真心を顕現させて生きる態度ではない。


稽古に臨む姿勢も然り。
「死の覚悟」をもって…、つまり、甘えやふざけた心を一掃し、今に集中して稽古に取り組んで下さい。


「死の覚悟」と言葉で理解したつもりでも、それではまだ体得したことにはなりません。

経験・体験から生まれる「気付き」こそが、理解する・体得するということです。






第393話◇プロの料理人 ••••••
例えば、プロの料理人が美味しい料理を作る目的は、お客さんの胃袋を満たすためだけではないでしょう?

料理の種類や技法を求め極めていくだけでなく、どれだけ徹底してホンモノの材料を求めることができるか。どのように真心を料理に込めていくか…。

そういった姿勢を極限まで追求していけば、必ず道理を会得すべきだという事に思い至る。そこから得たものを後世に伝え遺していく…。
それもプロとして業界を牽引していく料理人の目的の一つでしょう。

もちろん、本質や根源を追求せず、表面的で目に美しく、口当たりのよい料理でお客さんを楽しませたり喜ばせたりすることはできるとは思います。
しかし、感動させることは難しい。

人の心を感動させるのは、人の真情や真心をもってのみできること。

プロは、その真情や真心を大切にするからこそ、甘さやふざけた心、そして覚悟の無さを嫌う。
甘い心やふざけた心を一掃しなければ、真心は生まれてこないからだ。

プロが同情や憐れみを潔しとしないのは、まさに真心を愛するがゆえである。

だから、プロの料理人が作る料理には感動がある。


そこを軽視して、上達や究極を求めても、それはただの浅はかな料理遊びでしかない。

料理を別のものに置き換えて見ても同じこと。

立ち止まって考えてみれば、明らかで当たり前なことで、皆さんにとっては釈迦に説法でした。






第392話◇風流 ••••••
中国では漢籍目録作成のための図書分類法の一つに「四部分類」がある。

四部とは「経・史・子・集」。

▪️「経」→如何に生きるべきかという人生の原理的指導力になる書。「子」のような副作用は少ない。
例)易経、詩経、孝経、論語、小学、大学…

▪️「子」→人生に独特の観察と感化力を持つ一家の言葉。個性的でありハマるととんでもない力になる。が、誤用すれば中毒を起こす副作用あり。経書と同じ。
例)孟子、荀子、老子、墨子、荘子、韓非子、孫子…

▪️「史」→「経」を根本として、人間が如何に生きてきたかという生活の記録を通して、如何に生きるべきかという理法を明らかにするもの。「経」の「原理・生命」に対して、「史」はその「実証・体験」。
例)三国志、十八史略…

▪️「集」→「経」の原理や「史」の体験が、人格を通じて把握表現されたもの。詩文。
例)日本の「集」として、万葉集、古今和歌集…

経と子の趣旨は同じなので、実質は、
1.原理を尋ねる「経・子」学
→物事や人生の道理や、生活の指導的原理を会得する学。

2.生命の記録である「史」学
→実践力(行動力・展開力)を養う学。

3.優れた人格を通じて表現された「集・子」学。
→情操を育む学。

の、三分野である。

さて、人間には伸ばさなければならない分野が幾つかある。その内の三つはまさにこれら(1.原理の会得、2.実践力の養成、3.情操を育む)である。

1.原理の会得とは、修徳の学(道理、道義、道徳)であり、
2.実践力の養成とは、時務の学(専門知識・専門技術・実行力)であり、
3.情操を育むとは、人間に含みや潤いや、深みや慈悲をもたらす。

特に、「3.情操を育む」ことが疎かになって、1.2.だけが重視されると、「目標設定→達成へ向けて行動する」というプログラムで動くロボットのような存在になる。

一生懸命頑張って生きて、その向かう先が人間ではなくロボットでは目も当てられない。

真善美を希求する心、
大切にしたい。






第391話◇いじめっ子 いじめられっ子 ••••••
やられてもやり返さない忍耐強い人、寛容な人がいる。
その中には、かえっていじめっ子の加虐心を煽ってしまう人もいる。


それは時に、こんなメッセージとなって相手に伝わってしまっている。
それは…、

「こいつを見ていると、イライラする。」
「こいつは、守るべきプライドを持っていないのか?」
「こいつは、自分で自分のことが大切じゃないのか?」
「人としての尊厳をバカにしている」

本意ではないとしても、そんな風に相手に伝わってしまうことがあるのだ。
まぁ、最後の「人としての尊厳をバカにしている」というのは、いじめっ子にも言える事だが。


こんな言葉がある。
「鷹から信頼されるには、鷹を知り、鷹を慈しみ、そして、鷹にこちらの威厳を示さなければならない。」

鷹を人と言い換えたら分かりやすい。
相手を知り、慈しみ、そして同時に自分の威厳を保つこと。


プライドとは、自らを大切にすることである。
自分にだらしがない、甘い、疎かにしている、臆病、怠惰…。こういった態度や言動はすべて、「自分を大切にしていない」という印象を与える。

もっと言えば、
人間の尊厳を慈しみ築き上げようとするのではなく、人間そのものを見限ったりバカにしているように相手には映ってしまうのだ。

何度も言うが、それはもちろんいじめっ子にも当てはまる。


いじめっ子もいじめられっ子も、人間の価値を貶めてはいないだろうか。

学校でも職場でもいじめはあると言う。
当然だ。
人としての威厳・気高さ・尊厳を自覚しない者や、真剣に生きる努力に価値を置かない者もいるのだから。

ならば、そのような場所で自分には何ができるのか。そして、自分はどう生きたいのか。


人は、強くて弱い、大きくて小さい、美しくて醜い、尊くて卑しい…。
人は、矛盾を固めた存在だ。

それでも、真善美を希求するものとして生まれた。
人としての尊厳は、全ての人にある。
だが、その尊厳がどこまで尊重されるかは、本人の在り方と行動にかかっている。


いじめっ子にも、いじめられっ子にも言いたい事がある。

・人としての価値を見くびっているような、つまらない人間をいじめるのはやめなさい。その言動は自分を貶めることになる。

・人間の尊厳を踏みにじるような者に対して、弱いままでいるのはやめなさい。
それは、人の尊厳を守り、徳沢を広く及ぼしていく態度ではない。


気高さも美しさもない。
どちらも、人が人間として生きる態度ではない。


今日は暖かかった。
ちょっと気が早いけど、あと数ヶ月したら、一緒に、泥の中から美しく咲く蓮を見に行こう。






道場法話 2017年度 2月


第390話◇造化の体現と道 ••••••
造化は、同時存在・同時作用として森羅万象の中に存在している。
そこに主観的な秩序を与える事で、私たちの掲げる「自他共栄」のための位育参賛に役立つと考え、その為に敢えて順番をつけて、今日は「造化の体現」(自他共栄・位育参賛)への道を示す。

1.造化の「道理」を学び、自らの意思を誠にして(自分に嘘をつかない)、心を造化へと一致させるよう自分で自分を導いていく。
→「東洋倫理概論」「小学」「大学」「論語」「孟子」「荀子」「老子」「荘子」「中庸」「孝経」「易経」「孫子」等。

2.「造化」(自他共栄・位育参賛)を、主体的に体現していくと自覚・覚悟する。
→「義利の弁」「生死の覚悟」「志義の確立」等。

3.志義を立て、機鋒(実行力)と器量(包容力)と節度(忍耐力・制御力・克己心)の三つを、より強く大きくしていくよう心身を修養鍛錬しながら、日常の態度・行動として顕していく。

5.自らの志義(目標、理想)に心と身体を率わせ、身近な所から、様々に挑戦して物事を成し遂げていく。

6.志義を成し遂げてきた事から生ずる利は堂々と受け取り、更に強く大きく自らを修養鍛錬し(機鋒・器量・克己)、志義を達していく「造化の権化」として、位育参賛・博施備物・自他共栄を状況に即して様々に具現化していく。


そうは言っても、私達はただ「目標を達成する」事をプログラムされたロボットではなく、またそのようなロボットになることでもない。
私達は、絶対自慊であり、同時に永久不慊として、理想を追い求めながら現実を変化させていく、創造変化の主体的存在である。

自分を、より強く大きく深く高くあたたかく在りたいと希求することができ、同時に、まだ弱く小さく軽薄で冷たく下劣でもあると自覚できる存在である。

強くて弱く、大きくて小さく、深くて浅く、偉大であり愚劣であり…、そのような愛すべき存在である。



そこに思い至るならば、

1.自分より偉大なものや尊きものへの敬意(感謝報恩)を忘れず、
自らを恥じることを忘れず、

2.志義(理想・目標)を掲げ、気力・骨力を充実させて、主体的創造的に、自分の可能性と自分達の未来を切り開き、

3.人に対しては敬虔であり、寛容であり、温かく、
そして油断しないこと



それが私達の道である。






第389話◇憧れを抱く ••••••
超一流のとんでもなく強い者と勝負して負けた時、悔しいのは当たり前だが、
それとは別に「凄い、あの実力に近付きたい」とも思うことが必ずある。

この、自分には遠く及ばない偉大なるものや尊いものに対して抱く感情を「敬」と言う。
同時に、敬する相手に対峙した時、自らに対して抱く感情もある。畏れ多い、自分が未熟で恥ずかしい…「恥」である。

敬と恥。
素直に自分の未熟さを恥じるならば、謙虚になる。
素直に憧れの対象を敬し、少しでも近付くための目標を持てば、勇気と気力が湧いてくる。

敬と恥。
この二つの感情があって初めて人は伸びていく。


確かに、負けを認めるのは辛いし悔しいし悲しいだろう。未熟な自分を受け入れる器量がない時は、相手を認める器量も出てこない。
だからと言って、そのような態度を続けるというのは、自ら成長の芽を摘んでいるのと同じことである。

周知の通り、成長には必ず痛みが伴う。痛みを受け入れる器量と強さを持ちたい。


自己流で物事を極めていく人は、天地自然万物すべてを師として受け入れ敬い、己の未熟さを深く恥じ入り、全てから学べる謙虚さと柔軟性、そして器量の大きい人である。
残念ながら、そのような人は少ない。
だから、一般的に言って自己流の人は大して伸びない。


素直に敬と恥の心を持つ人は、その心の根底に感謝報恩がある。
ここが全ての出発点である。

素直に偉大なものへ憧れを抱いていい。

その気持ちは自分を貶めることにはならない。自分の価値を下げることはない。
本来の自分、素直な自分に戻り、自然と進む道が開かれて伸びていく。

そして、小さな自我を離れ、敬恥と共に目標を極めていくという覚悟が、肚をくくる決め手となる。

高く高く憧れを抱く。
それは利己主義ではなく自己犠牲、自他共栄とぴったり一致する。





道場法話 2017年度 1月


第388話◇運転免許の更新 ••••••
講習時間120分… 。
講習の趣旨は、「違反・事故を起こさないための運転」。

で印象に残ったのは、
⚫︎相変わらずこの県は交通事故で亡くなる人が多い(ここ数年ほぼ全国ワースト2位)
⚫︎県の条例で自転車の保険加入が義務になる(4/1~)
⚫︎危険運転等の罰則強化


そして、違反・事故を起こす人間心理について、こんな言葉で表現していた。

⚫︎「密室は人格を変える…ことがある」


…狼の集団として、この言葉はよく噛み締める必要がある。

密室という空間では、人格が変わることがある。
「小人閑居して不善を為す」ではないが、
密室にいる時や暇な時を見れば、その人の人格は浮き出てくるものだ。


1月も半ばを過ぎた。
今年の目標は高く掲げているだろうか。
志や義は明確だろうか。

⚫︎目標
それぞれが明確に持っていればいい。

⚫︎義
1.溫にして厳 威ありて謙 恭にして安
2.己の弱さには勝たせない
3.命を捨てて掛からなければ、その道は拓けない

⚫︎志
1.位育参賛 博施備物
2.己の道を行って、社会の進運を亮ける
3.漢とは、常に男にも女にも惚れられる存在でなければならない


虚勢を張る必要も、臆病になる必要もない。

素直に、己の道に勇猛果敢・大胆不敵に邁進していきたい。






第387話◇おみくじの意味 ••••••
毎年、この時期になると啓蒙している 笑

何年も聴いている人も多いと思うが、正月だから大目に見て欲しい。

では、早速、

「大」は、陰陽で言えば陽。分化・発展・進歩を表すから、計量的には大。
「小」は、陰陽で言えば陰。統一・含蓄・潜蔵を表すから、計量的には小。
「中」は、「中庸」等で説かれるように、矛盾を克服して一段上に発展させること。
「末」は、先、将来。

⚫︎「大 吉」 →分化・発展・進歩という陽に進むがよろしい。
⚫︎「小 吉」 →統一・含蓄・潜蔵という陰に進むがよろしい。
⚫︎「中 吉」 →矛盾を克服し、一段発展させるがよろしい。
⚫︎「末 吉」 →継続した努力を、コツコツ重ねるのがよろしい。
⚫︎「吉」→そのまま進むがよろしい。ただ、物事は変化していくもの。そのまま進むというのは、とても難しいこと。がんばれ。

⚫︎「凶」→今のまま進むのはよくない。物事は変化していくもの。変化に無関心で我欲だけでまっすぐに突っ走っても行き詰まる。
⚫︎「大凶」→分化・発展・進歩という陽に進むがよくない。自身の修養・自省、周囲への労い、蓄財へと向かうのがよい。

これか根本。ここからおみくじは、色々な状況に際して言葉を紡いでいる。


おみくじも楽しいけれど、
正月、まずは自分の第一義を弁えて明らかにすること。そして、志と明確な目標を掲げること。

自分がどの方向へ向かうか明確ならば、今日も明日も元気溌剌だ!

今年もよろしく!






第386話◇全力疾走! ••••••
2018年からは、太陽のように元気や笑顔を伝えることを心に忘れず、法話の機会を作っていきたいと思います。


新年二発目は、「全力」について。
自分の全力というものを、自覚している人はどれくらいいるだろう。

時々、「これが限界か…」と垣間見えることもあるようだが、そこを抜けると「…まだまだいけるじゃねぇか!」となる。

頭脳
体力
筋力
五感
そして、精神力…。

自分の限界に辿り着くことはないかもしれない。
「これが限界か…」と思えるような境地になることもあるが、それを抜けるとまだまだ先がある。
私が自覚している最初の限界(壁)の症状と、その突破法とは、

頭脳
・症状→めまい。たくさんの情報を浴びて、考えて考えて考えていくと、まずめまいとして壁がやってくる。
・頻度→数年に1回あるかないか。
・突破法→ジョキングや筋トレや稽古や…身体を動かせば乗り切れる。

体力
・症状→気持ち悪くなる。
・突破法→これは私の身体が新たな境地に順応するための一反応に過ぎない。少し休んで白湯や水を飲む。体力が回復すれば、体力無尽蔵の域へ。

筋力
・症状→その部位が熱くなって、感覚が鈍く動かしにくくなる。
・突破法→冷やす。ストレッチ。マッサージ。整体。
できるだけ身体全部の筋肉を同時協力的に使うことで、局所の限界をフォローして立ち直らせる。
身体を鍛えるなら、毎日毎日筋肉痛でいい。

五感
・症状→先を読む力等が鈍る。
・突破法→静坐。深呼吸。書道。

精神力
・症状→臆病や怠惰や無関心が助長されて弱気になるか、取り繕うような強気になる。
・突破法→経書(四書五経等)を読む。静坐。書道。稽古。深呼吸。息吹。志義や目標の確認。
ネガティブになるべきではない時にそうなりそうな時は、美しい人や作品や花鳥風月に接する。


私は「全力で取り組むことは気持ちいい。好きだ」と言うことは自覚している。
だから、中途半端であればあるほど、楽しむのは難しい。

全力で取り組むためのモチベーションは、自分の「志」や「明確な目標」だ。それを掲げれば、気力も骨力も漲ってくる。

今日、闘ったか。
今日、やり残したことはないか。
今日、全力で生きたか。



物事は陰陽中。
だから、全力という剛には余裕という柔をもって応えることもある。

全力も余裕も、どちらも大切にしたい。

明日も健康と健闘を!






第385話◇暁鐘 ••••••
新年、あけましておめでとうございます。

夜明けに鳴らす鐘を暁鐘(ぎょうしょう)と言います。新しい時代を知らせる合図でもあります。大きな目覚まし時計といったところか。

さて、そもそも、私達が短い人生をボンヤリと、あるいは闇雲(やみくも)に生活して大事をやり遂げられるという道理などは、どこにもない。

必ず、自分の生命、自分の一生はどういうところに向かい、どのように鍛錬修養し、創意工夫し、どのように力を用いるかという大方針を立てなければならない。

義を立て、志を抱き、明確な目標を掲げなければ、「一体何をしたいのか?」分からないまま、自分で自分の生命を無駄に終わらせてしまいかねない。


あまりにヒマな無駄話や、雑多でまとまりのないものばかりを手に入れようとして右往左往していては、大事を成し遂げるための何の役にも立たない。
自分の本心から逃げるように時間を過ごすだけだ。


100%安全で安心な場所…自分を傷つけるものは誰もいない場所。危険もない、不安も心配もない、静かで穏やかで安らかな場所に居たいと思うこともあるだろう。

しかし、それでは生きる意味は何処にある???


人間の気概や気迫は、志の大きさに比例するもの。

元旦、しまりのない夢の生活から目を覚ましてもらうための暁鐘(ぎょうしょう)になればと、このブログを掲載させて頂く。


新年は、抱負を聞かれることの多い時期だ。

抱負とは、、、目標である。
その目標は、
・具体的であること
・行為に重きをおいていること
・達成したかどうか成否が明確に分かること
が大切である。

自分の本心(目標)から逃げてはいけない。
結果はどうあれ、毎日を最高の旅にする。「一生懸命生きた!」と言ってやる。
そして、興味ある人に対しては、信じられないような体験談を聞かせてやるのだ。

過去に縛られず、今から逃げず、今をもっと楽しんで最高の旅にしていこう。


…ただ、暁に皆の目を覚まさせるにしては、鐘の音の力が小さくて申し訳なく思う。


本年もよろしくお願いします。





道場法話 2017年度 12月


第384話◇フォースと共に… ••••••
この一年の勉強会、大変お疲れ様でした。
力ない者は褒め、力ある者は叱り、私と同格以上の者は、千尋の谷に突き落として這い上がらせる…という主義でやってきました。

その中で「易経」「論語」「孟子」「大学」「小学」「中庸」「伝習録」「孫子」「臨済録」「無門関」「風姿花伝」「不動智神妙録」「百人一首」「酔古堂剣掃」「五輪書」…と、各人各様の枝葉を伸ばしてきました。

一年のまとめの時期、今日は改めて「根っこ」に戻ります。


東洋思想では、私たちの思考も行動も全ては「造化の働き(力)」が具現化したものであり、その力をどう扱うかは全て自らの意志と責任であると捉えます。

全て自らの意志と責任で、造化の力・働きを消極的破壊的に用いたり、積極的建設的に用いたりします。
消極的・積極的のどちらが良いか正しいか価値があるかではなく、機に応じ時に順って自分自身を発揮していくことです(時中)。


言い方を変えましょう。
スターウォーズのジェダイの騎士への修行ではありませんが、この一年の勉強会を通じて、「人はフォースと共にあること、フォースそのものであること、そしてフォースはあらゆる所に満ち満ちていること、結びついていること」が会得できたでしょうか。

フォースというのは、東洋思想で言うところの「造化の力、造化の働き」です。
これこそ、従順な僕(しもべ)であり、頼りになる相棒であり、また畏怖すべき主(あるじ)であり、自分自身であり世界であります。


思考もフォースの一部です。
「どうせ無理だよ…、私なんか…」と負け犬の遠吠えのような、自分を見限るような、周囲から同情を誘うような思考もフォースの使い方のひとつではあります。
ただ、せっかく物事に挑む機会、決断する機会が与えられているのに、それを醍醐味と捉えられずにビビってしまうことは、男として非常に恥ずかしい使い方であると理解できたでしょうか。

そして、変わるべき時に変わらなかったり、変えてはいけない時に安易に変えてしまうというのは、どちらも非常に情けないフォースの使い方だと分かったでしょうか。


自分の行動・結果は、無限のフォース(造化の力・働き)を具現化した自らの意思の体現です。

この一年に経験してきた様々な出来事が、私たちをより強くしなやかにしてきました。その拳に力を宿すように成長してきました。

そうして会得した力は、過去の自分から自由になって新たな自分を作り、それぞれの志や目標を成し遂げていくためにより良く使うためのものです。


2018年もまた新たに変化して、大切なものを守り、造化を様々に具現化していきましょう。


「May The Force Be With You.フォースと共にあらんことを」






第383話◇時間は優しく ••••••
2017年が静かに終わる。

この一年、悔しいことも情けないことも沢山あったけど、
きっといつか、全部ただの思い出に変わる。

だから今は、時の流れのまま心静かに。
心素直に。


2018年になれば、…もっと先かもしれないけど、
いつの日か、楽しかったことだけを思い出して、笑顔のみんなを思い出す時が来る。

そんな風に、時間は優しく流れていく。


だから今は、時の流れに全てを任せて、心静かに。

全ての事がただの思い出に変わるまで。

全部が笑顔の思い出に変わるまで。




皆さま、今年も一年間ありがとうございました。
優しく和やかな年末年始をお過ごし下さい。

そしてまた来年、凄みの増した鬼としてお会いましょう。






第382話◇継続は力なり ••••••
極論してしまえば、
ナンパでも喧嘩でも、人の間で何かに挑戦し続けていると、いつの間にか勇気と実行力が養われる。

「挑む」という体力がいつの間にか身に備わる。

数回やっただけではまだまだ。その瞬間に集中して自分を没頭させる。
少なくとも人の10~100倍は行う。


ここまで来ると「継続は力なり」の意味を知る(体得)ことになる。
それが分かれば、そういう知識(言葉)を頭で理解するだけでは大した力にならないことも分かるはずだ。

「繰り返し繰り返し挑み続ける」ことで、大きな力になる。
だから「分かる」には時間もかかるね。


こういう知識(言葉)は、そのままでは大した力を持たないものだ。
目標に向かって、組合せたり変更したり…つまり、継続して活かしてこそ初めて力を持つようになる。
それまでは他のあらゆるものと同様、ただの材料でしかない。

たくさん本を読んだ、たくさん勉強した…だけではまだまだ不十分。
実践を積み重ね、学んだことを繰り返し繰り返し活かしてこそ力となってくる。


今年もそろそろ終わる。
2017年の反省は少しだけして、
来年の目標と、何度も何度も何度も繰り返し繰り返す継続した活動をこそ大切にしたい。


自らの目標を定め、「人が10回行ったら、我は100回でも1,000回でも行う」という気迫で物事に取り組む。
その過程の中で自分に育まれるものの大きさを、形作られるものを、ワクワクしながら楽しんでいきたい。

2018年をいかに生きるか。
まずはその志を立て、明確な目標を掲げて邁進し、そして皆で美味い飯食おうぜぃ!






第381話◇人脈を作るには ••••••
先日、「人脈が豊かな男になりたい」という相談があった。

10項目程度なら出てくるだろうか…。

1.「人格を養うこと」
→退屈な人ではなく魅力的な人であること。人物・経書・歴史に学び、勇敢にあらゆる喜怒哀楽・艱難辛苦・利害得失・栄枯盛衰の経験を味わい尽くす。

2.「明るく温かく大きな人間であること」
→暗いと多くの人を引き寄せない。

3.「聞き上手であること」
→他人に興味を示さなければ、コミュニケーションが成り立たない。

4.「責めるより許すことに重きをおき、相手の短所より長所を見て付き合うこと」
→人々を繋げるのは、その違いによってである。

5.「冠婚葬祭を大切にすること」
→喜び悲しみを分かち合うことが、信頼の礎となる。

6.「人の世話がみられること」
→幹事や便利屋など、人をまとめたり細かなことを嫌がらずに引き受けられること。

7.「行動力があること」
→積極的・建設的な姿勢が人を動かす。

8.「筆まめであること」
→御礼状や手紙は忘れずに。

9.「他者を益する情報に貪欲であること」
→自分に利益をもたらす情報に、人は集まる。

10.「志を立て、目標達成に邁進していること」
→目標を掲げて邁進する熱意に、人は集まる。
etc...


武道の技は人体を操作する。
であれば、武道の稽古をしている人たちというのは、人体操作のプロであり、人間に対するプロ集団と言ってもいい。

ならば、人間に対する問題を解決するプロ集団とも言える。

だから、技が使えるだけじゃ全く足りない。
技の会得を通じて、もっと深くもっと広大な世界へ自分を進めて行こう。

臆病・怠惰・無関心な態度を捨てて、溌剌と自己を発揮していくことが、やっぱり大切かもね。






第380話◇技の連絡変化 ••••••
変化とは、統一からの分化である。
従って、今までのものと全く連絡や関連や統一のない変化は、変化ではない。

それは断絶である。

断絶は連続を断ち切ったものであり、力は弱い。
私たちは、統一関連があって変わっていくという変化を取ることが大切。


変化とは造化である。
従って、変化がないと造化から遠ざかってしまう。固定化し執着するようになる。
固定化すると、融通や応用のきかない人間になってしまう。

残念ながら、そういう人間にはあまり魅力がない。

人間は、変化していくところに弾力性が生まれ、創造性が生まれる。

だから、社会人になって何かのプロになればなるほど、できるだけ余裕というものを意識的に作って、別の思想・技術・知識・世界などに触れていく心がけが必要である。

そうしないと人間が生きてこない。

仕事だけでなく、勉強も稽古も人間関係においても同じ。

様々な人間との付き合いが大切な理由もそこにある。
人が人を知らないというのは、お互いが生きてこないのだ。


「余裕と変化を持つことは非常に大切」という稽古での教えは、道着を脱いでもやっぱり大切である。






第379話◇戦う(4 )「生計」 ••••••
小さな勝負事でも、人生の縮図となり得る。

怠惰で鍛錬や節制を怠ったり、
臆病でリングに上がらなかったり、
恐怖で自分を縛ったり、
油断、偏見、傲慢から足元をすくわれたり、
心が折れて途中でリングを降りたり、

弱かったり甘かったり幼かったり…そんな態度はちょっと恥ずかしい。情けない。

臆病、怠惰、消極的、破壊的…
恐怖にとらわらた思考や、浮かれたり傲慢だったりする態度で戦うことが、勝負に臨む態度、人生を歩む態度として相応しいのだろうか。

別の態度もある。
例えば、勇敢、積極的、建設的、謙虚、余裕、協力、冷静…
信念や覚悟、明確な目標を決めて勝負(人生)に挑む態度である。


さて、いかに戦うか。

どう生きたいのか、何が欲しいのか。






第378話◇戦う(3) ••••••
戦う相手は様々に現れる。

最大の戦う相手は自分自身だろうか。
相手は「自分自身の持ち時間」である。

戦う相手(時間)は、決して優柔不断などではない。
そして、時間は決して待っていてはくれない。
臆病や怠惰や無関心でいたら、可能性も機会も、時間は全てを自分から奪っていってしまう。
後には何も残らない。

時間は命である。
今日は昨日より残り時間は少ない。明日は今日より残り時間が増えるわけではない。

勝敗は、相手(時間)を味方につけられるかどうかである。


自分の持ち時間に対し、どう向き合うか。
自分を何にどう使うか。

破壊的思考に使ってはいけない。
臆病・怠惰・無関心を助長するために使ってはならない。

臆病・怠惰・無関心なフリをしていたら、天邪鬼でいたら、様々な機会は失われ、二度と戻ってくることはない。時間に全てを奪われてしまう。


他者とつながり、色々なものを作っていく…建設的積極的思考を大切にして、活動的になって時間と勝負したい。

「不可能な事をやろうとするのに、困難くらい何でもない」という気概、自分や自分の大切なものを守りプロデュースしていく力、そして己の志を形にする力を養いながら、時間と勝負していく。


今日、闘ったか。
その最大の相手は、自らの持ち時間である。






第377話◇戦う(2) ••••••
日本は法治国家である。社会において暴力は認められてはいない。
「力」を得たいというなら、個人の腕力よりも権力や経済力の方が大きくて強いだろう。

そんな社会において、なぜ辛い/痛い/苦しい…稽古をしてまで、私たちは己の拳に力を宿すのか?
なぜ、最後の最後までお互いに和する道一択で進まず、時に戦うことを選択をするのか?


私の答えは、
「過去の自分から自由になり、新たな自分を得て、己の志義(道)を成し遂げていくため」である。


戦うことへの恐怖や痛みをも凌駕する「志」があり「義」がある。心がある。
それは、「今の自分を超えたい」「新たな自分になりたい」…、
一言で言えば「変わりたい」という想いである。

その心と力を拳に宿すために稽古してきた。


鍛えた力は、大切な人たちを守るために、そして今の自分を超えていくために使う。
その力は今後益々大きく強くなっていくだけだ。

もう弱くない。逃げることもない。鍛え方もわかっている。
主体性と創造性をもって自分の力を発揮していけるだろう。


あなたは喧嘩を通じて分かったって?
ならば喧嘩は卒業だね。もっと大きな世界で戦って自分をとことん発揮させて欲しい。
あなたはニート生活を通して分かったって?
ならばニートは卒業だね。別の方法でもっと大きく自分を発揮して社会を喜ばせて欲しい。
あなたは仕事を通して分かったって?
ならばそのレベルの仕事は卒業だね。もっと大きく貢献する仕方で社会を引っ張って欲しい。


ずっと昔、最も尊敬する男から言われた言葉がある。
「過去はもういい。顔を上げて前を向いて進んでいけ」と。

当時は「過去はもういい?ふざけるな!それは加害者の都合のいい言葉だろ!」と、言葉を自分の納得できるように歪んで解釈していた。
…彼の心が全く分かっていなかった。

今なら少し分かる。
彼は、「お前の中にある力はそんな風に使うんじゃない。とても大きな力なのだから、使い方を間違えるんじゃない!」と伝えてくれていたのだと思う。

自らの拳に宿した造化(創造変化)の力は、もっともっと広い世界での戦いを望んでいる。


最初に戻る。
「なぜ辛い/痛い/苦しい…稽古をしてまで、私たちは己の拳に力を宿すのか?
なぜ、最後の最後までお互いに和する道一択で進まず、時に戦うことを選択をするのか?」

門下生の皆さんは、この問いに向き合って、自分の答えを見つけて欲しいと願う。

そして、もっともっと大きな次の世界へ。






第376話◇戦う ••••••
「戦う」とは、自分を晒していくということ。自分で決め、責任を負うということ。

争いにも戦いにも自制はない。

戦い方はそのまま人格の表現である。

自分にルールを課す…志と義に順う。
その上で、経(原理原則)と権(応用)を自在に使いこなしていく。そうでなければ、勝ちを取るのは難しい。

なぜなら、誰もが正々堂々と戦うわけではないからだ。

「それは狡い、卑怯だ、非情だ!」と言っても、そんなことを意に介さない相手はいる。

その場合どうするか。負け犬となって泣き寝入りしても始まらない。
悪に対しては大悪で抑えつけることが必要な時もある。


悪には魅力がある。
それは、悪そのものではなく、悪の持つ強さであり凄みに対してである。
だから、悪を肯定するのではなく、その強さと凄みを使いこなすのだ。


皆んな、自分が思っているほどには弱くはない。強いよ。

ただ、気を動転させるから弱く見られる。
心を落ち着かせられないのは、守るべき志義がはっきりしていないからか、やるとなった時に腹をくくってないからだ。
覚悟を決めて腹をくくれば、落ち着いて相手も周りもよく見えるようになる。


そうすれば、経(原理原則)と権(応用)を自在に使いこなし、いい戦いができる。






第375話◇意志が存在を規定する ••••••
一般的には、「存在や事象が意志を規定する」。

しかし、強き意志は逆に存在を規定する。

世論とともに物事を考えるような人は、全て自分で目隠しして、耳に栓をしているようなものだ。

大切なことは、他人が自分をどう見ているかではなく、自分が彼等や世間のことを、どう考えてやるかということである。

だから、どんな境遇においても主体性を失わない者には、魅力があり面白さがある。


どうなっても心は折れない。目は死なない。
強くてしなやかな心がある。

そういう心を養うことが、稽古を通じて、筋トレや技を通じて会得するものの一つである。

「勇気を出して物事に全力で取り組めるようになった。自分を発揮できるようになった。前に出られるようになった」。
そう思えるようなら、そのまま稽古を続けて下さい。

身につけた形に縛られることなく、その場に応じて自在に活かしていけるようになります。


強き意志は、物事に縛られることはない。
逆に、強き意志こそが物事を規定する。






第374話◇遊び ••••••
遊びには「無用の用」という側面がある。
飛行機の翼はグラつく。飛行中に折れないために。車のハンドルも「遊び」がある。遊びがないとかえって危険だ。

遊びという「無用」があるからこそ、飛行や運転が上手くいく。

人間でいうならば、「余裕」である。

自分を伸ばすには、志(目標)・気力・ライバル、そして「余裕」が必要。

腹八分目というのも「余裕・遊び」である。

その精神が、「自分のことしか考えられない」ではなく、相手への気遣い、思いやりへと通じる。

その余裕・遊びが、男の器量になる。
その器量が安心・信頼へと繋がる。


人間関係の間合いにだって、「遊び」は大切。そういう余裕や余白のない人は付き合いにくい。


閑話休題。「無用の用」である「遊び」、これがないと技も上手くならない。
無用なのに、無用な遊びがないと上手くならない。


言葉にすると矛盾しますが。笑






第373話◇決断 ••••••
物事に追いつめられると、

「じゃあ、どうすればいいんだよ!」などと言って、自ら選択や決断ができない人がいる。

「もうどうでもいいよ!」と自暴自棄になって、最悪の選択をする人がいる。


人生は、何かを選択して作っていく。

自分が大切であり、人生が大切であるなら、「決断」は恐怖ではなく醍醐味である。


楽な方に流されたり、自暴自棄になるのは、自分の人生の価値が分かっていないのだ。

いや、本当は皆分かっている。
自分の価値も人生の価値も、思っているよりずっと素晴らしく、予想外の展開に進んでいくものであることを。


死中に活あり。
人間は追いつめられると、
龍が玉を吐くように、いのちを吐く。






第372話◇命の尊(とうと)さ ••••••
生命は尊いものである。

一度きりの人生、かけがえのないただ一人の個人、あなたの代わりはいないのだから…。


誰もがそう主張できる。


しかし、そう思って自分や他者の命を扱っている人は、どれほどいるだろうか。


自分の命と人生を大切にして、
他人の命と人生を大切にして、
自他を活かすための修養鍛錬を怠らず、

どんな環境においても、見限ったりへこたれたりすることなく、自他を輝かせているだろうか。



今日の命の使い方は、人間としての尊さを感じさせ、人間として生きる喜びを、自分にも他人にも与えただろうか。



「命は尊い」と言うなら、
尊さの名に恥じないよう、今日成すべきことにひたむきに取り組む。
そして、他をも大切に。


今日も健康と健闘を!





道場法話 2017年度 11月


第371話◇受け身 ••••••
まずは頭と腰を守る。

手をハの字について、顎を引いて自分のヘソを見るようにする。そのまま身体を丸くして静かに回転して受け身を取る。すぐに立ち上がり構え直す。

いくつかの受け身の形を通じて体得すべきことは、「受け身の形」ではない。
形を通じて、受け身の本質を体得する。

その結果、怪我をしないという体捌きが身につく。


受け身のできている人は、その本質を体得している。
これは言葉にはしない。何度も繰り返して様々に気付き、体得して下さい。

身体を丸くして、静かに柔らかくコケれば怪我はしない。
怪我しやすいのは、うるさい音を立ててコケる時だよ。笑


受け身の「形」を体得する。
しかし、それは「形」を覚えるためではなく、「形」に含まれる本質を体得するため。
目に見えないものを体得するために、目に見えるもの(形)を、その道具として使う。

本質が体得できたら…、そこに「形」は無い。
形が無いから、どんな状況にも自在に応じられる。

伝わるだろうか?






第370話◇胴上げ祭り ••••••
あなたの知らないところで、誰かがあなたのことを見ています。期待しています。祈っています。

あなたはいつも、誰かの期待の中、祈りの中で生きていることを忘れないで下さい。

そこで今日は、あなたの毎日の頑張りを祝して、胴上げします。


「○○さんの頑張りを祝して~、胴上げ~!!」
「せぇーの、わーっしょい!わーっしょい!!わーっしょい!!!…」


※ここで、胴上げの仕方とポイントをいくつか紹介します。年末、何か参考になればと思います。

・安全
頭や腰を打つような落下事故を絶対に起こさないこと。必ず足から降ろす。

・人数
胴上げを行う下の人の人数は最低10人。
人数が少ないと、タイミングが合わないと持ち上がらなかったり、変な方に飛ばされたり、落下事故の可能性もある。多すぎるくらいが丁度いい。

・場所
平らで安全な屋外で行う。
屋内では、すぐに天井(240~270cm )にぶつかってしまう。
・胴上げを行う人たちの配置
1.頭役
最も背の高い男性の役割。
胴上げされる人の頭と首を見てもらう。
絶対に頭から落とすことのないようにする。
また、自分の所に頭が来たらとにかく支える。
この役の人は胴上げで持ち上げることはしない。落ちてくる時、頭部の落下に抵抗を与えて頭が上になるようする。落ちてきた時は、両肩か首根っこを支える。

2.胴役
ここに人を集める。持ち上げるのに力を使うところなので人数を多くする。

3.足役
力の弱い人。力の強い人は遠慮した方がいい。足は胴より軽いので力任せに上げてしまうと、頭が下になってしまったり、宙返りさせてしまったりする。

・胴上げ回数と掛け声
回数は5回(何回行うにしろ、事前にはっきり決めておく)
掛け声は頭役の人がやる。
「○○さんの頑張りを祝して~、胴上げ~!!」
「いくぞ、せぇーの!わーっしょい!わーっしょい!!わーっしょい!!!…」
最後の「わーっしょい!」のあとは、頭役が高めのところで支え、胴体役の人達が足が下になるように降ろす。「拍手👏」。

・胴上げされる方の心得
1.貴金属(時計、スマホ、ネックレス、メガネ等)は全て外す。

2.まっすぐ背と足を伸ばして棒のようになる。背中を丸くすると、頭が下になりやすくなるし、持ち上げる面積が狭くなるので受け止め難い。
手は前に伸ばしておく(空の方へ)。
足や手をバタバタさせてはだめ。胴役や足役の顔に当たって怪我をさせる可能性がある。

3.軽い人を胴上げするときはズボンの腰辺りをつかんでおく。
その他
・きちんと皆の息を合わせる
・横投げ厳禁
・胴上げは酔ってからやるものではない。酒を飲む前に行う。






第369話◇やるべき時 ••••••
多くの場合、何かを人に頼む時というのは、「今して欲しい」と思って頼んでいる。
急ぎじゃない時は、その旨を一言添えるだろう。

であるならば、「頼まれた時」というのは、「やるべき時」なのである。
「いつやるの?…今でしょ」である。

「だって」「でも」「後で」などの雑音を立てるより、すぐに取り掛かる姿勢は見ていても気持ちいいものだ。
論語の「君子は言に訥にして、行いに敏ならんと欲す」である。

颯爽としてキビキビと物事に取り組めるというのは、能力であり財産である。

この習慣が身についていないと、なかなか人から取り立ててもらえない。

道場で言うところの、
「返事0.1秒、行動行動0.5 秒、結果は相手の予想を上回ること」である。
これは自分の財産を築いている。よく考えて下さい。


さて、「頼まれたらすぐやる」が身についたら、次のステージ。

それは、「言われる前に動け!」である。
周囲を観察して未来を予測し、「次にすべきことは何か」を自分の頭で判断していかなければならない。

道場なら、作務(掃除)→準備運動・ストレッチで筋トレ・基本… と流れがある。
次にすべきことは分かるはずであり、「言われてから動く」「何も言われないから何もしなくていい」等というのは、「恥ずかしいこと」であるという自覚を持たなければならない。

仕事でも同じ。
仕事は、主体的・創造的に自ら作り出すものであり、どうすれば周囲がもっと助かるか、喜ぶかを考えれば、何もしなくていいというのはあり得ない。

周囲を観察し未来を予測し、主体的・創造的に自分の頭で考えて自分から動けるようになれば、この段階もクリア。


ここまで来ると、機を捉えて波に乗る(時中)ことができるようになる。


やるべき時はいつか?
1.今やる。
2.言われる前にやる。
3.機を捉える(時中)。

よくよく考えてみて下さい。






第368話◇根と花 ••••••
論語や大学、易経などの四書五経の文字は、その魂を表したものであり、それは例えば「根」のようなもの。
根は、よく養わなければならない。
そして、安易に地表に出してはいけない。

自分を貫く義とは、例えば幹のようなもの。
幹は枝葉が伸びてくれば自然と目立たなくなる。

人を笑顔や元気にさせるものは、根や幹ではない。
根や幹に支えられた花や実である。
花や実とは、志を形にしたものたちである。

言葉にするのは、花や実のことでいい。
それらは、人を笑顔や元気にさせるものだから。

根や幹は安易に言葉にする必要はない。
ここぞという時だけでいい。

だからと言って、見えないもの(根や幹)を疎かにしていいわけでは断じてない。

見えるもの以上によくよく鍛錬し養わなければならない。
花や実の美しさは、根や幹の強さにかかっているのだから。

自分の根や幹は、強く大きく深く高く。
しかし、それをあまり語る必要はない。

語るべき、形にするべきは、花と実。






第367話◇裏表 ••••••
物事には、終始本末と陰陽裏表がある。

人が直接見ない「裏」を綺麗に整えると、「表」も自ずから美しくなっていく。

しかし、
直接見える「表」を整えることで、「裏」も自ずから整う…とは限らない。

「裏」は直接見えないから、隠したり誤魔化したりしやすいからである。



ところで、食事後に洗うお皿にも、もちろん裏と表がある。

そこで、お皿は裏から洗う。

表の汚れを残したままにする人はいないだろうから、裏→表という順番で洗えば、洗い残しなくお皿は綺麗になる。


「裏」から綺麗にすると心がければ、「表」に現れる物事は、自然と上手く回りやすいもの。

よくよく考えたいものです。






第366話◇器量 ••••••
大きな詐欺話を手土産に持って来られること、たまにありますよね。

「こちらを騙そうとしているのでは?」
「軽視されているのでは?」
「舐められているのでは?」
もしもそんな風に思ったら、それは自分の器量がそこまでの男だったと諦めるまででしょう。

問題は、相手や状況にあるのではありません。
そんな相手や状況をも包容する器量が、こちらにあるかどうかです。


器量。
女性にとっての器量とは、その容貌の美しさの度合いを指しますが、男にとっての器量とは、人間としての大きさです。


己の器量を大きく深くするにはどうすればいいのでしょう?
志義を確固たるものにして、あらゆる利害得失・艱難辛苦・栄枯盛衰・喜怒哀楽に臆せず挑み、自分の信念を試していくのです。

立ち止まって静かに考えてみれば、明らかなことです。


では、相手の器量を大きく育てるには、こちらはどう献身すればいいのでしょう?

万一、自分の彼氏さんや旦那さんや上司などに対してそんな気持ちを抱いている女性がいたら、参考にして下さい。

それは、

「相手に対し、敬愛の心をもって誠実に接すること」。

つまり、
臆することなくあらゆる利害得失・艱難辛苦・栄枯盛衰・喜怒哀楽に挑み、自分の信念を試していくよう、本人に知られないように仕向けるのです。


そこは、あなたの器量(人間としての大きさ・深さ)次第かもしれません。笑

よくよく考えてみて下さい。






第365話◇日記、続けられたらいいね ••••••
夜寝る前に日記を書くことをお勧めしている。

今日一日の出来事や気持ちを振り返って書き記すことは、自分の志義を新たにし、甘さや弱さに気付き、「喜心・感謝・陰徳」というより良く生きるための先哲の工夫に改めて頭が下がったり…。
心を定め、心を静め、心に活力を湛えるのに非常に有効だ。
もちろん、記憶力強化にも!


しかし、「日記は続かない」…という声も聞く。
「忙しいと日記を書く時間がないし、暇だと日記に書くことがないんだよ」と。

しかし、何事も心がけ。そして、心がけは一生もの。


日記に何を書くか。

■ある人は、日々の出来事。
午前中、午後、夜に分けて、
・何をしたか
・誰と会ってどんな話をして相手や自分の意図はどこにあるかを書いているらしい。

■ある人は、その日の気持ちを絵に描いているらしい。

■ある人は、3つのこと(喜心・感謝・陰徳)を書いているらしい。
1.今日どんないい事があったか?(喜心、感謝)
→自分にとってのいい事が、相手の器量や状況に甘えただけではなかったか?感謝だけでなく報恩に。

2.今日誰どんないい事をしたか?(陰徳と陽徳)
→直接相手を笑顔・元気にすることができただろうか(陽徳)?
また、物事が上手く流れるようにこっそり善事を行うことができただろうか(陰徳)?
一生懸命やっただろうか?

3.今日やってしまった悪い事は何か?なぜそれが悪い事なのか?※
→己の甘さと弱さに流されることと、思慮が浅はかであることに尽きる。
その類型は、
「造化のはたらきを損なうこと」
「道を損ない、志義に反すること」
「負け犬の遠吠えや泣き言」
「己を誤魔化すこと」

※なぜ、「3.やってしまった悪いこと」も書くのか?楽しいことだけでいいのでは?
→自分を成長させるため。
反省(自分を省みて、甘さや弱さを省く)がなければ、独善・軽薄に陥りやすく、自分の成長を阻害してしまう。
独善・軽薄に流れては、いずれ異端となり必ず破綻する。


日記、本気で続けたい人は、自分なりに楽しんだり工夫したりして、日々の習慣になるといいね!






第364話◇甘ちゃん ••••••
私はすぐに泣きごとを言っていた。
その泣きごとは巧みだ。

「なんでこんなにやってるのに結果が出ないんだろう」
「みんなすごいなぁ」
「悔しい、悲しい」
「努力は報われなかったなぁ」

人から同情されることを心のどこかで求め、自分の不甲斐なさを醸し出して、それが人に伝播してしまう。



考えれば当たり前のことだが、

寂しいとか辛いとか悲しいとか、そんな普通なことを、同情を求めるように卑屈になったり落ち込んだり暗い顔をしたりする人…。
そんな雰囲気を少しでも纏って、それが相手に伝わってしまうなら、その幼稚さや甘えに対して嫌悪感を覚え、その人から離れていく人は多いのではないか。

…こんな言い方は冷たいだろうか?


言い換えるとこうだ。
幼稚だったり甘ちゃんだったりする人、
同情を求めたり、落ち込んだり、暗い顔をする人は、
元気になれるのだろうか?
人から好かれるだろうか?
自分の成すべきことを成し遂げることができるのだろうか?

幸せになれるのだろうか?



そういう人は、弱いのではない。

ただただ、甘い人。
未熟なのだ。

なぜいつも、そう考えが甘いのか。
心のどこかで、「どうにかなる」と思っているのだろうか。

そのような甘い人は、天邪鬼になったり、自分を壊したり、他人や物に当たったりと変な刺激を求めることが少なくない。

身体だって、本当にきつい鍛錬の直後は優しい水を欲することが多いが、怠慢な生活をしているとカフェインや炭酸やアルコールなどの刺激の強い物を欲するようになる。

そうすると、自分の「甘さ」と、自分を傷つける「辛さ」とで、バランスが取れてしまう。
しかし、こんな愚かなバランスの取り方を選択してどうする?


改めるべきは、根性。
自分の甘い心を別のもの(例えば義に順う心等)に入れ替えることである。
自分の中から勇気を絞り出して変えていくしかない。

そうやって変化させていく力は皆持っている。力を持っていながら怠慢であってはいけない。


誰でも、緊迫感を持って一生懸命に物事に取り組んでいるなら、皆強い。皆甘くない。弱い人など、なかなかいるものではない。


今夜も、自分の甘さに蓋をするような稽古ではなく、甘さを捨てて、本来の自分に戻れる稽古を。






第363話◇精神と心の関係 ••••••
字義からすると、

精神
・「精」は精米と言うように、純化された状態を示す言葉。
・「神」は「こころ」「しん」と読み、「働き」を表す(エネルギー)。個を超越した霊的な心のはたらき。
従って、「精神」とは「純粋な心のはたらき」の意味。


・「心」は「神」が作用する場所であり、個の意志的な内面の動き。
「心」はもともと「心臓」を意味し、心臓で精神的な作用が営まれていると考えられていたので、「心」は「精神」のような意味になった。


これらを踏まえて精神と心とその関係を考えてみると、

精神
・精神とはエネルギーである。個を超越した万有の霊的な心のはたらきであり、造化(誠、義)を具現化するエネルギーである。


・心とは空(くう)である。従って、物事に触れることで、おのずから善も悪も(※)生じやすく、また、善悪どちらにも動きやすいものである。
心とは、個の意志的な内心の動き、意思である。

立居振舞や言動、相貌の変化は、この心の動きによって生ずるものである。

※善…敬愛・勇気・忍耐・節度など、造化へ向かうもの。
※悪…臆病・怠惰・卑怯・無関心・惰弱など、造化から離れるもの。


両者(精神と心)の関係は、陽と陰、君と臣、本と末、形と影のようなものである。


この心の動きのエネルギー源が精神であり、心を束ねるものが義であり、その行き先が志(造化、道、目標、夢)である。

従って、精神(エネルギー)が弱ければ、心もそれに追随するため弱く、義を持って心を束ねなければ我意に流れやすい。また、志がなければ我欲に流れやすい。


結局、「心」が善に動くか悪に動くかは、「精神」の強弱と志義の有無による。

そして、精神の強弱は、元気(気力・骨力)の強弱による。

従って、元気(気力・骨力)があるというのが、まず大切なことである。






第362話◇ダイエット ••••••
節食によるダイエット。
意思の力も勿論あるが、例えば目標設定を「あと3kg痩せる!」という、未来の結果において食事制限をすると、失敗することが多いと思う。

強い意志が必要なものは、例えば目的を結果に置くのではなく、


「食べない」という行為(不作為)そのものに置く。


あとは自分の身体の声と相談。


例えば、
目標…「食べない」(1日1食腹八分)。






第361話◇教える側と学ぶ側 ••••••
あなたの口から、「自分を追い込んだら自殺してしまうかも」という言葉を聴いたのは驚きでした。
ただ、あなたが自分を厳しく追い込む性格の原因の一端は、私にあるかも知れません。

私は以前、人を生かさず殺さず、絶望の淵まで堕としてそこから這い上がること、這い上がらせることの繰り返しが教育だと考えていました。

「獅子はその子供を千尋の谷へと突き落とす」と言う。そのから這い上がってきた生命力の強い子供だけを育てるというもので、深い愛情があるなら、わざと厳しい試練を与えてその才能を試し成長させるべきという考えです。

しかし這い上がってきた者というのは、その者の甘さや幼稚さを捨てさせ、力強く豊かに生きていくために、たまたまその時適した方法であったという者が多いのです。
それが、他の人や他の環境に適応するとは限りません。

しかし、相手や時を見ずにそのやり方を通せば、這い上がれる極めて少数の者は強く豊かになり、這い上がれない大多数の人は潰れ、私との関係がトラウマになることも少なくありません。
このやり方では、本当に極少数の者しか育ちません。
そうしてきたからよく分かっています。


このやり方は何か悪いのか?

未熟なやり方であると今は考えます。
なぜなら、厳しくすべき時に厳しくする、励ますべき時に励ますというような、応病与薬(時に応じた適正な応対)になっていないからです。常に厳しいのですから。

物事や状況は変化する以上、その応対が厳しさ一つなら、それは指導者の独善となり、結局のところ破滅へ向かいます。


確かに、何かを学ぶときや、自分を変えていくときには、その志と心が浮ついていてはモノになりません。
だから、志と心の在り方を定めることについては真剣になります。


しかし、志や目標を共有しその筋道を立てた後、何をどう学ばせるかは、「応病与薬」であるべきで、決まった処方があるわけではないのです。
また、その人が何処まで強く大きく豊かになるかは当人の志と器量の問題であって、一律的な目標を設定するというのは本筋ではありません。

人格教育でも、知識・技術教育でも、その本筋は、その人が造化(創造変化)の働きを、その資質や環境に応じて様々に具現化(進歩発展・包容深化)していく力の拡大にあります。
ですから、教育修養を重ねれば重ねるほど、義は確固たるものに育ち、志は高くなり、様々なことに柔軟に自分を発揮しながら応対し、また挑戦することが巧みになるのです。そうでなければ、何のための学問・教育・経験でしょうか。


例えば先哲の英知は、学問や芸事におけるその道筋を「蔵→修→息→遊」「守→破→離」という形にしてきました。



志と筋道が立ったなら、臆せず進むことです。時に応じて弱・悪を去り、強・善を選び、至らなければ反省して態度を改め、そしてまた進むのです。
そのためには、何が良いとか悪いとかではなく、時に応じる。その時にピタッと的する(時中「易経」)ことが大切になります。それが志(目標)や造化の具現化へと向かう力だからです。

だから、志を立てずに学問や事業に取り組んだり、時に応じることなく我を通しても、大したものにはなりません。


もちろん、志を立てずに、ただ成功を望むという気持ちも私なりに分かります。

しかし、
何事もそんな浅はかで狭いものではありません。
学問でも事業でも人間関係でも、もっともっと強く深く広く高く、そして尊きものです。
少なくとも、そうあるべきだと考えています。


教育者にとって大切なのは、「厳しく」することでも、「励ます」ことでもありません。

大切なのは、
自ら手本を示すこと。
厳しくすべき時に厳しくすること。
励ますべき時に励ますこと。


そして、学ぶ側が事を成していく本筋は、
「志を立て」
「時に応じ」
「感謝を忘れず、臆せず進むこと」です。

では、今夜も稽古を始めましょう。






第360話◇奥義・秘術 ••••••
例えば奥義とか秘術と言って秘密にするほどの技術というものは、実は造化に向かわない。
その意味では、秘密にしておく奥義など取るに足らないものである。

そもそも物事とは、秘密にしようとするとかえって目立ってしまうもの。


武道の技が人を倒すものであるなら、人を活かす術にも通じていなければ、
それはホンモノではない。


結局のところ、武道の技術とは仁術であり、従って、武道とは自他を活かして造化(創造変化)の働きを様々に具現化していく道である。

そのようなものを、どうして秘密にしておくことができるのか。

秘密のままでは造化の働きが具現化されないではないか。


奥義というのは、あるとも言えず、無いとも言えない。臆するものでもなく、蔑ろにするものでもない。

造化の働きを具現化し、道理を体現する。
当たり前のことを当たり前に行う。
そういうものであり、そのためのものである。

そして、それが道というものである。





道場法話 2017年度 10月


第359話◇精神力が弱い? ••••••
精神力を鍛える方法、
五感を研ぎ澄ませる方法、
どちらにも共通するとても有効な方法を知らないかって?

本当は皆知っているはず。


「断食」です。


断食して精神力を養い、五感を研ぎ澄ませ、
改めて自分の志義を確認して下さい。

義に順い、志に向かって
無我夢中で己の道を行なって下さい。






第358話◇心形一致 ••••••
字を習うとは、うまく書くというのではありません。それによって心を整えます。
心を形(かたち)にすることで文字となります。


初めのうちは手本の通りに書く程度ですが、やがて心を静かにし、文字が心に写り、心が筆を動かして文字という形になります。

弓道において、「的に当たらなくてもよい」と言われることがあります。
同じ意味ではありませんか。


形を学ぶのは心を整えるためです。
その心から、様々に形が作られます。

形だけを整えようとする心も、
形はどうでもいいという心も、
どちらも本筋ではありません。

心形一致。

それが稽古の本筋です。


そうすればこそ、形と心の間の違和感を感じられるものです。
自分の違和感も、人の違和感も。






第357話◇楽しむことへの罪悪感を抱くなら… ••••••
「楽しむ」とは、無我(我欲がない)の状態で、対象と一体になるような、全身全霊で取り組む姿勢であり、造化の働きと一致する。
陰陽相対の見地からすれば、「苦中に楽有り」である。

楽しむ姿勢とは、積極的で自ら恥をかくことを厭わず、主体的創造的であり、無我夢中になって寝食さえ忘れている。
だから、伸び伸びワクワクウキウキ…気持ちよく心が満ち足りて、明るい気分になる。 それでいて感謝や謙虚さや調和を忘れていない。

自分のやり方で「楽しむ」からこそ、自分を溌剌と躍動させて、自分を発揮することができ、様々に形作ることができる(造化)。

「楽しむ」という造化(創造変化)の働きが生み出すものは、様々な物事であり、笑顔や喜びであり、新たな可能性等、沢山のものである。


さて、ここに「楽しむことへの罪悪感」を強く持って、物事を楽しめない人がいるとする。その人は、何が楽しいか忘れてしまった。楽しみ方も分からない。笑顔も少ない。もちろん、本人は罪悪感を抱いているのだから、その態度に納得している。

しかし、それは人生に挑む態度ではない。

そんな罪悪感を抱いていたら、
・笑顔が少なくなる →魅力がない
・無我夢中になれるものがない →怠慢
・主体性創造性が失われる →自分を失う
・自分の才能や個性が発揮されない →罪悪
・造化へと向かわない

これでは、自分を生きていないことになる。これこそ罪悪だ。


己に返り、反省するしかない。
反省するために罪悪感は利用する。

誠の自己を発揮できるよう、
自分も相手も喜ばせるよう、
つまり、造化へと向かうよう心も思考も言動も改める。もし改めないなら、それこそ過ちだと「論語」も教えてくれている。

自分から逃げずに、勇気を振り絞って積極的に立ち向かう。それこそ人生に挑む態度だと思う。
ゼロからでもマイナスからでも、自分の志義という根源に戻って、そこから積極性をもってやり直す。
臆したり怠惰だったりする態度は、そもそも人生に挑む態度ではない。


そんな姿勢なら、やがて
・腹の底から笑い、喜べる
・無我夢中で寝食を忘れることができる
・主体性創造性を取り戻す
・自分の才能や個性を発揮する
・造化そのものになる



反省して改める。
「楽しみ方」は自分で見つけなければならないが、罪悪感を抱き続けることは自分を殺してしまう。償ったら改めることだ。

「楽しむ」とは、無我(我欲がない)の状態で、対象と一体になるような、全身全霊で取り組む姿勢である。
快楽を求めたり、楽をしたり、苦労をしないということではない。

楽しむことで造化の力は具現化される。

楽しむことで笑顔になれる。
笑顔な素敵な人こそ、人生を生きるに相応しい人だ。






第356話◇楽しみ方 ••••••
論語に「これを知る者は、これを好む者に敵わない。これを好む者は、これを楽しむ者に敵わない」という趣旨の言葉があります。

「楽しみなさい」と先哲は伝えてくれています。

楽しむには方法があります。
そしてその方法は人それぞれ。

だから、楽しんでできる「自分のやり方」を見つけられるかどうかが、重要です。
勉強も、仕事も。そして、人生も。

それは学校や人から教えられるものではありません。人それぞれだからです。


もし、勉強や人生がつまらないとしたら、それは(楽しむやり方を見つけていない)あなたがつまらないのです。

自分を楽しませるのも自分。
自分をつまらなくさせるのも、やっぱり自分です。

「楽しい」という感覚を知っているでしょう?
その感覚に素直になって、様々に挑戦して自分のやり方を見つけて下さい。

臆病、卑怯、怠惰、無関心等のつまらない態度は、自分の人生(勉強も仕事も人間関係も…)に挑む態度ではありません。

人生に挑む態度とは、勇気を振り絞って立ち向かうことです。


自分の生き方で、自分を生きる。
今夜もそのための稽古です。

楽しんで下さい。






第355話◇大切なものは脆い ••••••
大切なものは、どれも温かくて柔らかくて、そして脆いものです。
絆、信頼…強く見えたとしても、とても脆いものです。

だから、大切なものを壊すのは簡単です。
何年も何十年もかけて大切にしてきたものを一瞬で壊してしまうのは、ある意味快感を覚えるかもしれません。

そうやって怨みを買ってきてしまいました。
「誰かに怨まれる覚えがあるのか?」と聞かれたら、愚かなことですが「心当たりがありすぎて…」と、しどろもどろになってしまう自分がいます…。


しかし、当たり前ですが、失ってからでは遅いのです。

大切なものをわざと壊す輩もいます。自分のものであっても、人のものであっても。

そして、そのことを、地獄に堕ちても学ばない人もいます。


だから、その大切なものを守り育むために、強くあらねばなりません。
軽率という甘さ、臆病、怠惰、卑怯…全て大切なものを破壊してしまいます。

大切なものを大切にする。
そのために強くなる。


それができなければ悲しいだけです。

何度も言います。
「大切なものはとても脆いものです。だから、日々強く強く守って、大切なものを大切にして下さいね」


晴れの日も、雨の日も。






第354話◇調子を下げる ••••••
少し調子を下げる。
そうすれば大抵のことは「うんうん、そうだね」でいい。

しかし、覚悟を決めて取り組むとなったら、そう簡単にはいかない。
覚悟を決めてとなったら真剣だ。

遊びなら「そうだね」でよかったが、真剣となったらそうはいかない。

「それは全くなってない」
「それではダメ」
「未熟者」

簡単にはいかないよ。笑

単なるお遊びなのか、それとも真剣なのか。
態度によって、調子を下げるかどうか決める。






第353話◇議論するときの心得 ••••••
「論語」に、「本立って道生ず」とある。
重要なこと、難しいこと、大きな事ほど、根本に立ち返って掘り下げて考えることが大切。

私達が議論する時の心得として、
1.このテーマを私達は長い目で見て議論するのか、それとも短期で結果を出すために議論するのか
2.多面的に見て議論するのか、それとも部分的に見て議論するのか
3.根本的・本質的に見て議論するのか、それとも表面的に議論するのか

これらを区別しないと、混乱したり結論が出なかったりする。

この尺度を持って議論に臨むこと。
そうすると、あいつと議論しても意義はないとか、相手とこちらの筋を通してから始めれば大丈夫…ということが明らかになる。

さらに、
4.自分の事として議論するのか、他人事として議論するのか
も考慮する。

こういう点を曖昧にしたまま議論しても、話は噛み合わない。


もし議論するなら、
当事者全員が「議論の心得」を持って議論に臨むこと。

そして大切なのは、ここから。
4.自分の事として議論の問題を追及していくのなら、「出来ないことはない」という結論に行き着くはずだ。
「無理だよ」というのは、それを他人事、一般的、短期的、表面的なこととして捉えているからだ。

為せば成る 為さねば成らぬ 何事も
成らぬは人の為さぬなりけり(上杉鷹山)






第352話◇心構え ••••••
「私に任せて下さい!」と言う人がいる。

…その結果、最悪の事態を引き起こす。
一体この状況をどうするつもりなのか?

だから、尋ねた。
「その楽観的な準備で大丈夫ですか?」と。

そんな心構えだから足元をすくわれる。
あなたの言う「全力」とは何か?

「何かあったらみんなで前向きに考えよう」

そんな心構えで問題に深入りしてはいけない。そもそも「構え」になっていない。


事態が収拾しなくなったところで「何か手伝うことありませんか?」と言う。

そんな心構えで出来ることはここにはない。

心構えを変えなければ、同じ過ちを繰り返すだけ。
後始末は、心構えのできている者達で。


心構えとは、日頃の心掛け。そして、いざという時の対処法をあらかじめ心に決めておくこと。
それは、些細なところに出る。
例えば、競技中ではなく入退場に気が緩む人は、心構えが分かってない。

日頃の心がけと、いざという時の対処法と覚悟を忘れずに。
その上で、今日も稽古を楽しみましょう。






第351話◇あなたの志は何ですか? ••••••
入門希望者には、質問があります。
あなたは、自分の立場(学生、社会人、夫、妻、父、母、経営者、主任、部長…)の自覚はありますか?

「はい」と答えた皆に、
もう少し質問させて下さい。


問)あなたの志は何ですか?



もし、自分の立場に自覚を持ちながらも、己の志を答えられないとすれば、
それは、用意された役割に乗って生きているからかもしれません。

もちろん、義がなくても、志がなくても、役割さえ与えられれば生きていくことはできそうです。

志義を掲げて生きている男と、
志義を持たずに生きている男。


入門希望者には…様々な男がいます。






第350話◇些細なことから、義を貫く ••••••
誰かが「そんな事はする必要ない」「放っておけ」と、あなたに言った。

その誰かは、あなたに対する思いやりから言ったのかもしれないし、独善からかもしれない。それは分からない。
また、それが正しいか間違っているかも分からない。
「分からない」というのは、見方によって答えは変わるということだ。

「放っておけ」と言った誰かに対して、その言葉を否定してぶつかる必要はない。そんなことでぶつかるのは未熟過ぎる。
「ありがとう」と感謝で応えればいい。

しかし、自分の良心の声は何と言っているか。自分の義が「やる」と言うなら、躊躇する必要はない。
義に順(したが)うのだ。

そうでなければ、いずれ自分を見失う。

主体性と創造性を放棄して、物事を相手に委ねるてばかりいるなら、積極性と元気は失われていく。
それが積み重なれば、臆病という病に罹る。
臆病は怠惰を生み出す。それは誰にとって意義があるというのか。


わがままに振る舞えというのではない。
我欲ではなく、己の義(誠の心)に順えと言っているのだ。

義がなければ、己の行動基準は損得になりやすい。
損得の上に立てた志では行き詰まる。
それでは、溌剌と自分を躍動させて己の道を行えない。
己の道を行えないのは、とても辛く情けないものだ。


誰かに(親しい人、尊敬する人であっても)何かを言われ、それが自分の行動の有無を促す時、相手には感謝して己の義を貫くのだ。その中で調和を図ることを考えればいい。
主体性・創造性を無くしてはいけない。

義もなく、志もないなら、
周囲に流されるか、役割にすがるしかない。
役割の上には派閥がある。どの派閥に入るかを考え、派閥とは自ら作るものだということを忘れる。

そういう生き方をしたいのだろうか。


自分が順うべき「己の義」は何か?
義に順って社会に形作っていく「己の志」は何か?
志を形にした「己の夢や目標」は何か?
勇気はあるか?
敬愛はあるか?


私たちにまず必要なのは、
志義・夢・勇気、そして敬愛でしょう?

これらを軽視して、何を無駄なことばかり考えたり行ったり集めたりしているのか?


稽古の前、5分正座して己を戒めたい。






第349話◇義とは? 志とは? ••••••
今月の会報より抜粋
「私達は己のことを「自分」と呼びます。
自分の「自」とは自由の自です。自ら行うべ きことに理由があることを自由と言いますから、私達は独自・絶対的な存在です。この 独自性・絶対性が自分の「自」に当たります。

そして、自分の「分」とは分際の分です。
社会において人は皆それぞれ一部分を構成します。他との境界や自分の限界を分際と言いますから、そこでは私達は相対的な存在 です。

絶対的であると同時に相対的な存在であるという、私達ひとりひとりの存在を表す言葉が「自分」です。

「自」は、いかに生きるべきか。どういう自分で在りたいか。どんな自分をつくっていくか。これは、己が歩む道の実践的問題です。如何に生きるべきか、この自らにとっての 一貫したものが「義」です。換言すれば、自分が順(したが)うもの、自分にとっての 正義です。

私たちのグループ本体の義は「人が人間として気高く生きることの美しさ」です。
私の義は「太陽のように主体的・創造的で大きく明るく温かく、重圧のもとでは威厳のある男」「温にして厳しく、威ありて猛からず、礼節があり安らけし」。

言葉以外でも、 その精神が宿って形になったものを掲げることもあります。
例えば、E-1。EZM-1。
これらの理想精神に自分を従わせて生きることが、義を貫くということです。

自分(絶対性)を貫くものが義です。
「分」は、分際であり相対的なものであり、社会との関連を積極的に捉えれば、主体 的・創造的に社会(他者)に対してどう処していくか、何をつくっていくかということになり、それを「志」と言います。

造化の観点から言えば、己をどのような形にしていくか、その骨になるものが「義」であり、社会(他者)に対して何を形にしていくか、その骨になるものが「志」です。

私たちのグループ本体の志は「東洋思想をベースに、義を貫きながらお互いに切磋琢磨して人物を磨 き、社会の各分野におけるリーダーを輩出し続けること」。
私の個人的な志はここでは言いませんが、いくつもあります。

自分(相対性)を拡大させていくもの、他に対して貢献していくものが志です。 」


「貴方の「義」は何でしょうか。
貴方の「志」は何でしょうか。

自分は如何に在るべきかという理想は持っていますか。
どんな自分をつくり、他者や社会に対して何を形作ろうとしていますか。

そして、形にしたことについては、何をやったかということより、何のためにやったか、自分の中の志義を見極めたいです。」





道場法話 2017年度 9月


第348話◇誠(志義)に順う勇気 ••••••
「苦しい、辛い、嫌だ、ちくしょうちくしょうちくしょう…」
そうやっていつも歯をくいしばる。

心には、追い出したい自分がいる。
弱い自分に負けると、そんな自分を誤魔化すように、欲望や感情を別のもので満たそうとする。音楽だったりケーキだったり旅行だったり…。
それは気分転換でも癒しでもなく、ただの逃避である。


そんなことを繰り返せば繰り返すほど、心は弱くなる。
せめて求めるのは、ためにならない救いの言葉だけ。

苦しいのは諦めたり逃げたりするからだ。克服するには、諦めたり逃げたりしないこと。
それが分かっているのに、そんな自分の気持ちを誤魔化したり抗(あらが)ったりするから、おかしなことになる。


迷ったら、正座をして目を閉じる。そして心の声が聴く。

自分の弱さに言い訳をせず、心の奥底の誠に従う行動をとれれば、自分を好きになれる。

「ずっと苦しかった」
そう言えるのは、自分の弱さと向き合い、弱さを認め、受け入れた時だ。それが自分に対して勇気を示すということだ。

そこに少しでも自己弁護や誤魔化しがあったら何も変わらない。

自分の誠の心が何より大切。


「本当は…こうしたいんだろ」
建前、体裁、世間体、鎧をつけた自分ばかり意識して生きるのも本人の選択だが、自分の誠を自分に貫けないというのは、やはり情け無い。

良心、誠の心に従う勇気と、それを行動に移して具現化する勇気。


誠と勇気
大切な、当たり前のこと。






第347話◇觔斗雲(きんとうん)という心 ••••••
私達の心はどこにあるのだろう?
胸の中だろうか。頭の中だろうか。

体の中に心があるとも限らない。


孫悟空が乗っている觔斗雲(きんとうん)をイメージできるだろうか。
あんな風に、私達は心の上に立って生きているのかもしれない。笑


心身一如である。
だから、自分の心を踏み躙(にじ)れば、身体も痛む。人の心を踏み躙れば、人はその心の上でひっくり返ったりもする。

心という觔斗雲(きんとうん)は、大きさも形も柔らかさも変わる。
大きく温かく柔らかくて、身体を弾ませてくれる時もあれば、冷たく暗く底なし沼のように身体を飲み込んだり、刀のようになって身体を引き裂こうとする時もある。


この心という觔斗雲(きんとうん)に乗って、人はいつも戦っている。

その目的は勝ち負けというより、一人一人がその誠の心(志義)に順って「自分を溌剌と生きる」こと。


夜には、觔斗雲(きんとうん)を整備する。
そして一つだけ自問する。

「今日、闘ったか」。


明日も、健康と健闘を!






第346話◇早朝ミーティング ~人は生きもの ••••••
・人間を生きたものと思っているのか。皆、飯を食べるし、様々に好き嫌いもあるし立場もある。人間は生きたものだから、そのつもりで扱わなければならない。接しなければならない。
死んだものとして扱ってはいないか。

・あいつは出来る男だと思えばこそ、ひどく言う事もある。

・外のことをよく知っていて、それから自分のことを言うのならその人の話はよく聞く。
しかし、ただ外のことに不平不満ばかり持って、その複雑さを知らない者が自説を述べても、皆がその者の話を聞くのは一時の興味からであって、本気で聞くわけではないし、その自説が広まる道理もない。

・人は、褒める人ばかりに取り巻かれていたらみんなダメになるし、自分が正しいと言う者は、どうも浅薄で信用できない。

・事を成す者は、才に走ってはいけない。何よりも愚直さ。そして「機」に乗じてやらなければならない。やった事に道理があると言われるのに5年、もっともだと頷かれるのに10年、20年経たなければ分からない。20年経てばそこに残るのは道筋だけ。その筋を見て判断される。今日明日の判断など何のアテにもならない。


さて、今日も健康と健闘を!






第345話◇溫故知新 ••••••
「溫」
…囚人に水と食事を与え、落ち着いたところで相手のことをたずねる。慈悲、恕(包容し親しみ育む)。明徳を明らかにする。

「故」
…過ぎ去った昔のことを意味するだけでなく、「由緒、本質、根源、原因、もともと」という意味。

「知」
…つかむ。頭で理解するというより身体で知る。支配する、治める。 動物的に行くのではなく、人間的にそこへ行く。遊びで行くのではなく、本気で行く(つかむ)。

「新」
…辛・木・斤を組み合わせた字。
辛は努力を意味し、斤は木を斬る大斧、これで木を斬ること。明らかに見分ける、慈しむ。
つまり、よく慈しんで木を育て、適材適所を見極め、努力して加工し、新たなものにして活用していくことを表す。
本当に新しくするには、周到な準備と努力を要する。


「溫故知新」
→そのものの本質を明らかにしてよく見極め、そこから新たなものに変化させて活用していく。
この一連の流れを身体でつかみ、様々に往(過去・本質)を継ぎ、来(新・未来)を拓いていくこと。


人としての根源や本質に触れ、自分に合う思想・思考・心を再びつかみ、それを様々に活かして形にするよう自覚を新たにしたいです。






第344話◇強さと優しさの根源は同じ ••••••
より強く優しくなるためには、自分を忘れて、自分の私利私欲や私的欲望を無くして、目標や義や志や人に献身して行けば良い。

強さ優しさの根源は同じもので、それは「慈愛(無私・無我)の献身」である。


無我というのは、「自分の存在がない」「自分の考えや意志がない」等の、軟弱な意味ではない。
それは、私利私欲や私的欲望がなく、対象に没頭・集中して、対象と一体となっている熱くて強固な状態である。
造化の働き、忠恕の実践そのものになっている状態である。
集中、覚悟、没頭、熱意…こんな状態である。

そこには風格や威厳が備わってくる。


そもそも、
強く優しくなるという選択をするのは、
「造化」の働きを具現化するため。
例えば、私達が幸せに生きられる世の中(家庭、職場、地域社会…) を創り出すとか…。それぞれ、形にしなければならないもの、やり遂げなければならないことがあるだろう。


そのために、
「無我」であること。
「素直」(第342話◇素直という強さを 参照)であること。 http://feghowa.officialblog.jp/archives/4079298.html

それが、造化のはたらきを形にするという「選択」である。


根源に還って、そこから様々に作り出していく。形にしていく。

主体性と創造性をもって、主人公として真正面から物事に対峙し、動けば、それだけ未来は明るくなっていく。






第343話◇素直という強さを ••••••
「素直である」とはどういうことか。
辞書には、「ありのまま、ひねくれてない、真っ直ぐ、クセがない」等と書かれている。


東洋思想からすると、
・「素」と言えば「中庸」。
「君子その位に素して行い、その外を願わず。富貴に素しては富貴に行い、貧賤に素しては貧賤に行い、夷狄(いてき)に素しては夷狄に行い、患難に素しては患難に行う。君子入るとして自得せざるなし」。
訳)それぞれの立場や状況に応じ、傲慢や卑屈になることなく、臆病・怠惰・卑怯・無知に流されることなく、己の誠や志義を貫くよう振る舞うことが大切。
立場や状況にぴったり合わさって一体となる。勝海舟は、そこに感激を覚えると言った。

・「直」と言えば「荘子」。
「己に直くして、人に曲がる」。
訳)自己に対しては誠の心に誠実に力行していくことが大切だが、人に対しては寛容に。


つまり、素直(素に直くする)とは、
自分の奥底の奥底にある誠の心に誠実に、その時その時の立場や状況にぴったり応じて、状況を打開・展開していく態度である。


しかし、なかなか素直になれない人もいる。

素直になる勇気はないが、意地を張ったり、天邪鬼だったり、ツンデレだったりするのは得意だという人も多い。

私も天邪鬼だが、要するに自分を把握することを怠り、自分にも周囲にも甘ったれているのだ。弱いのだ。

勿論、弱くてもいいという考えもある。
ただ、問題もある。それは、弱いままだと自分も周囲も不幸に陥ってしまうことが少なくないのだ。


中には強さを嫌がる人もいるが、強さを冷酷や残虐や粗暴さと勘違いしていないだろうか。
強さとはそういうものではない。

強さとは、大きく明るく温かいものだ。
強さとは、造化(創造変化)であり、それは全てを受け入れる包容力と、万物を変化させていく展開力である。造化とは自然である。

また、強さ優しさの根源は同じもので、それは「慈愛(無私)の献身」である。


「素直(素に直くする)」という、自分の誠の心(造化の心)を立場や状況にぴったり合わせて自己を実現していく態度は、自然体そのものである。

自然体は強い。
つまらない意地を張ったり、天邪鬼やツンデレでは到底敵わない強さを持っている。


「素直」という強さは、皆持っている。
手離さないようにしたい。






第342話◇完成させること ••••••
大切なのは、「完成させること」であって、「完成」ではない。
その違いは、過程に重きをおくかどうかである。


これから取り組むそれは
「男らしくて面白い」かどうか。

そんな基準でやるかやらないか決めてもいい。そして、やった後どうするのかの筋道を立てておく。

「誰を味方にしようか」などと小さいことを考えていると間違える。
みんな敵でいい。敵が居ないと物事は達しない。
誰も味方がいない?みんな敵?それは条件がいい。それならできる!
人に相談相談等と軟弱なことを言わずに、不撓不屈、全身全霊でぶち当たること。
主体性・創造変化・新陳代謝を忘れなければやれる。為せば成る。
精神一到、何事か成らざらん。

完璧主義はダメ。臆病も怠惰も卑怯も無知もダメ。そして、なんでも自分が成し遂げようというのもよくない。誰がやってもいい。目的を達すればいい。

「まだまだ準備不足だから」と言うが、そもそも100点満点の準備をしてから行うというのがよくない。
不意に始めて、不用意に経験してくる。臨機応変に主体的に創意工夫して、道を作っていく。
自らの創意工夫にワクワクがあり、臨機応変に現状を展開していくところに感激も生まれる。

大昔から大きな功績を残した人は、人に知られない。100年後1,000年後に分かる。
西郷隆盛ではないが、人を相手とするのではなく、天を相手に行えばいい。

人は「公私半々」ならば、それだけで凄い奴だ。マザーテレサやイエスキリストの人格は全て「公」だったかもしれないが、なかなかそういう人間はいない。
孟子や佐藤一斎は「性善説」、荀子は「性悪説」を説いたが、性悪の方が多いみたいだ。笑
私は性悪というより「性弱」と言いたいが。笑

自然の法則は目には見えないが、眼前に広がる現象は自然の法則に基づいている。


ま、辛いしんどい苦しいと言っても、知らない間に通り過ぎてしまうもの。
100年位、不撓不屈で志を貫こう。






第341話◇自分の役割に気付く ••••••
力仕事は男の役割でしょう。
自分の役割を果たすのに、他者から感謝されるという意識は全く持たないものです。

そこが、多くの人が自分の個性や才能に気付かない所以かもしれません。

周囲から、「あの人の個性は…、才能は…、能力は…、いいところは…」などを言われても、本人は意識していないので気付かない。
謙遜してしているのか、人から認められても「いやいや…、私なんて全然…」と否定することも少なくない。


自分の才能を自覚させる言葉が、そこに含まれているかもしれない。
だから、人の言葉はきちんと聞かなくてはならない。


歳上を敬し、歳下を侮らず。

虚心坦懐(きょしんたんかい)に。


※虚心坦懐…
心にわだかまりを持たず、素直でさっぱりした気持ち。無心で平静な心境。偏見が無く、心を開いている事。






第340話◇教える技術 ••••••
教える技術には限界がある。
それを飛び超えるには、学ぶ者が自分で努力する以外にない。

だから、修行に励む。

本人の主体性・創造性を阻害すると分かったら、師はそこから先へは踏み込まない。

教え尽くすというのは、指導の自殺行為に等しい。


修行者の「工夫」が大切。
修行者が自分を開発する能力を、師が奪うわけにはいかない。

だから、
「教えない」というのは、時に何物にも代え難い貴重な教えである。






第339話◇カタツムリ ••••••
「私はカタツムリみたいにのんびりしてるんです。みんなのようにテキパキできません」

…って、言いたいけど言えない辛さ、よ~く分かります。
その辛さを口に出してしまったら、ただの泣き言になってしまいますから。

ここで泣き言は言えないですよね。
でも、その辛さは私なりによく分かりますから。

カタツムリは可愛いいものです。
その風貌や動きから、
「有る角も 出さねば幻 カタツムリ」
…こんな風に詠まれたりもします。


しかし、

カタツムリはいつも全開だ。
私達も全開か?


カタツムリが一緒にいたら怒鳴られる。
「カタツムリを舐めてるのか、この野郎!
いつも全開でいけ!軟弱野郎!!」


全力を尽くして初めて、カタツムリと肩を並べられる。






第338話◇観念の答えと、実際の答え ••••••
「簡単に言ってくれるよな」。

物事に関する様々な問題を、健康な人が書斎で考えて観念で出した答えはスマートだ。
しかし、頭を使って求めた答えは、それが観念にとどまる限り、実際の役に立たないことが多い。

実際の運用において問題解決の答えは、身体で具体的に示すことができるかどうかである。

稽古で身体を動かす必要性・重要性はそこにある。


では皆に問題を。
金、女、酒で失脚する男は少なくない。では、その中の一つである性欲について。

「女とやりたいとき、どうしますか?」


門下生たちは皆、女から誘われることも少なくないだろう。
そんな時、浮気・不倫・掛け持ち・Hフレンド・ハニートラップ・美人局…そんなものに関係なく、自分の性欲に忠実に女を抱きまくるか。
それとも、「女には全く興味がない」境地を目指し、性欲という人間の本能を断った生き方をするか。

どちらの答えも、観念でなら簡単に出せる。
しかし、私はこう考える。

どちらの答えも人間らしくない。

「修行したら女を断てる」などという浅はかな考えは受け付けない。
人間には本能や欲望はもともと備わっている。それを捨てることを目的とする修行というのは人間から遠ざかってしまう。それは価値のないことだ。
かと言って、「欲望に流される弱さが人間らしさだ」という軽薄な考えは人間の尊さを否定している。その考えも軟弱なだけであり、価値はない。


では、どうするか?

性欲をコントロールしたいなら、性欲の正体とは何かを自分で見極めてみる。

そして、性欲の中にあって、性欲を超える生き方を求める。

性欲に振り回されるのはダメ。
性欲を否定するのもダメ。

性欲 vs. 禁欲
こういう対立的な考え方では解決しない。

陰陽の対立を統一調和させて一段上に上がることを「中」と言うではないか。

性欲は生命ある限り、無くなるものでも無くせるものでもない。

私の答えはこうだ。

「流れに従うが、流れに委せない」
「性欲を肯定して自己統制していく」


ま、観念的な答えなど、こうやって容易に出せる。

で、重要なのはここからだ。
答え(性欲を肯定して自己統制していく)を、日常で如何に体現していくか。

性欲と禁欲を統一調和させた答えを、その時その時において身体で示すこと。

…容易ではない。笑


皆は、「女とやりたいとき、どうしますか?」






第337話◇大き過ぎると ••••••
相手があまりに大き過ぎると、その存在を意識できない。

例えば、親の子に対する慈悲。
偉人たちの志。

あまりに広大な恩は、恩があっても無いように思えてしまうことがある。

形があったり小さいものならば、よく見えよく分かるが、大き過ぎるものは理解できないことがある。

だからと言って存在しないわけでは無い。

包容されているのだ。

知らないことは存在しないことではない。
己の小ささ、浅はかさの戒めとしたい。






第336話◇志の大きさ ••••••
「あの大会で優勝したい」「あのコンベンションで最優秀賞を取りたい」「世界一になりたい」…。

その志たるや、あっぱれ!!


しかし、私の本音は、それではまだまだ小さいと思っている。

世界には約74億人。業界は様々。
今、生きている人の数が有限である以上、ある業界で第一等になろうとすることは、絶対無理というものではないだろう。

しかし、生きてる人たちだけではなく、過去に死亡して故人となっている世界中の人々を全員含めたら、その人数はどれほどになるか。

たとえ、今日「やや人より優れている」と傲慢に思ったとしても、明日死んでしまえば故人の仲間入りだ。

ここで、自分の成してきたことを故人の成してきたことと比べてみたら…、
小さくて全く比べ物にならない。


そう考えると、
今生きている人たちの中で一番になるというのは、…まだまだ小さい話である。


だから、
志ある者は、少なくとも今生きている人々だけを相手にするのでなく、世界中の故人全員も含めて、その中で第一等たらんことを自らに期すのである。


ふと、南洲遺訓を思い出した。
「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして己を尽くして人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」。

それから、
「100年先、1 ,000年先を見据えて仕事をしろ」という声も。


今日も健康と健闘を!






第335話◇文武 ••••••
事を開くには「武」の力を用い、それを継続発展していくには「文」の力も用いる。

例えるなら、「武」は身体のようで、「文」はその毛なみのようなもの。
この二つが虎や羊を分ける。

武弱に流れてはいけない。
文弱に流れてもいけない。






第334話◇出来てきたらどうでもいい ••••••
非常に人間ができて風格風韻の高い人物なら、何をしても自由である。どうでもいい。

そんな人が飲み過ぎて酔い乱れているのは、とてもいいものだ。

しかし、馬鹿な奴が酔っ払って乱れたら目も当てられない。

だから、酔っ払って乱れることはダメだとも言える。


しかし、もっと奥に入ると、酔うとか乱れるとか、そんなことはどうでもよくなる。問題ではない。

しかししかし、ただの人間がそれを問題にしなくなると、醜悪で大変なことになる。

そこが難しいところでもあり、真理の妙味でもある。
だから、真理は尊く、また危険でもある。


ただ、
ただ者ではない人間がいることは、ただの人でも考えなくてはならない。


何事も同じである。
だから、稽古でも「あいつは許されるのに、なぜ私は許されないんですか!」と尋ねられても困る。笑






第333話◇できない理由は何だ? ••••••
勝海舟25歳の日記にこんなことが書かれてある。
「オランダ語の辞書が高くて買えない。借り賃を払い2冊書き写した。1 冊を売り、もう1冊を手許に置く」
「飯を炊くにも薪がない。縁側を剥ぎ、柱を削って燃料にして飯を炊いた」
「困難ここに至って、又感激を生ず」

大変な貧乏でありながら、彼は全く苦にしていない。同じ貧乏であっても、感激を生ずる貧乏をやっている。
「中庸」ではないが、「貧に素しては貧に行い…」である。貧乏を全く苦にしていない。ここが人間にとって大切な「分かれ道」である。
「艱難に素しては艱難に行い(中庸)」で、苦にしたり意気消沈したり自暴自棄になるのではなく、それを意気に感じて奮い立つならば、貧乏もまたよいもの。

つまり、艱難辛苦そのものが問題なのではなく、いかに艱難辛苦に処していくかが大切である。結局のところ生命力・精神力・体力…元気(気力・骨力)次第である。

能力でも同じこと。
頭が悪くても問題ない。そもそも頭が悪いから勉強ができないと考えるのがおかしい。
一度「志」が立てば、才能の無さや頭が悪いことぐらいは問題ではない。修練努力を怠らなければいい。

志、言い換えれば旺盛なる理想追求の求道心・向上心・情熱があれば、貧乏も頭の悪さも虚弱も多忙も問題ではない。


人がこの理想精神や情熱を失えば、大衆社会の娯楽指導(面白いか儲かるか)機関であるマスメディアが流す情報に浸り、物欲や性欲や食欲等の力に支配されていく。

頭が悪いから勉強できない、忙しいから勉強できないと、できない者や志の無い者ばかり集まると、できるのは批評か喧嘩か破壊だけ…という情けないことになる。それではホンモノはいつまで経ってもつくれない。

結局、大切なのは「己に還る、自反、克己復礼」である。自分の根本に返り、根性を叩き直し、そこから無限に成長して様々に創り出していくということである。


どうやって自分に返るか。
それを、次回からの勉強会「小学・大学」で共に学んでいきたいと思います。






第332話◇生来臆病は者は…。(顔氏家訓より) ••••••
なぜ書を読み学問するのか?
→元々の心を開き、見る目を明らかにし、実践を活発にしたいと欲するからである。


・親孝行
顔色で親の欲するところを見抜き、声を和(やわ)らげ、怒りやすいのをこらえ、苦労を厭わず、そうして柔らかく良い気持ちに尽くす。
そんな古人の有様を観て、自らの心を恥じ、自分もそう行うようにする。

・仕事
職を守り、危うきを見ては命がけで助け、誠意を持って諫言して国家を利する。
そんな古人の有様を観て、自らの心を恥じ、自分もそう行うようにする。

・贅沢
節約工夫して自ら養い、礼は教えの基であり敬は身の基であるという、
そんな古人の有様を観て、自らの心を恥じ、自分もそう行うようにする。

・心がケチな者
義を尊び財を軽んじ、私利私欲を少なくして満ち足りるを嫌い、困窮者を賑わし、貧しき者を憐れみ、財を積んでよく散じる。
そんな古人の有様を観て、自らの心を恥じ、自分もそう行うようにする。

・粗暴で気が荒い者
周囲に細かく心配りして己を退け、争わず、辱しめや悩みを胸におさめ、賢人を尊び、衆人を受け入れる。
そんな古人の有様を観て、自らの心を恥じ、自分もそう行うようにする。

・生来臆病な者
生に達し、命に委ね、忍耐強く、言葉に信があり、福を求めて挫けない。
そんな古人の有様を観て自分を鼓舞し、何ものにも恐れない勇気を出してもらいたい。


知行合一、そして人に優しくなること。
学ぶことで人間を損なったり、人に冷たくなったり、返って実行力が鈍るなら、本末転倒だ。

気をつけたい。






第331話◇応対する ••••••
人は、何かによって自分を鍛錬しなくてはならない。
「何かによって」というところが大切で、「相対」するものがあって初めて私たちの意識も思考も機能も、造化の具現化に向かって活発に動き出す。
相対するものがないと、なかなか機能しない。

武道の相対稽古は、相手との「応対」である。
まずお互い構えれば、本当は勝負はつく。
人と人との関係はそういうもので、相対した時に分かる。
やってみなければ分からないというのは、未熟な証拠。

お互い未熟なら、やってみなければ分からないところに面白さもある。笑


応対というのは、相手にピタッと密着するもの(時中)で、ズレたり離れたりしては応対にならない。その意味でとても微妙なもの。

武道とは応対の修行でもある。

この応対が発達したものが、応対辞令であり外交交渉でもある。

残念ながら、どこかの議会のやりとりでも、頭をどう使ったらそんな馬鹿なのことが言えるのかというくだらない事、「弁ではあるが論にならない」事を言って、失言までする。
そして、その失言をあたかも鬼の首を取ったように大騒ぎして、つまらない漫談のような戯言を演じて、議論が白熱したなどと言う。

「話にならない」とは、こういうことを言う。

殴り合いは強いが、人間的応対の勝負では話にならない…では困る。

人は、応対によって笑ったり泣いたり、滑ったり転んだりと忙しくしている。


物事は挑戦と応対である。
相対稽古を大切に。






第330話◇なぜ基本は大切なのか? ••••••
何事にも、いかなる問題にも、それを進めていく上での「原理・原則」と言うものがある。

根本法則、基礎条件、基礎知識、ルール…。これらは、物事を進めていくためにある。 例えば、もしルールを無くしたら、野球もサッカーも将棋も成り立たない。

窮屈だからと言って、基礎条件やルールを無視していては、物事はメチャクチャになる。成り立たなくなる。


知り合いが怪我をして、今度手術を受けるが、いきなりされても大変だ。
器械や器具を揃え、あらゆるものを消毒、そして医師も看護師も精神統一して手術に臨む。
こういう基礎条件、ルールが厳格であればあるほど成功しやすい。


これが基本である。

なぜ基本は大切なのか?
進歩発展上達を望むからである。






第329話◇叩きのめす ••••••
門下生の胸ぐらを掴んで、思い切り引っ叩いたことがある。

でも、あの時私は「この馬鹿野郎!」と怒鳴りつけたのではない。


あの時私は
「お前ほどの奴が何をやっているんだ!」
そう言って怒鳴りつけたはずだ。

「お前ほどの奴が!!」


泣きたかったのは私の方だ。

貴方を叩きのめしたのではない。
貴方を叩き上げただけだ。






第328話◇憎む力と祝福する力 ••••••
技は、相手の嫌うところに、嫌なタイミングで、嫌な事を行う。

しかし、それができるなら、

相手の好むところに、好むタイミングで、好む事を行うこともできなくてはならない。

むしろ、そちらの方が大切である。

憎む力を持つなら、同時に祝福する力も持たなければいけない。


活殺自在。相手や物事を活かすも殺すも自在である。
武道とはそういうもの。





道場法話 2017年度 8月


第327話◇豆腐パスター ••••••
夏に出す高熱は、夏風邪よりもインフルエンザの可能性が高い。

早く病院で診てもらって下さい…。


もし、38°c以上の熱が出たら、穏やかに熱を取ってくれる「豆腐パスター」を2 ~3個作る。

「豆腐パスター作り方」
・木綿豆腐1/2
・おろし生姜(豆腐の10%)
・小麦粉 大さじ2

これらを混ぜて、四角く平らに伸ばしてガーゼに包む。

おでこや喉に当てる。

冷湿布の代わりとなって、穏やかに熱を取ってくれる。


合宿後の打ち身のケアにも。


誰かのことをそっと想うように、
自分のことも大切にしてあげて下さい。


お大事に。






第326話◇心が率いる ••••••
今回の合宿のテーマは「率いる、従う」。

心は身体を率い、身体は心に従う。


鍛錬修養においては、自分を抑えずに本気真剣全力でやるメニューが少ないと、
「ここぞ!」という時に出す「全力」が、「たかが知れている」という寂しいことになりかねない。

逃げない。忘れる。楽しむ。
自分を抑えず、全部真剣本気出す。

この姿勢で様々な喜怒哀楽・艱難辛苦・利害得失・栄枯盛衰を味わい尽くしながら、些細なことには傷付かない心、誘惑や脅威に屈しない心、志義や目標に情熱を傾けられる心…。己の身体を従えるに値する「心」を養っていく。

言い換えれば、自分の身体も言動も率いる親分のような心とは、己の誠の心であり、造化の心であり、道そのものである。

その心は自分で構築していくしかない。
主体性・創造性を手放してはいけない。

自分に都合のいい場所というのは、どこかを探せば見つかるというものでもない。
己で創り出さなければ、誰も与えてはくれない。

…と言うことで、身体を率いていく「心」を養う「問い」のいくつかを、グループで、そして個人で考えて自分の答えを見つけて欲しい。

Q)あなたの「義」は何ですか?
→身体も言動も、己の心(志)に従わせることが、「人が人間として生きることの気高さ(美しさ)」という己の義である。

Q)「義利の弁」(孟子)とは?
→義を蔑ろにして利(私利私欲)に流されるならば、
・相手に嫌われまいと自分の態度を曖昧にしたり、
・私利私欲を相手に仕込んだり曝け出したり押し付けたりする態度が多くなる。

そういう態度では、
当然のことながら、誠の己も大切なものも失うことになる。それを因果応報と言い、自業自得と言う。

Q)あなたの理想像・理想精神はどういうものですか?
→深沈厚重、器量と機鋒(展開力)、六然、六中観etc.

Q)節、節度とはどういうものですか?
→己の心に従って様々に「造化の働き」を具現化していく過程には、もちろん障害も出てくる。志義が定まっていれば不撓不屈となる。脅威や誘惑などの障害に屈することはない。
私利私欲は誠の心で自己統制(否定ではない)していく。



明日も、稽古から逃げない。
過去の栄光も挫折も乗り越えて忘れる。
そして、何事もできるだけ楽しんでいく。
自分を抑えることなく、全部本気出していく。

真剣本気で今日を過ごしたなら、明日は来る。そこまで本気じゃなかったなら、明日こそ!

では…、おやすみなさい。






第325話◇腰と目を観る ••••••
「節度」があるからこそ、様々な事を成し遂げられる。

身体にとっても「節」は大切。
乳幼児の骨の数は305個。大人になると平均206個。
これらが様々に組み合わさって人体の骨格を形成している。
これら組み合わせの結合部分が「節」。
関節は数え方にもよるが260箇所。

身体での最も大切な節は、上半身と下半身をつないでいる「腰」。

腰が外れると「腰抜け」「腰砕け」「腰が入らない」「へっぴり腰」などと言う。
腰が外れると、肉体的にも精神的にも乱れてくる。

また、老化も腰から始まり、次いで足、そして頭が弱ってくる。


だから、腰が強靭であることはとても大切。
武道やスポーツ、様々な芸事でも、腰が定まっていることが大切。

「腰」と「目」が定まっているかどうかを観ると、
上手い下手が分かるもの。


実力がある程度の段階に到り、動きが定まってくると、雰囲気も動きも静かになってくる。
静かになると心は安らかになってくる。
安らかになると、遠くまで様々に慮ることができるようになる。
遠くまで慮ることができるようになると、様々に会得することができる。
会得した後、様々に物事を成し遂げていける。






第324話◇逃げない、忘れる、楽しむ ••••••
物事に向かう姿勢は「逃げない、忘れる、楽しむ」。

最初が「逃げない」ではなく、「逃げる」になると、 「忘れられず、楽しめず」になりがち。


士、不逃 忘 楽。
小人、逃 不忘 不楽。


畏れ多いけれど、「論語」みたいでしょう?笑


緊張や恐怖から逃げない。
過去は忘れて上を目指す。
心の奥底ではどんな状況でも楽しんでいく。

そんな姿勢で合宿も乗り切りましょう。






第323話◇合宿「率いる、従う」 ••••••
今回の合宿(8/25~28 )のテーマは「率いる、従う」に決定しました。

「心が身体を率いて、身体は心に従わせる」

それに沿って、合宿における明確な理想と目標を、各自掲げて下さい。






第322話◇静謐な心 ••••••
自らの
姿勢を整え、
呼吸を整え、
場の空気を整え、

そして
対象をじっと見据え、
こちらから近付いて応対していく。


その応対のリズムを変化させていくのは構わない。寧ろ、時に応じて変化させていく。

しかし、壊してしまってはダメ。

壊す原因の多くは、自らの表現の幼稚さにある。
例えば、言葉が丁寧でなくなったり、
立居振舞に礼節を欠いたり…。

壊してしまったら、

再度、姿勢を整え、
呼吸を整え、
場の空気を整え、

そして
対象をじっと見据え、
こちらから近付いて応対していく。


お互いに目指すゴールは、一つの地点しかないというものでもない。
落し所は千変万化する。

但し、理想は掲げ、筋道は立てておく。

その時その時、どこまで先に行けるかは、お互いの器量と機鋒(展開力)による。
今より前進して、踏み行うべき大道の上に着地させればいいのだ。

そうすれば、また次に繋がる。
成長・共栄・調和へ向かう。


組手稽古においても然り。
1.姿勢・呼吸を整え、相手・場との一体感を持ちながら対峙する。目的と筋道を立てる。
→(三才…地・現実)、造化(一触即発)

2.実力に応じて攻者と守者の攻防が展開する。千変万化に応じる。
→(三才…人・実現)、造化(創造変化)
※この局面(2.)での自己の実現の手段が、鍛錬修養して身につけた技術。

3.落し所。成長・共栄・調和の道の上にあるか。次へ繋がるか。
→(三才…天・理想)、造化(創造展開)






第321話◇心を落ち着ける ••••••
「まあ座れよ」。
座って心を落ち着ける。


たとえどんなに怒り狂っていても、「そんな試練も理不尽さも面白い…」と、心の奥底の奥底では「喜をもって感謝」を忘れない。

その余裕が必要だ。


心を落ち着けるために、正座をして写経をする人がいる。

心を落ち着けるために、汗を流して稽古する人がいる。


心を落ち着けるのは、その直後からまた「造化の働き」を様々に具現化していくため。
その時その時に即応して、臨機応変に自己を実現させていく起爆力を養うため。
そして、理想を目指して道を歩いていくため。


「喜をもって感謝」という余裕をもって、
次に何が起きても臨機応変に即応するために、心を落ち着かせる。


一瞬で心を落ち着かせる人もいるだろう。

陰と陽。静と動。何でもいい。
心を落ち着ける手段を持つこと。






第320話◇静謐なリズム ••••••
喧(やかま)しい。ソワソワしている。
それでは物事に即応するのは難しい。
もっと心を落ち着かせる。

もっともっと落ち着かせる。

ゆっくりと呼吸して、
もっとゆっくり呼吸して、

静謐に静謐に。


調和は、どうすれば最小の関与、微調整でバランスが回復するかを考えて行動する。

そうして、また静謐に静謐に。


やがて、その時その時にピッタリ応じていけるようになる。
静謐だから安らかになり、安らかだから余裕があり、余裕があるから遠くまで慮ることができ、ズレることなくピッタリ応じていける。

言葉も、多い少ないではない。
声も、雷のようだ虫のようだではない。
態度も、大きい小さいではない。

その時にピッタリと応じていく。

静謐こそ、どんな事態にも即応できるリズムとなる。






第319話◇「力負け」と「気持ち負け」 ••••••
力量が及ばずに負けたなら怪我で終わる。
しかし、気持ちが負けるようなら、それは病気だ。その病気は何度も繰り返し、どんどん重くなる。

気持ちで負けるというのは、つまり、元気がないのだ。

元気のない男では話にならない。
男は負けてばかりいられない。


「どうせ俺なんて…」「だって無理だから… 」そう言いたい気持ちは私なりによく分かる。

しかし、いつか死ぬ命なら、命をどう使うか。どう生きるか。
安易な妥協にではなく、己の理想に生きてみてはどうか。

私たちの社会は過酷で無慈悲な一面がある。だからこそ、より良く在ろうと志を掲げて行動することに意義がある。


勝負の前から気持ちで負けてどうする?
そんな男が理想の男なのか?
そんな生き方がしたいのか?


きっと違うだろう?

昨日より少しでも楽しくあるために、
自分の中の理想や誠の心に従える強さを。

「誠の心に従えること」。
何をするにしても、これが最大の武器になる。






第318話◇残心〜残された人の心〜••••••
以前にも書かせてもらったが、
その時は「その場に心を残して油断しない心」という趣旨の「残心」だったと思う。


今回はもう少し展開。
日常生活や、成長・共栄・調和に向かうために、「残心」をどう活かすか。


例えば、誰かと喧嘩した後、ふてくされたまま部屋を出てきたことはないだろうか?

その部屋に残された人の気持ちはどんなだったか、心を残して考えたことがあるだろうか。

残心とは、「人に味わわせていた思いを、自分で味わう」ということだ。

今日からどう振る舞うか。


恥ずかしく情けない自分は斬り殺す。
相手を思いやれる心は手放さない。

「残心」を忘れずに…。
残された人間の気持ち(心)を忘れずに。


より成長した自分を創っていけるはずだ。






第317話◇基本とは自然なこと••••••
・声を出す 大きな声を出すのは気力や気迫を出すため、自分を鼓舞するため。正確に基本を繰り返す時は、静かに行う。
集中して慎重に正確に…例えば針に糸を通す時、大声を出しながら行うことはないでしょう。
→基本動作は、口を閉じて、静かに、丁寧に、正確に行う。

・正中線上で行う
点ではなく面で捉える。身体の軸は背骨。相対バランス。胸鎖関節を腕の付け根と見れば、その正面の身体の幅が「正面」。肩関節を腕の付け根と見れば、手の正面とは肩関節の正面になる。
→身体の正面で行う(正面とはどこか。いつも正中線上というわけではない)。

・自己完結させる
片手を使うなら、身体の軸はそれと反対に傾ける。使う片手と身体の軸双方で一つのバランスを取る。
→身体全体でバランス、調和を図る。

・一度に数や時間をかける
骨や関節や靭帯…身体を壊すような数のかけ方はNG 。
→毎日の積み重ね





道場法話 2017年度 7月


第316話◇快楽の制御のできない男••••••
例えば映画などで、快楽殺人を犯す者は、怖いもの知らずでとんでもなく恐ろしく描かれることが多い。

現実にも、傍若無人のゴリラのように、無敵に見える男は少なからずいる。
しかし、快楽を求めることを目的として動くのなら、そこには致命的な弱点がある。

それは、快楽の制御を仕切れないという点だ。

欲望の自己統制ができないのなら、よく訓練された者には敵わない。

なぜ勝てないか?

節度が足りないからだ。

映画でも、己の欲望を束ねる義を持ち、節度を持って自己統制し、よく訓練された者に敗れる。


男はみんな節度が無い?
…そうではない男たちもいる。

様々な快楽を求める欲求を一つに束ね、理性を究極にまで引き上げる。

理性とは義であり、志だ。これがあるから節度が生まれる。


快楽を求める心 vs. 快楽を束ねる義、志


義や志。 政治家でいうなら国家観だ。それを持っていない政治家を信頼できる道理はない。私利私欲(快楽)で事を運ぶか、強靭さが足りないと分かるからだ。

その義と義との勝負だから覚悟が生まれ、面白くなるのだ。


その土俵に上がれるかどうか。
自己満では上がれない。

私利私欲は義に狩られる。
欲望を頼みとして勢力を伸ばそうとする男達は、身の程を知りなさい。






第315話◇九転び十起きの達磨(だるま)••••••
文明の利器、便利さは享受する。
別に否定したり憎むことはない。

ただ、それとは別に、

脚があるなら歩けばいい。
手があるなら作ればいい。
頭があるなら考えればいい。
意志があるなら進めばいい。

そんな当たり前のことを忘れて、自分に備わったものを活かすのではなく、文明の利器と入れ替えようとするなら、その便利さは人間そのものを弱くしてしまう。

それは、自分や人を大切にする態度だろうか。

3kmの道のりがある。
車で行けば、外は暑くても車の中は快適だ。
外は寒くても車の中は快適だ。座っていればいいのだから疲れない。
歩いていくと、外が暑いなら暑い。寒ければ寒い。歩いて疲れるかもしれない。

やるべきこと、やりたいことをやるのに、いつの間にか、まず快適に行える手段を探すようになり、それが見つからないと、「無理だよ」と思ったりはしないだろうか。

手がないなら、脚がある。手も脚もないなら、身体がある。顔がある。何度ひっくり返っても起き上がる心がある。

起き上がり小法師の、あの達磨のように。

文明の利器は享受する。
しかし、それに溺れて自分を弱くしてはいけない。






第314話◇教え方••••••
相手によって教え方は変わる。

ただ、原則はある。
まずは、真剣に学びたいと素直に来る人以外には教えない。それは意地悪というのではなく、お互いに時間も労力も無駄に終わることが多いから。

目的は、その人の天性を自覚・修養・鍛錬して人間を磨き上げること。そのために、相手を善導し、自ら変わるよう仕向ける。
心構えや、取り組む姿勢を伝え示す。


教え方は様々にある。
例えば、口先での指導もある。
「それはこうするんだよ」

しかし、相手の主体性・創造性も尊ばなくてはならない。
指導者は、技術と品徳、器量の手本を示す。
自分を変えて(創造変化)、相手を自分のように接する(一体感)。

自分が造化の手本となる。
武道を活学として教えるのは言葉ではない。

「手本を示し、真似てもらう」。
こちらが本筋。






第313話◇血が萎えることはない。••••••
「やることがある」というなら、その生き様を見届けます。
しかし、その覚悟が失われた時は、容赦なく斬って骨を拾いましょう。

途中で挫けてしまうのは、自分の強さを過小評価しているのかもしれません。
人の強さはとは、そんなものではありません。

自ら流してきた血を見て下さい。

この身体に流れる血の力が萎えることはありません。

病原性微生物が人間の身体に侵入してきた時、私たちは戦いを挑みます。
その代表、防衛細胞とも言うべき白血球の戦いを紹介しましょう。

彼らは体内に入ってきた細菌と戦うための言わば兵隊で、生体防御の役割を担っています。

防御の方法は少し変わっていて、細菌を外側から包み込んで細胞内に取り込んで(食べて)しまいます。
また、敵の細菌が毒を出してきたときは、白血球も毒を出して…ではなく、細菌の毒を無力化する抗体や、細菌を動けなくする抗体を作り出してから、細胞内に取り込んでしまいます。

私たちの白血球は、敵を包み込み、自身と一体化してしまう器量が備わっています。


夏バテ?臆病?怠惰?

自らの精神が弱った時、自らの血が戦っているように挑み、戦えばいいのです。

己の器量で敵を包み込み、勝利していく自分がイメージできるのではないでしょうか。

血は、容易に萎えることはありません。
私たちひとりひとり、自分に備わった血の強さを改めて自覚したいと思います。


7/13、月命日に。






第312話◇冒険家••••••
勉強が嫌い、仕事が嫌い、努力が嫌い、トレーニングが嫌い…何もかも嫌いというなら、 その嫌なものたちに焦点を合わせるのではなく、それを乗り越えることで以前より成長するのだという「進化発展」に焦点を合わせて、「成長」そのものを好きになればいい。

人は造化そのもの。つまり、成長そのもの。

色々な経験や様々な艱難辛苦は、成長とは切り離せない。
ならば、その一部である勉強や筋トレを嫌がるというのは…、なんとも無邪気で狭い認識だ。


私たちは、「成長発展」「創造展開」そのものであり、その具現者である。
時に応じて、様々に自己を実現し色々なものを築き上げていくことが使命である。
そう認識したらどうだろう。

成長や創造という道には、終わりがない。
そして、可能性に満ち、未知数なものも多い冒険だ。

造化という道があり、人としての道があり、己の道がある。
これらは同じものだ。

道を歩いていくという冒険も嫌いだろうか?
昨日より成長する自分も嫌いだろうか?

嫌いじゃなければ、一緒に歩もう。


さて、夏本番。
皆の嫌がる稽古を始めましょう。






第311話◇幸せだと思って過ごす「力」••••••
この時期の稽古は汗だくになる。
しかし、ただ暑いというだけで、文句・不平・不満等を言う人がいる。

その文句を心地良く聞いていると…、思い出すことがある。

以前、ある大会で優勝した。
その夜の祝勝会で、皆が「おめでとう」と讃えてくれた。
私は、「いやぁ、徹夜して寝不足だったし、足も怪我してたから大変だったけど、優勝できてよかったです」とバカ丸出しで挨拶した。

そして、決勝戦で戦った相手も、ビールを注ぎに私の席に来てくれた。
「優勝おめでとう。技術もレベル高いし強いね。…ただ、あの挨拶聞いたけど人間としては弱いね」。
私は「なんだコイツ!失礼な奴だな。負け惜しみかよ」と思い、余裕たっぷりに笑ってあしらい、勝利の美酒に酔いながら祝勝会はお開きとなった。

後日、ある人に会った。その人の弟さんは、交通事故で脊椎を損傷して半身不随。車椅子の生活を送っていた。
「弟は、事故前はすごい偏食だったんだけど、今は好き嫌いなく何でも感謝して食べるんだよ。生活は不自由なのに、不平不満を本当に言わないんだよ。道着は脱いだけど、車椅子バスケを始めたんだ」。

その話を聞いた瞬間、頭を思いっきり殴られたように衝撃が走った。

「オレは文句ばかり言ってる…」

あの日の祝勝会で言われた言葉が、やっと理解できた。
「お前は試合に勝っただけの男。人間としては弱くて浅はかだね」。


物事に対して不平不満が多いのは、様々な物事を包容する力や器量がないのだ。
日々を幸せだと思って過ごす「力」が圧倒的に不足している。
だから、周囲や物事に対して「感謝」ではなく「不満」が先に立つ。

人として、こんなに弱くて情けないことがあるだろうか。

あれから私なりに色々考えた。

創造展開して成長・発展・共栄に向かう力(陽)と、自らを省みて無駄を省いて調和・統一に向かう力(陰)をそれぞれ養い、これら陰陽相交えて「造化」の働きを様々に具現化していく…そういう生き方を私はしたいのだ。

物事に対しての文句や不平不満など、どうして出てくる余地があるのだろう。

必要なのは、今を幸せだと過ごす「力」と、より強く豊かに創造展開していく「力」。

この夏、文句や不平不満とは決別だ。
新たに創造展開していく活動を。






第310話◇集中の度合い••••••
「集中」には、その度合いがあるように感じます。

0.まずは、姿勢と呼吸を整えて、心を落ち着かせます。

1.心を集中する対象と対峙させ、波長を合わせます。
すると、いつの間にか「対象に飛び込む」「対象の中に入ってしまう」ような感覚があります。

2.そして、その感覚が深まると、「自分の心と身体の一体感」、そして「対象や周囲との一体感」が生まれてきます。
自分と自分以外との区別が無くなるような感覚と言いましょうか。

3.喜怒哀楽、苦しいとか楽しいとか、そういうどれかに偏った感情は無くなります。
感情や意思に偏りの無い我の境地(無我)と言いましょうか。

4.周囲の物音や変化等は、聞こえたり見えたりしていますが、心が拡大して全てを覆い尽くして、全てが自分の腹の中の出来事のような感覚があります。

5.全てを包容し、親しみ一体となり、創造展開していく「造化の働き」そのものであるような感覚があります。
自分が、「道」「忠恕」「仁」そのものである、と言いましょうか。

そのように集中した状態で物事を行なっている時こそ、自己を最大に表現しています。
結果「感謝」の気持ちが生まれるように感じます。


言い換えると、「集中」は、
0.姿勢と呼吸を整えて心を落ち着かせることから始まり、
1.波長を合わせて対象の中に入り込み、
2.一体感を持ち、
3.感情は無くなり(無我)、
4.次第に意識が広がって全てを包み、
5.造化の心そのものになり、
6.自己実現と感謝で終わります。

このような順番があるというのではなく、文字にするとこう書かざるを得ないのですが、実際にはこれらが渾然一体となっています。


お互い、もっと高くもっと深い境地へ進んでいくと思います。

今日も集中して健闘を。






第309話◇丁寧にやるには••••••
当たり前のことを丁寧に真剣に行う。

どうすれば物事を丁寧に取り組めるか?

取り組みというのは実践の問題。実践には動きが伴う。その動きの基本とは、姿勢・仕草・重心・呼吸。

だから、まずは姿勢を正して呼吸を整える(cf. 第279 話、第281話)。呼吸と動きは連動する。

そして、ゆっくりと繊細に。慎重に。丁寧に。
最初の5分間はガチで取り組む。
以下の意識をよければ参考に。


0.姿勢と呼吸を整えて、心を落ち着かせる。

1.丁寧にやるとは、生まれたばかりの子猫を扱うように。

2.丁寧にやるとは、天を相手にするように。

3.丁寧にやるとは、主観や我欲を無くして素直に。自然に。対象との一体感を目指して。

4.丁寧にやるとは、自分が行っているのではないという意識で。
自分の遺伝子に組み込まれている祖先からの全情報やスキルが、自分を通じてやっていると考える。

5.疲れる?
それはただの勘違い。
集中して継続して下さい。






第308話◇韻律…いい音が鳴るか(2)••••••
第56話に同じタイトルで話をさせてもらいました。

「生命、到る所に韻律がある。優れた韻律は共鳴を呼び、枯渇を潤していく。
私達ひとりひとりの韻律は、鼓動から始まる。それが呼吸のリズムになり、動作と連動して様々なリズム(韻律)を生み出す。
韻律とは、私達の内に厳粛に存在して働くもの。
自分の韻律を自覚し奏でていく中で、人間の瑞々しさは発揚し、創造は躍進する。
稽古においても、姿勢・仕草・呼吸・技術…どれをとっても、韻律、共鳴、潤いを含むことが大切。
相手の実力は音にも出る。
いい音が鳴るか」(道場法話 第56話)。


韻律とはリズムであり波であり、左右であり陰陽であり調和であります。

物事を進める時は、当たり前ですが集中して行います。
集中するとき(陽)と休憩する時(陰)。休憩とは回復であり、それは次の集中のためです。陰陽を連続させて、継続していくことが肝要です。
「陰陽」のリズムで物事を「中」していきます。
「中」とは、相対するものを処理し、一段上へ発展させることです。

稽古も然り。
心と身体、動きや力の緩急(陰陽)をつけ、各自のリズムを奏でながら、とんでもない高みにまで自分を運びます。

陰陽とは例えば、
・左右両利きになること
・突きと蹴り
・攻撃と受け
・剛法と柔法
・立ち技と坐技
・稽古と休憩
等です。

陰陽の調和がどれくらい取れているかは、その人の出す音で分かります。

また、その人の出す音で、感情や心の落ち着き、物事に取り組む姿勢等、伝わってくることがたくさんあります。


自分が奏でる音、大切にしたいと思います。





道場法話 2017年度 6月


第307話◇所非道者が一方的に踏み込んできたら ••••••
非戦を表明するだけでは、侵略されて終わってしまいます。
世の中には、そういうこともあります。

「それは酷い」「許せない」と言っても、自分たちを守る力、相手を屈服させる力がなければ滅ぼされます。
滅ぼされたら、少し同情され、そして忘れ去られます。

非道者に侵略されて敗北するというのは、「道」に反します。
だから、「弱いままでいるのはダメだ」と何度も言うのです。

そして、「弱いまま」だと、自分も周囲も未来も不幸にしてしまうことが少なくありません。

そもそも「道」とは、「造化の実践」であり、従って、元気であり、不撓不屈であり、強く優しく豊かなものであります。
その道が人道であります。


ですから、
大切な人や物事を守るため、大切な人や物事を育て築き上げていくために、安心して真剣に強く強く強く強く強くなって下さい。

志を持ち、
目標を定め、
そこに向かって義を貫いていきます。
周囲と親和し、それぞれの力を磨いていきます。

自分、家族、友達、社会、未来…
全てを築くため、守るため、豊かにしていくために、昨日より今日、今日より明日と、 安心して強くなって下さい。


牙をなくした狼が多いのが、この世の中です。それでは誰かに飼われるペットと変わりません。
牙は決して無くさないで下さい。

そして、鷹より強いウサギもいることも、忘れないで下さい。
思い込みと傲慢は命取りです。






第306話◇所作ひとつひとつに「意味」があります。しかし、教えることはできません。 ••••••
所作や技には意味があります。
しかし、教えることはできません。
伝えることができるものと、できないものがあります。

いや、伝えてはいるのです。

ただ、それは各自が自得するよう促すだけなのです。
「それの意味は何ですか?」と聞きたいというのは、「自ら学び会得するという力」を弱くすることになりかねません。
しかし、その力の養成こそが大切なのです。
答えは探すのではなく、自ら見出すのです。

言葉で教えようとすると、言葉を受け取った人は、自分の理解できる範囲で「分かった」と言います。
しかし、多くの場合、その理解は甚だ浅はかなものです。しかも、「言葉を聞いて分かった」という思考回路は、自分の思考を縛りがちです。縛られると創造展開しません。

学んで思索して実践へ。そして、実践から学び、学びから思索し、また実践へ。
もちろん絶対ではありませんが、このような「流れ」も自得して頂ければと思います。
そして、その過程において、臆病・怠惰・卑怯な心は払拭して下さい。

自分を弱くするような、人生を寂しくするようなことは、ここでは許されないからです。

そのために、まずは心の在り方を学ぶこととなります。

ただ、心の在り方については、勉強会に譲ります。
今回は、「その意味は教えられない」ことの理由について。

例えば、漢数字の「一」。これに意味はあります。
一を「ひとつ」「はじまり」と教わり、「分かった!」となります。
でも、受動的で主観的な理解にとどめてしまうと、成長発展しないのです。「自ら学び会得する力」を自分で捨ててしまうのです。

少し「一」の意味を考えてみます。

1.はじまり。最初。
→「一」は、物事を生み出し、最初に行うという意味合いになります。独立独歩の気概、不撓不屈の実践力、元気溌剌です。
「易経」にもあるように、志を持って物事を始めると、そこに力が集まってきます。集まってきた力を一つに束ねていくことで、力はより大きくなっていきます。

2.ひとつ。
→ひとつにする。つまり、物事を集約させる結束力です。多くの人を結束させることのできるリーダーへと展開できます。
リーダーとして、多くの人を結束するためには、まず自分が、人として履み行うべき道を学び、己を省みて自身を明らかにし、他よりも修養努力することが必須(「小学」「大学」「論語」等参考)であると解釈は広げられます。

3.隅から隅まで(広範囲を占める)。
→人としての器量の大きさとは、どれだけ包容力があり、また、包容して親しみ、様々に育んでいけるかどうかです。
些細なことに好き嫌いを言うのではなく、隅から隅まで、一切を内包することができるかどうかです。包容して親しまないと造化につながりません。

4.同じものとして扱う。
5.6.7…と、意味は展開していくものです。


例えば、私達は服を着ます。でも、季節によって身につける服は変わります。身体が大きくなるにつれて、着る服は変わります。何をするかによっても着る服は変わります。

寒さから身体を守るために着ることもあり、
誰かに脱がされるために着ることもあり、
自分を鼓舞するためや、
人と一体感を持つために着ることもあります。
服に「意味」はあります。
しかし、それは創造変化しながら自得するものなのです。そして、本質は一つです。
所作も技も同様なのです。

「変化」するものであり、その源泉は「一つ」なのです。


心得(こころえ)も技も伝えます。そしてそこには「意味」があります。
意味とは、時・場所・志・学び等、他との関係性とそれを認識する私達の主観において意味付けられます。
所作の「意味」を教えるということはできないのです。

その時、その時、また成長に応じて、自得していくものです。

だから、「その意味はね…、」と軽々しく言うことはできないのです。

でも、日常や仕事におけるコミュニケーションは、異なる分野です。
相互に意思疎通を図る試みはとても大切です。

お互いの心がそのまま伝わり合い、ひとつになれればいいのに…、
誰かがその手を挙げたら、いつもその手に重ねる手があればいいのに…、と思ってしまいます。


物事には、
自在な「変化」で応じながらも、その源泉「一つ」を確立しておきたいものです。
道場では、それを学び会得しているのです。






第305話◇勇気は一瞬、後悔一生。 ••••••
動きの基本は、姿勢・仕草・重心・呼吸…だった。

心を鍛える(整える)ための基本は、当たり前のことを、丁寧に真剣に行う…だった。

物事、最初の5分はガチで取り組む。
やせ我慢でもなんでもいいから、当たり前のことを、丁寧に真剣に行う。それは「頑張る」ってことだ。

頑張ってやってると「勇気」が湧いてくる。「やせ我慢」ができるようになってくる。

勇気を養うには、話をするのをやめて行動そのものをとにかく始める。

その繰り返し。


先日、ある学生から話を聞かせてもらった。
私が最初に聞いたことは「君は勇気をもって全力で戦ったこと、あるかな?」

勇気は一瞬。後悔は…一生かも。






第304話◇2017 合宿の一日(仮) ••••••
今年は、金曜~月曜までの三泊四日を予定しております。
今年のテーマは「最後まで立つ」となっております。

(1)単相性睡眠
0400 起床
0415~0515 作務(掃除)
0520~0700 筋トレ・稽古
0715~0800 朝食・休憩
0815~1200 稽古・筋トレ
1210~1350 昼食・休憩
1400~1800 稽古・筋トレ・作務
1815~1900 風呂
1910~2000 夕食・休憩
2010~2200 講義・作務
2200~0400 睡眠
0400 起床


(2)多相性睡眠
0400 起床
0415~0515 作務(掃除)
0520~0700 筋トレ・稽古
0715~0800 朝食・休憩
0815~1000 稽古・筋トレ
1010~1050 睡眠①
1210~1350 昼食・休憩
1400~1600 稽古・筋トレ・作務
1610~1650 睡眠②
1810~1900 風呂
1910~2000 夕食・休憩
2010~2200 講義・作務
2210~2250 睡眠③
2300~0250 稽古・講義・作務
0300~0400 睡眠④
0400 起床






第303話◇眉毛を描く ••••••
仕草や動作には、身体に引き寄せる動きと身体から離す動き、クロスさせる動きとクロスさせない動きがある。

日本人は一般的に、身体の中心に引き寄せる(陰・集約)動きの方が、離す(陽・分化)動きより安定しやすい。

例えば、土を耕すにも、鍬は手前から自分の方に引き寄せて土を掘り返す。
木を切るにも、日本のノコギリは押すのではなく、引いた時に切れるように刃をつける。

武道では、引くにしても押すにしても、その動作を行うに適正な場所というものがある。
右手の動作なら「正中線上」か「やや右側」、
左手なら「正中線上」か「やや左側」、
両手なら「正中線上」で行う。

基本的にクロスさせない。
なぜなら、クロスする(交わる)ということは、別のものに変化・展開しやすいから。
だから、意図をそのまま体現させたいときは、なるべく交わらせない。逆に、展開させるときはクロスさせる。


これを、例えば、眉毛を描くことに応用するなら、
右利きの人は、左目の眉から描く。左利きの人は右目の眉からと、利き手と反対の眉から描く。

右の眉は右手で、左の眉は左手で描くのが本筋だが、両利き(左右どちらも利き手)でなければ、利き手の反対の眉は手をクロスして描くことになるので、同側に比べて少し難しい。

そこで、あえて難しい方の眉から描き始め、利き手側の眉を、逆側の眉に合わせていく。
(※利き手と反対側の眉から描き始めた後は、左右交互に描いていくと、左右のバランスがとりやすいそうです。その際、どちらか基準の眉を決め、もう片方を基準の眉に合わせて修正すると、左右のバランス(形、高さ)がとりやすいそうです)


最初にどちらを描くかという些細な(?)ことが、全体の出来や調和を決めてしまうこともある。

女性の人達にとっては、釈迦に説法だろうけど。笑






第302話◇筋トレと眼 ••••••
例えば、懸垂100回。
順手でやってみたり、逆手でやってみたり。

広背筋や上腕二頭筋を鍛えるには、いい筋トレになる。
が、当たり前だが身体は一つ。そう考えれば、筋肉も全部つながっていると言える。

だから、極端に言えば、整体動作(全身の出来るだけ多くの筋肉を同時協調的に使う動作)を心がければ、人体約600の筋肉は一つの筋トレ、例えば懸垂でも鍛えられる。

筋肉を部分的に鍛えるなら、鍛えたいそれぞれの筋肉に、より負荷のかかる筋トレ種目の方が効率はいいと思うが、それは私にとってはリハビリ(弱くなった部分を鍛える)的な発想だ。

出来るだけ、整体動作で身体を動かしたい。


すると、以前は思っていなかった余禄が付いてきた。
筋トレで視力も上がってきた。

近視は眼球の周りの筋肉が正常に動かないことに起因する。
人が物体を見るとき、眼から入ってきた光を眼球の後ろにある網膜の1点に焦点化し、視神経を介して脳に送る。その光を網膜に焦点化するために、眼の前面にある角膜と水晶体がレンズの役割をしている。

近視はレンズを動かす筋肉が柔軟に働かず、網膜の手前に焦点を結ぶことで、ものがぼやけて見える状態。
要因の一つは、水晶体の厚みを調節する毛様体筋と呼ばれる筋肉の疲労。

つまり、これをストレッチと筋トレで柔らかく強くできれば近視は改善されるのではないか。

また、外眼筋(眼球の周囲を覆うようについている片目6本の筋肉の総称)が眼球を見たい方向に動かしたり、焦点をうまく合わせるための眼球の角度を調節したりしているので、外眼筋もストレッチ、筋トレできれば、近視はより改善できるのではないか。

身体は一つなので、単純だが、身体の筋トレは、眼の筋トレにもなっているのではないか。


結果…、いつの間にかメガネをしなくなっていた。

近くのもの、遠くのものと交互に見て、眼をよく動かすようになった。
プラシーボでも何でもいい。
今まで「見えない」と思い込んでいた意識も、「ホントは見えるんだよな」と変わってしまった。

以前より大きく変わったことは、近く遠くと眼の焦点を合わせたり、眼をキョロキョロ動かすことと、胸を開くようにしてものを見ているということだろうか。

朝は水で眼を洗う。そして眼の周囲のマッサージと、眼をよく動かすことが習慣になってきた。

身体の筋トレの効果が、眼にまで及んできたと思っている。

もちろん、メガネをかけていた時より、眼が疲れなくなった。それもストレッチと筋トレの成果だろうか。


ただ、それだけじゃない。
人間の眼というものは、目の前の世界を映し出すだけでなく、目の前の世界に自分の意識を映し出す。

だから、目の前の世の中を眺めてみれば、自分の心が分かってしまう。
これも大きな余禄。


さて、、
筋トレで、身体や眼だけでなく、心も柔らかく強くなるものでしょうか?笑






第301話◇丁寧な言葉遣い ••••••
道場における規律の1つに、「言葉遣い」がある。

門下生において、未だに言葉が荒い人たちがいるのは、100%私の責任であり、従って今回の法話は自分自身への戒めである。

言葉遣いを丁寧にする事での変化を最近体感している。その変化とは、
・心が散らからない。心がまとまる。
・己を省みて無駄を省き、自然と為すべきことが整理されてくる。
・そして、無駄口が減る 等。


道場は、自分を修養鍛錬するのだから、まず自分を敬することが大前提となる。
例えば、お辞儀についても、まず自分を敬し、以て相手を敬するために行う(第283話、第46話 参考)。

言葉遣いを丁寧にするというのは、自分も相手も疎かにしないこと、自分を敬し以て相手を敬することである。

幼稚な言葉や悪い言葉を捨てられないというのは、己の器の小ささを証明しているようなものだ。

例えば、ヤンチャするときに言葉が悪くなるのは、相手を威嚇したり、自分を鼓舞しようとする意図があるのかもしれないが、やはり 言葉が悪くなれば、心も乱れやすくなり、自分も相手も敬しにくくなる。


言葉の掛け合い(口喧嘩)の苦手な人が、「喧嘩の口上を教えて欲しい」と言ってくることがある。
喧嘩言葉で相手の心を乱すよう仕掛けるのも有効な手立てではあるが、それはあくまでもまず自分の心を定めた後の余技でしかない。

その人は本当に、口喧嘩の上手い人と同じ土俵に立ちたいのだろうか?


「大学」で学んだように、「止まる(至る)を知って后(のち)定まる有り、定まって后能く静かに、静かにして后能く安く、安くして后能く慮(おもんばか)り、慮りて后能く得」。

訳)修養鍛錬してある境地に至ることで心が定まる。心が動揺せずに定まって後、心は静謐になり、心身は安らかとなる。心身が安らかになった後、物事に対する思慮が働き、明徳を得る。

そもそも、心の定まらない人に余技(喧嘩の口上)を伝えるというのは本末顛倒だ。

結局、そんな余技をいくら使ったところで、時に中(あた)る相手、心が定まり静謐な相手に太刀打ちできるものではない。


FEGの遵奉精神にも、「互敬と親和の精神を以て他者との関係性を充実させる」、「私達は互いに親和し、信義 礼節 謙譲を重んず」とある。

自分を敬し相手を敬し、以て社会の「成長 共栄 調和」に貢献するため、言葉遣いには気をつけたい。


これから、このブログの言葉遣いも…
慇懃無礼にならぬよう、変えなければなりません…。






第300話◇戦う~「孫子」メモ ••••••
戦うか平和かの二者選択なら、平和を選ぶ。戦いを知っているものはそうする。
戦えないのではなく、戦わない。

しかし、戦いが避けられなくなったらやるしかない。

そのために「備えあれば憂いなし」。
普段から備えを怠らない。
それは、心構え、修養鍛錬、軍備防備、関係性の充実等である。

個人に当てはめるなら、
例えば、
・心構えとは「治において乱を忘れず」の気構えであり、
・修養鍛錬とは「健康、仕事、経済、勉強、趣味等」の充足、
・軍備防備とは「稽古、護身」の充実、
・関係性の充実とは「他者、他社との幅広い連携」である。


先月から始まった勉強会、「孫子」は、今から2,500年程前、中国春秋時代の軍事思想家である孫武(?)の作とされる兵法書である。

孫武は、戦争の記録を分析・研究し、勝敗は運ではなく人為によるとして、戦争に勝つ(困難を克服する)ための指針を理論化した。

・彼を知り己を知れば百戦して殆(あや)うからず。
・主導権を握って変幻自在に戦え。
・兵は拙速を尊ぶ。長期戦はダメ。
・事前に的確な見通しを立て、敵の無備を攻め、その不意を衝く。
・守勢のときはじっと鳴りをひそめ、攻勢のときは一気にたたみかける。
・勝算があれば戦い、なければ戦わない。
・兵力の分散と集中に注意し、たえず敵の状況に対応して変化する。
・戦力(体格・体力・筋力等)の差は、戦略と戦術で埋めていく 等。


例えば、
・まず、冷静に自分の位置と能力を分析する。
・相手より高い場所に陣取る。夜なら自販機など光源を後ろにする。相手の人数が多ければ狭く細い場所で。
要点は、相手が少しでも不利になるように。隙や油断を誘うように。
・相手の数と位置を確認して、相手をよく観る。武器を出していなければ、仕切っている人間か、自分から一番近い相手を仕留める。
仕留める前に、次の相手も決定しておく。
速やかに相手の虚に入って仕留める。
・常に先を読み、その瞬間瞬間の「旬」を踏みながら進むよう試みる。

・相手が格闘技経験者なら、突きは、蹴りへ繋げるための前座として出されることも少なくない。
・間合いが近間なら、胸ぐらを掴みながら鼻っ柱か人中に頭突き。
・相手が後ろに仰け反って避けようとしたら、胸ぐらを掴んだ手を離しながら金的蹴。

どの技で対応するかよりも、まずはどんな状況かを捉えること。技は得意なものを出すのではなく、状況に応じること。
得意技でしのぎたいなら、それを使える一瞬の状況を生み出すこと。

見つける、隠れる、探る、討つ…兵法に種類はあるが、形は無くなっていく。
もちろん形はある。ただ、状況ありきの形であって、状況に応じていない形は無意味である。

置かれた状況で、全身全霊をかけて臨機応変に自分の能力を発揮していく。
それは、易経で学んだ「時中」であり、中庸で学んだ「素行」である。


戦いに負けての後悔は、当時の浅はかさ(実力不足、油断、情報不足、臆病 等)が原因。

後悔を減らすために、「備えあれば憂いなし」。
1.日々の修養鍛錬。
2.油断しないこと。
3.腹を据えること。
4.そして、静かである(集中力を切らさない)こと。

事に際しては、有事斬然(ゆうじざんぜん)。
1.ぐずぐずしないできびきびとやる
2.先を読みながら臨機応変に
3.そして、油断しない(集中力を切らさない)こと





道場法話 2017年度 5月


第299話◇皆強い ••••••
勝負においてこちらが勝つのは、相手に敗因があるからであり、こちらが負けるのは、こちらに敗因があるからである。
つまり、勝負にあるのは常に敗因。

敗因とは、
己や敵を知らないという情報不足
臆病・慢心・油断・怠惰
心が散漫で、自ら束ねる力(自律心)がない
(※従って、勝つための基本戦術は、できるだけ相手に情報を渡さず、油断や慢心を誘って撹乱させ、そこにできた相手の「虚」をタイミング良くこちらの「実」で叩きのめすことにある)


弱い人は余裕がない。
言い訳や愚痴が多い。
自分で決めたことをやらない。(だから、自分で自分を信じきれない)
一度やられると臆病になっていく。

…それでは、悪人へと堕ちやすい。

だから、願わくば弱い人ほど成功してもらいたい。
経済的・社会的に成功していれば、心にも生活にも人間関係にも余裕ができる。余裕があれば、周囲に思いやりを示したり、相手を認めてあげたりと、善人として行動できる機会が多くなるだろう。


ただ、そうなるためには、弱さの克服を迫られる。

「私には無理だ」と思うのは自由だが、それはただの妄想に過ぎない。

そもそも、劣等感を持つことに意義はない。
劣等感という妄想は、己の心を食い散らかし、身体も筋肉も萎縮させてしまう。

自分で自分を弱くしている。本当は皆強いのだ。
それを忘れている。勇気を忘れ、挑戦を忘れ、皆の笑顔を忘れている。

でも、忘れているというのは大問題なのだ。自分も周囲も不幸にしてしまう。

自分で「強くある」「挑戦する」と決めた意思は、24時間貫く。志があれば24時間取り組めるだろう。

人は自分を変えられる。

いつまでも弱いままじゃ、色んなことが恐いだろう。辛いだろう。苦しいだろう。悲しいだろう。

「恐いのは嫌だから、弱いままじゃ嫌だ!」と思い、その「嫌だ」という気持ちを育めば、勇気を絞り出せる。
強い人の真似をしていく。

そうすれば何かを達成できる。笑顔になれる。笑顔を渡せる。


強い人たちというのは、弱い人の逆。
つまり、余裕がある。
言い訳や愚痴が少ない。
自分で決めたことを成し遂げる。(だから、自分で自分を信じられる)
そして、一度やられても積極性を失わない。


私たちは、自分で自分を弱くするような妄想を抱いてないだろうか?

皆、自分を変えられる。
ホントは皆強い。
それを忘れていないだろうか?






第298話◇静かな人 ••••••
論語に「士は以て弘毅(こうき)ならざる可からず。任重くして道遠し。仁以て己(おの)が任と為す。亦(また)重からずや。死して後(のち)已(や)む。亦遠からずや」とある。

訳)士たる者は、度量が広く、意志が強固でなければならない。(なぜかというと)その任務は重大で、その道のりは遠い(からである)
(士は)仁道(を体得し、それを世に広めること)を、自己の任務としている。
なんと重いことではないか。(しかも、その任務を果たすためには)死ぬまでやめない(で続けなくてはならない)。なんと遠いことではないか。


やるべきこと、乗り越えなければならない事は沢山ある。そして、その経験が人を強くしてくれる。

少し強くなってくると、多少の事では動揺しなくなる。定まってくる。落ち着いてくる。

強くなればなる程、それまで以上に大変なことが起きる。
そして、それも何とか乗り越えると、また一段と強くなる。

いつの間にか、何が起きても浮き足立ったりうろたえたりしなくなる。

元気と、不撓不屈の精神力を備え、肚が据わり、動きが板についてきて、

その人間は、穏やかに、静かになる。


獲物に狙いを定め、緊迫感の塊でありながら、気配を消した静かな虎のように、
内に並々ならぬ気迫を漲らせ、それでいて穏やかで静かな心こそ、何事をも成し遂げていく原動力。


本当に強い人間とは、
沢山のことを乗り越えてきた人間。

その人間は、
穏やかであり、静かである。






第297話◇「痛ぇ!」という顔をするなよ 笑 ••••••
「痛ぇ!」という顔をしてはいけない。
そんな言動や態度を許すと、不安や辛さを顔に出したり、泣き言や不平不満を言うような軟弱な心に堕落しかねない。

怒り、悲しみ、疲れた、不安だ…そういう負の感情は、決して表に出してはいけない。

それが、武道をやっている者の礼儀である。


これは、上に立つ者ほど厳しく戒められる。
つまり、一家の長や組織の長という立場にある者なら、たとえ命の危険にさらされた状況でも、平静を保たなければならない。

それは、周囲や部下に不安を与えないという礼であり、また、己の覚悟を固めるためであり、活路を見出すためである。


そのためには、
例えば、神様にでもなったつもりで、雲の上から自分を眺めてみればいい。

自分から少し離れると、心が乱れなくなる。泣きごとを周囲に伝えている自分が、なんとも情けなく滑稽(こっけい)に見えてくる。

また、自分自身を客観視することで、周囲の状況も見えてくる。
苦しい悲しい辛いからといって、それを露(あら)わにしていたら、周囲の人も辛いだろうということが分かる。

辛くても、それをオモテには出さない。自分の気持ちを殺すのではない。振る舞うのだ。そうすれば、人に対する礼を守れる。


武の道は、不平不満を言わない不撓不屈の精神力と、他者の平穏や楽しみを損なわないように、自分の苦しみや悲しみを外面に表さない立居振舞、礼を重んじる。

大変な時こそ、思い切って笑ってみる。絶対に笑顔を忘れてはいけない。表情一つで周囲の空気は変わる。
ひとりひとり、それ程大きな責任があるのだから、しっかりしなければならない。

「大変だ」とか「疲れた」という言葉を口にした瞬間、その人も生活も周囲も、大変で疲れたものになる。
辛いのは分かっている。でも、負けてはいけない。

どんな状況でも、まずは肚を据わらせて、心を落ち着ける。そして、まずは相手や状況に礼を述べる。
「痛ぇ」「疲れた」「辛い」等と思ったり言ったりすることに意義はない。


道場は、身体や技を鍛えるだけではない。

不撓不屈の精神力・忍耐力・元気・気迫、そして礼を、稽古を通じて鍛える場である。

それは、己の価値観を根本から確認して、どんな状況であっても、自ら幸せを掴もうと明るく力強く生きることにつながる。






第296話◇闘う構え ••••••
中段構え、八相構え…。
先手必勝のための構え、後手不敗のための構え…。構えは沢山ある。

闘う相手や状況に応じて構えるが、それだけではない。

闘う構えとは、己に対するものである。
相手に対しては、和(なご)やかにする。

論語に、「子曰く、躬(み)自ら厚くして、薄く人を責むれば、則ち怨(うら)みに遠ざかる」
訳)自分の責任を問うことは厳しく、他人を責めることは緩やかにすれば、怨んだり怨まれたりすることから離れるものだ。

「其の悪を攻めて人の悪を攻むること無きは、慝を脩むるに非ずや」
訳)自分の悪い点を責めても、他人の悪い点を責めないこと、そうしていればきっと邪悪な心は取り除かれ、徳を高めていける。
とある。


相手を責めるのは、責めないでいるより簡単だ。
しかし、相手を責めないというのは、「相手を責めたい」という己の心の弱さと向き合わなければならない。

構えとは、状況に対応できるように姿勢や態度を整えることだが、その第一義は、己の弱さと闘うためのものであり、相手を痛めつけるためではない。
相手に対しては、親切に和やかに接することが基本姿勢である。

相手を責める、人のせいにする、世の中のせいにすることは、直面した問題の本質から逃げることになる。
逃げたら学べない。
問題と向き合い、失敗の原因を考え、その経験を次に活かしていくこと。


心は放っておいたら堕落しやすい。
そんな心を束ねるための「構え」ができているだろうか。






第295話◇感謝 ••••••
武道の試合では、試合直後に飛び跳ねて喜んだりガッツポーズをしたら、その「一本」は取り消される。

誰でも喜怒哀楽はある。当たり前だし自然の感情だ。その感受性は豊かに伸ばしていくべきだ。

しかし、感情に心が引っ張られると、喜んでも浮かれ過ぎ、悲しんでも乱れ過ぎてしまう。

武道は、心身の錬磨陶冶を掲げ、もって人格の向上を目指す以上、「過ぎる」を是認するわけにはいかない。


大会参加者は皆、志や目標を抱き、気迫をもって試合に臨む。それが参加条件だから。

「優勝した」「◯◯賞に選ばれた」
当たり前だが、参加者みんなが優勝できるわけではない。賞に選ばれるわけでもない。

選ばれたということは、
存在があって、機会があって、自分を評価してくれた人がいて、協力や支援があったから…。
思いを馳(は)せれば、自分ひとりで掴んだ成功など何も無いと分かる。
すると、自ずと感謝の念が湧き起こり、謙虚になるだろう。

感謝は人を謙虚にする。謙虚には圧倒的実力が前提だ。そのため、もっともっと努力を重ね、油断も隙もなくなっていく。

感謝は報恩になる。人は感謝を恩と感じるようになると、行動で様々に報いるようになっていく。


「なんでもっと褒めてくれないんだよ!」「褒めてくれなきゃ、やる気が出ないじゃないか」
それが人情なのは痛いほどわかる。

しかし、そういう人は弱い。うまく乗せれば頑張るし、貶(けな)せばすぐに心を乱す。 外から受ける刺激に反応するだけなら、心はいつまでも定まらない。

定まらない心では、もし技が一流となったとしても、人格は三流ということも少なくない。
そんな人物が人の上に立ったり、影響力を与えたりしたらキケンなだけだ。


「優勝」と「予選落ち」。
「金賞」と「落選」。
まるで違うようだけど、「感謝」という心から見れば、別の景色が広がる。
結果が何であっても、そこからまた歩いていける。

「感謝」「謙虚」「仁義」など、心の奥に一貫したものがあれば、喜んで浮かれ過ぎたり、悲しんで乱れ過ぎたりと、感情に心が引っ張られることはない。


私淑する師は「心中常に喜心を抱き、感謝を忘れるな。そして陰徳を積め」と言った。

志と目標と、そして感謝…。

心には、一貫したものが欲しい。





道場法話 2017年度 4月


第294話◇集中を妨げるもの ••••••
物事を極める極意とは、「今に集中する」こと。
今に集中するとは、今取り組んでいる対象と一つになる、同化するということ。

昇格審査で、自分の実力不足を棚に上げ、
「何故追試がないのか。1点足りないだけじゃないか。追試をやってくれ」と言う人がいた。


ある人が、弓の稽古で、三本の矢を持って的(まと)に対峙した。

師の目つきが変わった。
「何本も矢を持つものじゃない。一本目の矢に気合いが入らなくなる。いつでも、一本の矢が的中するように精神統一をしろ。未熟者め!」と一喝。

師の前で稽古するのに、わざと最初の一本を無駄遣いする弟子はいないと思う。
しかし、彼は無意識に怠惰な心を呼び起こす。師はそれを知っているのだ。

この戒めは、昇格試験にも当てはまる。

二本目の矢を持たせることは、時に人を怠惰にさせてしまう。


人にはそれぞれの道がある。自分の資質や才能や個性を「性(さが)」と言う。
己の天性を自覚し、その性に従って歩むことを道と言う。

今夜の稽古に明日の修行を思い、明日になったら夜の修行を想像する。
同じ事を繰り返して、「次はもっと頑張ろう」と思い直したりする。

そんな意識では、自分が「怠惰」に支配されていることすら自覚できないかもしれない。

「今に集中する」…何と難しい事か。笑


中国の武術家、李氏八極拳の創始者である李書文を思い出す。
彼は真剣勝負の場において、殆どの対戦相手を牽制の一撃のみで倒した。
彼は「二の打ち要らず、一つあれば事足りる」と言った。

彼は弟子にも「千招有るを怖れず、一招熟するを怖れよ(多くの技を身に付けるより、ひとつの優れた技を極めよ)」と説いている。

次がある、明日がある、来世がある等と思って取り組んではいけない時がある。


二本目の矢はいらない。

一度の機会で十分。
今に集中。






第293話◇恐ろしいもの ••••••
まだ終わってもいないのに、勝手に勝利を確信する浅はかな心がある。
自分の思いつかない策は存在しないと思い込む、傲慢な心(慢心)がある。

それらを「油断」と呼ぶ。

「卑怯だ」「聞いてない」等と言うのは、浅はかで器量が狭い人間、油断した人間の典型的なセリフだ。

油断は、慢心や怠惰から起こる。
油断する人には、逆転など期待できるはずもない。
油断する人というのは、あてにならない。
本人は油断などしていないと言う。

そうなのだ。「油断」は自覚できにくいところが、更に恐ろしいのだ。


大般涅槃経に、以下の一節がある。
「王勅一臣、持一油鉢経由中過、莫令傾覆、若棄一滯、当断汝命」(王が臣下に油を持たせて通りを歩かせて、一滴でも油をこぼしたら命を断つと命じる)

この「一滴でも油をこぼしたら命を断つ」という部分が「油断」の語源となっているという説がある。

「油断」とは、「油を断つ」という甘いものではない。
「断つ」のは、油をこぼした人の「命」である。

油断の自覚のない人、自分の歩いた後を振り返って見てみればいい。
そう言われて振り返った人、ほら、今油をこぼしたよ。笑

勉強、就職、結婚、遊び、酒、ギャンブル、女…数多くの人生の失敗の原因は「油断」である。油をこぼしただけでなく、そこで溺れたのだ。


「呻吟語」は、「人物」についてこう書かれている。
深沈厚重(しんちんこうじゅう)、是第一等素質
磊落豪遊(らいらくごうゆう)、是第二等素質
聡明才弁(そうめいさいべん)、是第三等素質

第一等の「深沈厚重」の人物とは、さっき会ったのにまた会いたいと思わせる余韻の残る人。厚みのある温かさは人を惹きつけ、重みのある発言は人を安心させる。どっしりと落ち着いて深みのある人物。
第二等は、細事にこだわらない豪放な人物。
そして、第三等は頭が切れて弁の立つ人物。

どの人物にも「油断」というものはないのだ。


本来、私達の外にある物事に、大して恐ろしいことなど無い。
恐ろしいと思い込み、そこから逃げる臆病さや卑怯な心の方が、ずっと恐ろしい。

そして、臆病や卑怯な心の後に襲ってくる、怠惰や慢心は更に恐ろしい。私達を油断させるから。


勝負に勝つ原因は分からないが、負ける原因は必ずあると言う。
しかし、本当は勝つ原因も負ける原因も分かっているのだ。

自分が勝った原因は、相手の油断。
自分が負けた原因は、己の油断。


本当に恐ろしいものは、すぐに油断する己の心。戒めたい。






第292話◇努力の基本 ••••••
「昨日の自分を超えたかどうか」
これが、努力の基本。努力したかどうかの基準になる。

できることを繰り返しやっているだけでは、もっと上に挑戦する勇気は削がれ、いつしか守りに入り、臆病になっていく。


稽古も然り。
「稽」は比べる。稽古は古きと比べる。

師や先輩と比べて自分はどうか。
昨日の自分と比べてどうか。

自分を超えるのだから、
それは全力の先にある。


最近いつ全力を出しただろう?

思い出せなければ、全力疾走。
30mダッシュ100本。
これで身体が「全力を出す」ことを思い出す。


掲げた目標も、どんどん更新していける。


様々に創造し展開していくために、
努力には大きな意義がある。






第291話◇変形 ••••••
鍛えた身体の部位は、変形してくる。
形が変わるくらいでないと本物ではない。

…まだ続きがある。

変形した後は、元に戻る。

マラソンと同じ。
マラソンは、スタートから中継地点を経てゴールする。

ただスタートに立つ人(初心者)と、
中継地点まで走った人と、
修羅場をくぐってゴールした人(達人)は、

やっぱり違う。

ただ、
スタートとゴールは同じ場所にある。


麓から、ある山のてっぺんに登る。
てっぺんの景色は、登った人にしか分からない。
ただ、てっぺんにしがみついていても後ろがつかえてしまう。

てっぺんを極めたあの人は、次はどの山に登ろうかと、てっぺんから周囲の山々を見渡している。

そして、未練なく麓に降りて、皆と交わる。
一緒に仕事したり遊んだり酒飲んだり…。

だが、ただ麓にいる人とは何か違う。
そして、彼に自然と感化される人たちが出てくる。
感化された彼らは、自ら定めた山を登って行く。てっぺんからの景色を見るために。


あの人は次の山に登っていく。
その山のてっぺんを目指して。
過去の栄光(てっぺん)にしがみつくことはない。
過去に生きるのではなく、今に生きているから。


だから、本当にコワイ人は、山のてっぺんにいるのではない。

多くの人と同じ麓にいる。


そして、皆と交わり、知らず知らずのうちに多くの人を感化していく。

彼の身体は変形しているだろうか。
そうかもしれない。
そうじゃないかもしれない。






第290話◇コツの掴み方 ••••••
コツというものがある。
学問や芸能の根本的技法、勘どころ。要点を掴み、核心を外さないことを言う。

コツとは漢字で書くと「骨(こつ)」。
骨は体の中心にあり、体を支える役目を果たしていることから、「物事の根本や本質」などを意味するようになったらしい。

「徒然草」にはこんな事が書かれてある。
訳)これから技芸を身につけようとする人が、「下手なうちは人に見られたら恥ずかしい。人知れず猛特訓して上達してから披露するのが格好良い」などと勘違いする人がいる。そんな人が芸を身に付けた例はない。

まだ芸が下手なうちから玄人に交ざり、笑い者になっても平常心で頑張っていれば、才能や素質など不要だ。芸道を踏み外さず、我流にも走らず、時が経てば、要領だけの者、訓練を疎かにしている者を超えて達人になるだろう。

人間国宝も、最初は下手クソだとなじられ、大変な屈辱を味わった。
しかし、その人が芸の教えを尊重して正しく学んだからこそ万人の師匠となった。
どんな世界も同じである。


コツの習得には、修養鍛錬と豊富な経験値が必要だ。イメージしやすいように、極めたい対象を擬人化した実践例を一つ。

例 1)
コツを掴みたい相手に敬意を払って近付く。
親しみ、理解し、調和することが、コツを掴む大前提。

間合い、言葉、話題、感情、姿勢、仕草、呼吸、行動、態度、精神…まずは表面的なところから調和し、理解するように努める。

「北風と太陽」は、太陽が勝った。
相手の心を大切に温める。すると、相手はいつの間にか心を開く。

やがて、相手の指先(末端)に触れる。
髪に触れる。
肩に触れる。
理解も調和も、少し深まっていく。


呼吸と同じように何事にもリズムがある。

相手が「ホッ」と一息つけるように親しみ、相手が息を吸う時に、自然と相手の心の中に入っていく。


末端(指先)に触れて、中心(心)に感応し、中心を動かす。
指先、髪、肩…表面や末端から中心へ。

指で優しくアゴを上げれば、目を閉じるようになる。
そして、柔らかな唇をふさぐ。優しく、深く、浅く。


ネックレスやピアスを取り、服を脱がせる。

耳元で囁く愛は言葉を超えて、新しい波と流れが生まれる。
着飾っているものは一つずつ全て外していく。

優しく肌に触れて、お互いの想いが一つになる。
五感や第六感までも繊細にして、温もりと意思ををもっと奥へ奥へ伝える。
深く届きそうになったと思えば、寄せては返す波のように戻っていく。
届きそうで、届かない。

呼吸を合わせ、リズムを合わせ、もっともっと深めていく。
そして、一番深くにあるのが…………骨。

骨(コツ)を掴み、一体となる。


ん?何の話しだって?
勿論「コツの掴み方」の話。

「骨(コツ)」に、表現力等の「筋肉」をつけ、「皮」を纏い、技芸を自在に創造展開できるようになる。


春はコツを掴む季節。






第289話◇集中力を高める訓練 ••••••
集中力が最も高い状態で維持される時間は20分前後と言われる。

集中とは拡散である(cf. 第285話◇集中すること)が、まずは一点集中。そこから意識を広げていく。

意識を広げていく時に特に使うのは、視覚・聴覚・触覚・嗅覚。身体の前面180度はこれら4つの感覚、後ろは視覚以外の感覚で。自分を中心にして、ぐるっと球を描く。その球の中心に自分を置く感覚。
心は何処にも置かない。その時その時に応じて何処へでも移動させる。

集中力がない人達は、飽きたり嫌になったりしたら気持ちがすぐにぶれてしまい、結果にムラが出る。
これは自分の持ち味が出せず、非常にもったいないこと。


〔集中力を高める訓練〕
1.「集中力がない」と思い込んでいる人は、まず「変わる」と考える。
己を縛っているものは己自身の思考であることを自覚する。

2.前方に一点(近くても、遠くてもOK)何か印を見つける。
姿勢を正し、呼吸を整える(cf. 第279話、第281話)。鼻から5秒かけて深く吸い、口から10秒かけて吐く。細く長くきめ細かい程よい。見つけた印に目で穴を開けるか、その印に自分が吸い込まれるイメージで、心の中で「集中、集中、集中…」と唱えながら60秒間、強く睨みつける。

3.一日10回程行う(印に穴を開けるor吸い込まれるイメージで強く強く睨みつける。姿勢を正しく。呼吸を長く長くきめ細かく)。

うるさい場所でも練習してみる。

4.一週間毎日続ける。
その後は、暗記したいものを紙に書いて前に貼り、1分間これを睨む。
30分~1時間後に、どれくらい覚えているか書き出して、その正確さと量をチェックする。

5.一週間経つごとに、1分→3分→5分→10分→30分…と時間を伸ばしていく。
どれだけ覚えられるようになったか最初の1ヶ月と3ヶ月後の記録を比べる。

記憶力が上がったことが強く実感できる。


6.その他の訓練法
電車内、店内、街中で、特定の人達の話しを聞き取って内容をメモる。
周囲がうるさいほどいい訓練になる。






第288話◇集中と覚悟と「機」••••••
まずは座って落ち着いて。
恐れて相手と対峙するものではない。自分の中の強い自分を信じる。

自分が弱いなんてプラセボ。思い込みに過ぎない。本当は誰よりも強い。

弱いと思ってるから負ける。甘える。だらしなくなる。だらしなくなると馴れ合う。

己の弱さと怠慢さは、結局自分も周囲も惨めにする。悲しませる。
己の弱さは大罪だ。


人間なら自分の生き方を選べる。
美しく生きるか醜く生きるか、強く生きるか臆病に生きるか。

美しくも醜くも変われるもの。
自分を見限る奴は、ただの弱虫。

恐怖の感情の中にも、生きているという実感が生まれる。

緊張するのも当たり前。
勝ちたい?勝ちたいだけじゃ、負ける。
相手も勝ちたいって思ってるから。
覚悟を決め熱い衝動を持って、今の戦いに集中する。


集中して見極めたいのは、「機」。

「機」とは、その時その時にピタッと合う瞬間。機会。タイミング。旬。時中。
「機」は相手の行動の先を読み、全神経と全肉体の力を最も効果的な一点・一瞬に集中させること。
虫眼鏡で太陽の光を一点に集中させると、黒い紙がどうなるか知っているはずだ。

よく集中された「機」は、想像をはるかに超えた力を発揮する。

そして、集中は拡散と同じになる。
(cf. 第285話◇集中すること)

危機や恐怖を目前にした人間の集中力は、通常ではあり得ないほどに高まる。


技や筋力の前に、戦いは「機」で決することが多い。
必要な瞬間に打ち、必要なの瞬間に防ぐ。旬を捉えて動く。

そのために必要なのが、先を見極める心のスピードと視野の広さと勇気。
そして、戦いの中の機を活かすために高めた集中力。


いつも何かに立ち向かっていなくてはダメになる。
逃げることが巧みになり、何かに挑戦しなくなったら弱くなる。
そんな人種もいる。

今日も健康と健闘を。






第287話◇嫌な奴は、なぜ近くにいるのか••••••
そもそも、嫌な奴と仲良くやろうとするから無理がある。

タイトルの答えは、
「己の成長の起爆剤として利用するため」


嫌な奴にただ反論しても、周囲はどちらかの肩を持つようなまねはしない。周囲に同情を求めるような浅はかな思考では話にならない。
相手と対立するという同レベルにいるのではなく、そこから脱却し、進歩発展するにはどうするか?と考える。


居心地いい環境では、飛躍的な成長は望めないことが多い。
そんな中で、嫌な奴は自分の成長を促すためにいるのだから、自分への刺激剤という意味において尊重する。威圧・無視・追放してしまうのはもったいない。

例えば、
嫌な奴を「過酷な大自然」と考えてみる。

自分の生存が脅かされる大自然に文句を言ったり無視したりする事は出来ない。

ではどうするか?

逃げ出すのも一興。
だが、私達の祖先たちは、大自然の過酷さを起爆剤として、寒暖対策や食料の確保・流通・保存等に驚異的な進歩を遂げてきた。
自らが変わることによって、生きのびてきたのだ。

もしも、一年中そよ風そよそよの中で生きていられるなら、何を頑張る必要があるだろうか?


ここにきて、タイトルの問いは間違いだった。変更する。
「嫌な奴(過酷な大自然)を、どのような進歩で乗り切るか?」

思い当たる人がいるかもしれないが、人間関係ごときで潰れてはいけない。

元気、気迫、志、仁義、武器、学問、勇気、創造力、器量、気品、風韻…。そして稽古、仲間。

全て揃っている。

自分を見限ってはいけない。

今日も健康と健闘を。






第286話◇スタミナ養成••••••
スタミナ養成には、水泳かジョギングかダッシュが手っ取り早い。

筋力アップや瞬発力アップも兼ねるなら、30~50m ダッシュ100~200本。

1週間続ける→スタミナがついてきたと実感
2週間目以降→瞬発力アップの実感。
3週間目以降→何をしても息が上がらない体力と、それに伴う落ち着きを纏(まと)える。
4週間目以降→目標を上げて創意工夫。どれくらいの距離を全力疾走できるか?

最初の10本程度のダッシュは、動的ストレッチを兼ねて身体の様々な筋肉を伸ばし温め血液を巡らせるようにおこなう。
それ以降は全力のみ。ペース配分無しで倒れるまでやる。しんどくても立っていられるうちは、「キツイと感じるのは幻想だ」と思ってやる。
そのうち、どうやっても倒れなくなる。

まずは足腰。


でも下半身だけでは物足りなくなってきたら、懸垂も取り入れる。
近くの公園にでも行けば鉄棒くらいある。
順手でも逆手でも目標は100回。
鉄棒もなければ、ダッシュした場所で腕立て伏せ。目標は30分で2,000 ~2,500回。


目標をどんどん上げていくことが重要。

暖かくなって、桜も満開。
今日も健康と健闘を!





道場法話 2016年度 3月


第285話◇集中すること••••••
精神を、何か一つのことに集中する。

すると、機智(その場に応じてとっさに働く鋭い知恵)、第六感(五感を超えた不思議な感覚)、霊感(神仏が乗り移ったような、理屈を得ない直感的認知)等が生ずるもので、そうすると、異常なことができるもの。

その意味では、人生は不思議なことばかり。


日々、修養鍛錬を重ねているなら、安心して物事に集中できる。
集中して取り組むこと、己を尽くすことがベストだ。

すると、自分の身体や頭が、状況に応じてどう反応するかが楽しみになる。
どんな状況でも、自分を自分で見限ることはない。

自分を追い込めば追い込むほど集中力は高まり、身体や頭は迷いなく働くようになる。


そしていつしか、一点集中はその視野が広がっていく。
例えば、車の運転に集中すれば、前方一点集中…ではなく、前も横も後ろも全方位に意識は広がる。
集中が深まり、ある深さを超えると自分の意識は広がり、対象との一体感を感じるようになる。
そして、その意識はどんどん広がっていく。

集中とは、拡散であり一体感である。

まずは、自分の心と頭と身体の一体感、自分に集中する(落ち着く)ことから。

そして、今取り組んでいる事との一体感を持てるように集中。相手との一体感を持てるように集中。

すると、全て取り組むことは、他人事ではない。全て自分の肚の中の出来事となる。


今日も集中して、健康と健闘を。






第284話◇師友を持つ意味とは?••••••
「誰も私のことを分かってくれない」と言う人がいる。

しかし、己を知る者は、まず自分自身でなくてはならない。己を知る…「知己(ちき)」と言う。

自分の性格は?
資質は?
本質は?
理想は?
情熱は?
私たちは、己のことを本当に分かっているだろうか。

他人は自分を理解してくれないどころか、容易に誤解する。そして、平凡な連中は軽蔑や反感を持ち、批判したり邪魔したりする。

未熟な男は、そんな批判や邪魔に対して、あっという間に主体性を無くし潰れていく。環境の支配下に堕ちる。しかし、修養鍛錬し、自らに返り、己の立つところがあると、批判や邪魔等の外圧を克服していける。

世の中は人を理解せず、誤解するのが常である。

司馬遷の「史記」刺客列伝に「士は己を知る者のために死す。女は己れを愛する者のために容(かたちづく)る」とあるように、自分を知ってくれるということは、本当に貴重であり、尊く感激のあるものだ。

だから、士は命をも投げ出し、女は美しくなる。


自ら修養鍛錬する。同時に、その体験をもって同志の理解者となることが大切であり、尊いことなのである。

人の知己となることの難きところに、自分の理解者である師友の存在、師友の理解者である自分の存在それぞれの尊さと偉大さがある。

人の師であり、人の友であるということは、人を知るという事である。その人の本質、情熱、理想を知るということである。

私たちは、人の理解者となることで、初めて師友を持つことができる。
師友を持つことで、初めて自分のことを知ってもらうことができる。
自分を知ってもらうことで、初めて自ら知ることができるのである。

ここに、師友の道が生まれる。


「誰も私のことを分かってくれない」と言う人がいる。

資質、本質、理想、情熱…。私たちは自分を理解しているだろうか?
そして、相手を理解しているだろうか?






第283話◇お辞儀(3 ) ••••••
道場での稽古。

孟子が言ったように、人間の進歩・成長は、「自反(自らかえる)」ことから始まる。これは「論語」「孟子」の根本精神である。
己を棚上げしたり疎外したり、外物に己を奪われたりしては、自分を飾ることはできても成長はない。

そこで、道場に入ったら、まず脱いだ靴を整理整頓、「脚跟下(きゃくこんか)を照顧(しょうこ)※跟…かかと」(脚下照顧)する。つまり、自反である。

そして、入口で道場にお辞儀をする。

なぜお辞儀をするか?
お辞儀とは「吾を以て汝を敬し、汝を以て吾を敬す」ことである。
つまり「自分が相手に敬意を表すると同時に、相手を通じて自分が自分に対して敬意を表する」ことが、お辞儀の真義である(道場法話 第 46話◇お辞儀(2)参考)。

お辞儀は必要ない?
お辞儀を知らないのは鳥獣である。彼らは精神面が未発達だから、お辞儀の真意や価値を尊重することができない。
人間となり始めて発達し、尊重することができるようになる。

お辞儀の第一義とは、「自らを敬す」ということである。他のものにお辞儀するということは、他を通じて自己を敬することである。
つまり、自反である。

第二義に、「相手に敬意を表する」ことがある。
人間関係の根本は、敬い親しむ(礼楽)にある。お互いにお辞儀する、挨拶するということは、互敬…お互いに相敬することのはじまり。


人間がお辞儀をしなくなるということは、鳥獣に堕落した者が増えるということであり、自分を棚上げし、疎(おろそ)かにすることであり、外にあるものばかり追いかけるようになることである。

自反を忘れたその態度は、自らを滅ぼし、周囲を滅ぼし、国を滅ぼしかねない。

脚下照顧、お辞儀、挨拶を行うことで、自反(自らにかえる)することを確かめるのである。


結局、
個人の成長にしても、社会や文明の進歩にしても、全ては個人の心を通じて始めて発達する。

世界の全ては私たち個々人の心から始まり、個々人の偉大さの上に、人類の一切がかかっている。だから、自分を蔑(ないがし)ろにする態度は改めたい。


自反から始めて自反に戻る。
稽古はお辞儀で締めくくりたいと思います。
礼。「ありがとうございました」。






第282話◇勝者の優しさ ••••••
勝負に勝った者が、負けた者に手を差し伸べたり、気遣う言葉をかけたり、笑顔を見せたりすることがある。
勝負が終わればみんな仲良くという事で、勝者が敗者に優しくすることがある。

覚悟のない「勝負ごっこ」ならばそれで構わないだろう。しかし、「真剣勝負」ならどうだろう?

勝った者は、真剣勝負という機会・空間を共に築き上げた相手の存在に対し、心の中で「ありがとうございました」と謝意や敬意を示す。

それ以外、何ができるだろう。


勝者が敗者に向ける言葉や優しさは、時に負けた者の自尊心を傷つける。
それは、気の毒に思われている、からかわれていると感じるからだ。

誰だって、人から気の毒に思われたくはない。どんな負け方をしたとしても。

勝者が敗者に「怪我しなかった?大丈夫?」と気遣ったのは、相手の自尊心を傷つけただけ、という場合もある。


人の優しさは、時に人を傷つける。


強い者はどんなに優しくて善良であっても、否、優しければ優しいほど、どこかの誰かに憎まれることがある。

だから、男が人から憎まれることは全然構わない。
男が恥ずべきは、人から嫌われることと、人から軽く見られることである。






第281話◇息(2 ) ••••••
私たち人間の心と身体は、きっと私が思っているよりもずっと効率が良い。

例えば「両忘」。物事に打ち込んでいると、飲食の欲求と憂いは忘れてしまう。筋トレもきつい?ただ打ち込んでいれば、そのつらさも忘れられる。笑
例えばダイエット。脂肪1kgで、フルマラソン3 回走れるだけのエネルギー源になるという。
例えば女性ホルモン。生涯で分泌される量は約5cc。5cc で一生分という効率。
例えばシンクロナイズドスイミング。これは陸上で言えば3分間のダッシュを、息を停めて笑顔で行うようなもの。肺からだけでなく、脾臓が追加の酸素タンクの役割を果たす。


息(呼吸)は、できるだけ深く静かに穏やかにする。夜のように静かに、海のように深く。
息は、きちんと吐ければ、きちんと吸える。
息が荒い場合(風・喘・気)には、動作も荒くなる。

息は、有るがごとく無きがごとく、綿密繊細、寂然静虚であること。鳥の羽毛を鼻先に当てても動かない。ロウソクの火も揺れない。

そんな呼吸では苦しくて仕方ない?鍛錬していくしかない。深呼吸をゆっくりゆっくり時間をかけて行うことから始める。

呼吸主導で動きを呼吸に合わせるなら、例えば、筆を動かす速さは息を吐く速さに一致する。
毎秒5mmで息を吐くなら、毎秒5mm で筆を動かす。息を止めれば筆も止まる。

突き蹴りは、毎秒5mmで息を吐くなら、毎秒500mで手足を動かすつもりで。相似形として一致させる。

傍目には息を吐いていると分からない程、きめ細かく。

ゆっくり息を吐きながら、ゆっくり筆を動かす。速く吐きながら、早く動かす。息を止めれば筆も止まる。

吸いながらも同じようにできるようにするが、まずは吐く息と動作を一致させる。
吸うのは、動作の準備のとき、ためるとき。


動作は呼吸主導で息と一致させる。その呼吸は整えた姿勢から生み出す。姿勢と呼吸を整えることで、心も身体も定まってくる。定まった心身から行動を始める。

また続きは◇息(3)で。






第280話◇四書 ••••••
もちろん、突き、蹴り、受け、関節技の四技の事ではない。

四書とは、論語、孟子、大学、中庸のこと。これらの書は志気を養う基本。義とは何か分かる。全て暗記。覚える。

・論語…12,700字
・孟子…34,685字
・大学…1,851字
・中庸…3,568字
四書の合計で52,804字。

1日100字を100回ずつ読めば、528日(1年半)で終わる。
今日から始めても、来年の9月に終えられる。
「自得」するために、技を繰り返し行う稽古と何も変わらない。
100回も読めない?それは勘違い。気のせいだ。誰でもできる。

「自得」と言えば、例えば中庸に「素行自得」の文がある。
これは約50字。100回(50回)程声に出してじっくり読めば、諳(そら)んじることができる。

「君子は其の位に素して行い、その外を願わず。富貴に素しては富貴に行い、貧賎に素しては貧賎に行う。夷狄(いてき)に素しては夷狄に行い、患難に素しては患難に行う。君子入るとして自得せざるなし」。

ここは「素」「自得」が眼目。
・「素」…素質、本質、自分の立場から遊離しないこと。
・「自得」…自分で自分を掴む。人間は自得から出発すべきである。地位や金が欲しいというのは枝葉末節。本筋はまず絶対的な自己を得なければならない(論語では「修己」と言う)。
しかし、一番失いやすいのも自己。根本に於いて自己を把握していないから失いやすい。

訳) 立派な指導者は、自分の存立する場に基づいて物事を行う(現実の場から遊離してはいけない。ところが、人間はすぐに他人を羨む。それは、甘やかされた軟弱者の心理である)。
富貴であればその位に素し、現実に立脚して、その地位の意義・使命を十分発揮し、その力を活かす。貧賎然り。夷狄(野蛮人・国)に対しても、悠然と普段と変わらず振舞う(自ら養うところがないと、居所が野蛮な所に変わるとすぐに参ってしまう)。患難然り。
現実を暖昧にした生活は妄想となる。素にして(現実に立脚して)、はじめて人間は自己を把握(自得・修己)できる。

虚勢を張って背伸びしたり、怠惰になって諦めたりでは、どちらも自己を掴めない。そうではなく、「その位に素して行い、その外を願わず」でいく。

するとどうなるか。
自己表現は自己主張ではなくなる。
周囲の雑音を気にせず、自分の使命成就に邁進し、その結果の富貴も貧賎も受け取り、しかしそこには少しもこだわらない。
また次の目標に向かって邁進し、創造展開し続けるようになる。

「できない」という泣き言は必要ない。
自己を把握し、素して邁進する。

中庸の素行自得の所、50回程読んだら覚えられただろ!「素」を「自得」できそうだろ。笑






第279話◇息 ••••••
調息法、呼吸法、動きと呼吸の連動。
武道だけでなく、学問芸道で呼吸を研究しないものはない。

剣道、柔道、合気道、空手道、書道、茶道、華道はもちろん、絵を描くにしても、楽器を演奏するにしても、歌を歌うにしても、スポーツでも、礼法でも、とにかく何をするにしても呼吸を大切にする。

人と人との関係でも、「呼吸を合わせる」「息が合う」等と言う。

調息法・呼吸法の要諦は何か。
それは、
できるだけ息を静かに穏やかにすることにある。

そして、「息」まで辿り着くのに4段階ある。

1.自分の息が人に聞こえるような息、鼻息が荒いと言ったりするが、それを「風」と言う。息の部類には属さない。

2.「風」が少しおさまった呼吸を「喘(ぜん)」と言う。喘息(ぜんそく)の喘。これも、息の部類に属さない。呼吸に無理がある。

3.「喘」がおさまって落ち着いてきたものを「気」と言う。まだ息とは言わない。

4.「気」が落ち着いて、はじめて「息」と言う。「息」とは、有るがごとく無きがごとく、綿密繊細で鳥の羽毛を鼻先に当てても動かないほどになる。ロウソクの火も揺れない。寂然静虚になり呼吸が整う。


確かに、すれ違った時に鼻息が聞こえる人は隙があり、お人好しが多い。相手の呼吸にこちらの呼吸も合わせれば、こちらの気配は消える。
それに比べて、呼吸が静かで聞こえない人は隙のない人が多い。

動きと呼吸との関係、原則は呼吸主導。身体の動きに呼吸を合わせるのではなく、呼吸に身体の動きを合わせる。
だから、動きのリズムを変えたければ、呼吸のリズムを変える。

皆、文字を書く速さ、呼吸に比べて速すぎるよ。笑
緩急のリズム、流れ、意識している?
呼吸に合わせてる?笑






第278話◇兵法は平法なり ••••••
兵法は「平法」、つまり道着を脱いで私服でいる時、日常が大切である。
「汗流し、道着脱いだら、ただの人」では…。笑

宮本武蔵は「五輪書」の中でこう説いている。
「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とす」。
1万日。1年 365日×約30年。
鍛錬とは、30年に及ぶ毎日毎日の稽古だ。

そして、江戸時代の将軍家の剣術指南役、柳生石舟斎はこう言った。
「稽古鍛錬常にして、色には出さで隠し慎め」。
毎日の稽古が大切だが、鍛錬していることは顔にも気配にも出してはいけない。そういうことは人に知られないよう隠し、みだりに腕前を披露することなく慎むべきである、と。

何のための稽古か?
柳生石舟斎は言う。
「かなわぬ折の身のためと、心にかけて稽古をよくせよ」と。
いざという時のために、毎日稽古を怠らないようにしなさい。


毎日毎日、修養鍛錬する。しかし、その努力の跡をひけらかすのは野暮である。

能の世阿弥が「風姿花伝」の中で言うように「秘すれば花」なのである。
内に秘めたものがあるからこそ、価値があるのだ。


努力、鍛錬は大切。
しかし、それを誇示してはいけない。「それは生まれる前からできるよ」と、何でもない顔をして、容易に人が真似できないことを淡々と成し遂げていく。
そのための努力を、人に見せずに行う。


それから、もう一つ。
「それは生まれる前から知ってるよ」と、何でもない顔をして、人の知らない情報が集まるようにしておくことも非常に大切。

「何かあるかも!」と思わせる所に、人は集まるものだから。


日常平素、どんな心がけを持っているか。

毎日毎日、自分の専門知識・技術を修養鍛錬しているか。
情報と人が集まるようにしているか。
日常の心がけが、とっても大事。






第277話◇ビビってしまう ••••••
真剣勝負。
技は徹底して磨くが、技以上に相手の心臓を握りつぶすほどの気魄で攻めることが第一義である。
気魄で空気を震わせ、抜き身の日本刀のように鋭く、そして津波のように相手に迫る。

技と技、気合と気合がぶつかる時は火のように激しく、また水のように静かにせめぎ合う。己と相手との一体感。峻烈な気魄…。
真剣勝負は人の魂を震わせる。

真剣勝負は誰だって怖い。誰だって怖いのだ。
しかし、自分の命を晒し、相手に殺されてやるくらいの覚悟がなければ、ビビって動けなくなってしまう。己の全てを出し切る気魄、命をさらけ出す勇気が真剣勝負には必要だ。

武の道においても、覚悟を持っていなければ、技や身体をいくら鍛えてもモノにならない。
どんな道であっても同じだろう。真剣勝負の場は、ごっこで満足してる連中がのさばれるような所ではない。

覚悟とはケジメをつける心であり、一度構えたら必ずケリをつけるという心である。
そこには「死ぬ覚悟」と「殺す覚悟」という二つの側面がある。
「死ぬ覚悟」とは、命を奪う相手に対して己の命を晒す、男としての礼儀である。
「殺す覚悟」とは、躊躇せずに全て受け入れる勇気である。

覚悟のない相手からは、殺気が感じられない。相手に覚悟がなければ、こちらに覚悟がなくても身体は動く。
だが、相手に覚悟があり、こちらに覚悟がなければ、身体は恐怖で動かなくなる。


弱い自分が、自分の中の何かを断ち切るにしても、命を賭けた真剣勝負でなければ断ち切ることはできない。その覚悟がないなら、自分で自分の夢や志を壊す愚かな男に成り下がってしまう。

自分の志や信念を貫く。理想を掲げて絶対にそこへ行く。肩書きや身分ではなく、そういう想いの強さが男には必要だ。その想いの強さが覚悟へ変わっていく。

やがて、自分ではなく他の誰かのために命を賭すようにもなる。自分を必要としてくれる人、自分が必要とする人のために生きるようになる。そのために己を磨く。 もし、自分のことばかり考えてると、心は弱く小さくなり、足元をすくわれる。


真剣な世界とは、奥深く気高く美しいものである。
ただ、入り口が狭い。心が恐怖に飲み込まれてビビってしまうような「覚悟」のない人は入れない。

覚悟を決めて進む。恐れるのが一番悪い。覚悟を決めて臨めば事は成る。






第276話◇修行というもの ••••••
・修養…徳性を磨き、人格を高めること。
・修業…学術・技芸を習い修めること(資格・卒業等がある。修得に重点を置く)
・修行…精神・肉体の鍛錬(努力に重点を置く)

カール・ヒルティは、「人間の真実の正しさは、礼節と同様、小事における行いに表れる。小事における正しさは、道徳の根底から生じるものである。
これに反して、大袈裟(おおげさ)な正義は単に習慣的であるか、あるいは巧智に過ぎないことがあり、人の性格について未だ判断できないことがある」と説いた。

その人の大袈裟な正義の主張より、何でもない日常の言動に心を留めたい。

偉大な修行というと、どんなすごい事をするのか、人間離れしたことをするのかと思う間は、まだ何も分かっていない。
日常事実の工夫に徹することが偉大な修行なのである。

だから、挨拶(自らの心を開き、相手に親しむ)、脚下照顧(靴を脱いだら揃える)、作務(掃除。丁寧な準備と片付け)、そして物事への応対と挑戦等を大事にするのだ。

昼飯は食べ終わっただろうか。
丁寧に片付けて、歯を磨こう。

午後も健康と健闘を!






第275話◇修養というもの ••••••
「修養」というものは、欠点を潰していくものというよりも、寧(むし)ろその人の持っている性格の欠点をそのまま善化していくこと、欠点という短所をそのまま長所に化していくことである。

そもそも、短所と長所は同じものである。右から見れば臆病に見え、左から見たら慎重に見える。短所と長所は別々にあるものではない。

逆に、人物の修養をしなければ、その人の持つ長所もそのまま短所になってしまう。例えば、美しい容姿で産んでもらったら、その美しさがその人の短所となってしまうことがある。容姿外見ばかり重視して、精神の修養を怠る原因になることが少なくない。

周囲を見渡しても、長所を短所としている人がいて、短所を長所としている人もいる。
短所を長所としている人達こそ、偉大で素敵な人物だ。

私たちは、ひとりひとり異なる。その多様性こそ素晴らしいものだ。そして、そこに修養を積むことで、様々な短所はそのままでその人の長所と化し、強み、魅力となる。

それは、個人に限らず、組織・企業・民族・国家も同じこと。

ここに、人物修養の必要性がある。

修養せず「そのままでいい」ということはあり得ない。それでは長所が短所になってしまいかねない。
修養が無ければ、発展する可能性はあるが、いつまでも「未熟」なままである。

それじゃ、哀しい。


人物の修養に欠かせないのは3つ。
1. 私淑(ししゅく)…古今を通じて優れた人物に学ぶ。
2. 愛読書…古典、伝記。
3. 経験…恐れずに人生のあらゆる経験を嘗め尽くす。


修養の面白さとは、短所をそのまま長所と化していくところにある。
これが自分で自分をクリエイトしていく、プロデュースしていくことである。

創造であり、展開である。





道場法話 2016年度 2月


第274話◇姿勢と呼吸を整えることから ••••••
1.「姿勢・呼吸」を整える。
すると、

2.「心」が落ち着き、整ってくる。

心が整うと、

3.「仕草・動作・言葉・態度(立居振舞)」が整ってくる。


姿勢・呼吸を整える修養鍛錬を重ね、
心を養う修養鍛錬が必要。

心の修養鍛錬ができてくれば、自ずから「志」や「目標」が生まれてくる。

そして、その心の上に様々な知識・技術…等、あらゆる物事への取り組み、応対、挑戦等を乗せて、己の成長と周囲や社会への貢献へと自分を進める。

直接目に見えるのは、
1.姿勢と、3.仕草や言葉や行動だ。
2.心は目に見えない。

だから、
「姿勢」を整えれば「仕草・行動」が自然に整うという、「心」をすっ飛ばした考え方もある。

しかし、本筋はそうではない。

姿勢と呼吸を整えるのは、「心」を落ち着かせ、整えるためである。
そして立居振舞とは、整えた「心」が表に現れたものである。

つまり、直接見えない心が本(もと)であり、立居振舞が末なのだ。


どのような心を、整った心と言うのか?
それは、東洋思想の人物論へと譲る。
「易経」は「天行健、君子以自彊不息」と言い、「孟子」は「浩然の気を養う」と言う。が、その話はまたの機会に。

まずは24時間姿勢と呼吸を整える。人間の第二の天性である習慣にする。
それが精神的な骨格、強靭な背骨になる。






第273話◇引き出す努力 ••••••
今まで何をしてきたかは、厳然と刻まれる。

しかし、上に立つ人達は、部下達を「何を成したか」だけで判断してはいけない。
それでは、己の器量の小ささを露呈するようなものだ。

リーダーならば、相手の可能性を引き出す努力が不足していないかを省みたい。

「あいつはここが駄目。そいつはここが駄目。駄目、駄目、駄目」。
…そうかもしれない。

しかし、ほんとうに駄目なのは誰か?

そんなことを考える「お前こそ駄目だ」。

そう言われても仕方ない。

あいつは駄目だ、と言う前に、何ができるか…と、その可能性を見つけ親しみたい。


そして、誰もが自分自身のリーダーである。

「自分は駄目だ」などと、自分自身を見限る男ほど情けない生き物はいない。
そもそも、世の中の悪事は、その人間の器量の小ささや弱さから引き起こされることが多い。


・今一度、自分を省みて、無駄なことを省く。
・野望や目標を掲げて、筋道(計画・戦略)を立てる。
・そして、自分に期待し、自分を鍛え、自ら進んでゆく。

まず引き出すべきは自分の中の勇気。
そして、目標を掲げる。
戦略を立てる。
第一歩を踏み出す。


朝からいい天気だ。
誰かのセリフじゃないが、心の奥底にはいつも太陽を!

早朝稽古、早朝ミーティング、お疲れぃ!
今日も健康と健闘を!






第272話◇論語読みの論語知らず ••••••
論語 顔淵篇
「哀公問於有若曰、年饑用不足、如之何、有若対曰、盍徹乎、曰、二吾猶不足、如之何其徹也、対曰、百姓足、君孰与不足、百姓不足、君孰与足」

論語に、魯の国の第27代君主哀公(あいこう)が、孔子の弟子の一人有若(ゆうじゃく)に「農業の不作による目前の財政難をどうするか」と意見を求めたくだりがある。

有若は「凶作の時ほど、人民に対する課税を減らすべき」と徳治主義を進言し、増税より減税によって人民の生産力を養うべきと、哀公に勧めた。


思うに、哀公は短期的解決策を求めたのに対し、有若は長期的解決策を示した。

しかし、有若の長期的結論だけでは、今がしのげない。哀公の求める短期的結論だけでは、国の行く末が危ない。

…どうするか?


私達は、「思考三原則」の一つ…「短期だけでなく長期的にも物事を考えること」を知っている。
そして、哀公と有若ふたりのやり取りを知った。

上杉鷹山をはじめ、江戸時代の名君たちは論語を学んでいた。
彼らは様々に意見を聴き、「今日明日の飯をどうするか」という短期的対策を講じ、同時に長期的計画と人づくりも行なった。
短長同時政策である。

論語の文字をなぞって書かれていることを理解するだけでは終わらない。
もし、書かれていることをなぞって政策を決定していたなら、今日の飯が食えなくなってしまう。
「論語読みの論語知らず」とはこのことだ。笑

有若の言ったことは間違いなのだろうか?
そうではない。
各々の立場から、主体性を失わず、考えることを止めず、結論を出し、それを実践していくことが「学ぶ」ということだと思う。

そうすれば、教師であっても反面教師であっても、学べることの価値に差はない。


私達も論語を学ぶ。
考えることを止めず、主体性を失わなわず、日々の稽古・日常に各々が応用していく。

「論語読みの論語知らず」にならないよう、己を戒めながら。






第271話◇戦いに敗れた?大したことじゃない ••••••
頑張ったのに敗れた?
頑張ったぐらいで勝てれば誰も苦労しないだろ。笑

その傷心を癒しに温泉に行く?温泉で癒されたい?
それは引退した者の発想だ。

まだ寒いからって、何を勘違いしてるんだよ?笑

戦いの傷は、次の戦いでしか癒せない。
その敗戦は、次に戦うことでしか癒されない。そして勝とう。


人間の本性というものは、徹底的に打ちのめされた後の表情に出る。徹底的に叩き潰された後の顔に出る。

自分の本性が知りたければ、そんな時に鏡を見ればいい。
そこに映る顔は、「豚」か「羊」か「狼」か…。

・元気(気力・骨力)
・気魄(負けじ魂)
・志(目標・夢)
・格(器量・度量)
・慈悲(人情)
…結局、自分が血反吐を吐いて体得したもので自分は作られている。

そもそも、戦いに敗れた時に俯(うつむ)いてしまうような男では、大して世の中の役に立たない。一緒に仕事したくないだろ。笑


様々な事態に直面して、時には足がすくむこともあるだろう。それは本能だ。
しかし、覚悟を決めれば、恐怖心を消して戦いのリングに上がれる。
何事も自分次第。時には意志の力で本能を制するのも楽しいじゃないか。


さて、今日もまた1日が始まる。
出かける時、忘れ物をしないように。

特に財布、スマホ、受験票と筆記用具、そして度胸、夢…。
忘れずに。笑

今日も健康と健闘を!






第270話◇笑う門には福来る。なぜ? ••••••
組手稽古の時、
相手の目を見るか見ないか。
どちらでもいい。

立ち姿、歩き姿、目線、呼吸、雰囲気、顔相、人相、そしてできれば食生活で、凡そ分かる。やってみなければ分からないというのでは、まだまだ心が未熟。

さて、道着を脱いでスーツ姿で人と会う時も同じ。

その時、お互いの表情に笑顔がないと、コミュニケーションは対等に成り立たない。
笑顔の無い方は、幼稚であることも少なくない。

納得して握手をする時、多くの人は微笑む。目に力がある。

笑い・笑顔には、「あなたの敵では無い」「元気である」「一緒に温かい雰囲気を作ろう」「楽しい」…様々な意味と大きな力がある。

笑顔とともに声を掛け合うというのは、有効な護身術にもなる。


さて、笑う門には福が来るのはなぜか?
笑いというのは、免疫力がアップして健康増進に資する…だけでなく、人間社会における、人と人との親和力を高めるものでもあるからだ。

笑いは、人と人との心を親しく結びつけ、様々なものを生み出していく力になる。

では、今月も虎の尾を踏みながら、健康と健闘を!






第269話◇師厳にして然る後に道尊し… ••••••
この言葉の「師」は己と置き換える。
「自ら持すること厳にして然る後に道尊し。道尊くして然る後に、学を敬するを知る」。

自分自身に対して、どこかに厳しいところがなくてはならない。
だらしがない、締まりがないというのではいけない。

ただ、「厳」というのは、外に対して要求するものではない。自ら持すること厳とする。だらしがない、締まりがない、臆病・卑怯・怠惰というものを、自ら許さない。

これが「厳」である。

それだからこそ、道が尊くなる。


先日、忠臣蔵の吉良上野介の系譜を調べていたら、足利尊氏にも行き当たった。今川義元、徳川家康、上杉謙信…。
「公方(室町将軍)絶ゆなば吉良が継ぎ、吉良絶ゆなば今川が継ぐ」と言われたように、吉良家は将軍を継げる家柄だった。

それはともかく、足利尊氏。
彼の求道者としての逸話を、夢窓国師が以下のように伝えている。

「彼には他の武将が及ばない秀れた資質が3つある。
1. いかなる戦場に臨んでも恐怖の色がなかった。
2. 依怙贔屓(えこひいき)することがなかった
3. 物惜しみすることがなかった

しかし、彼の凄いところはまだ別にある。
それは、宴席でどんなにへべれけになるまで飲んで酔っ払って帰ってきても、部屋で坐禅を組んで一思索しなければ、決して眠らなかったこと。

これは是非門下生の皆も試して頂きたい。

酔っ払って坐禅を組んだり正座したり、書を読んでいるとひっくり返ることもある。

が、何度かやると慣れる。
帰宅して坐禅、正座、読書をしていると、酔いは覚めるようになる。
実証済みだ。


道場。道を求める場として、その道を尊いものとすべく、己の弱さを始末すべく、自らを厳にするという習慣、一興です。






第268話◇基本 ••••••
◼️呼吸・姿勢
まず呼吸と姿勢を整えて立ち、足は肩幅程度に横に開く。
この状態で前後左右斜め、自由に動けるよう運歩。
「基本」は、「当たり前」「不自然でない」というのが大切なこと。

◼️心構え
自在に応対する心構えが大切だが、まずは「鯉口を切っておく」つまり、「寄らば斬る」という隙のない心構えを作る。
人を傷つけると考えるのではなく、「降りかかる火の粉を払う」「迫る脅威を取り除く」と考える。
決断力と度胸が必要。ためらう、迷うというのは良くない。

◼️手順・数
そして手順を踏む。
数をかける(10〜15万回)。

観察→構え(構えの途中でも動きはスタートできることも大切)→拳は相手の正中線を押さえるように→拳は軽めに握るが隙間を作らない→突き→残心・観察(相手を制したことを確認)→構え→観察。

◼️流れ・波
観察→心構え→呼吸・姿勢→体構え→技→残心(構え→呼吸・姿勢→観察)という手順・流れを大切に。

観察をピークとした波、心構えをピークとした波、技をピークとした波、呼吸という波…波が幾重にも重なって流れができる。

◼️一体感
技は相手がいることで成り立つから、相手との一体感を持てるようになることも非常に大切。
独りよがりの技を相手に押し付けるだけでは、すぐに行き詰まる。


ただ、基本とは、私の器量では説明し尽くせるものではない。
物事のある側面から見た説明に過ぎない。

◼️類推・応用
机の一隅を照らして、他の三隅、机全体を知るが如く洞察力を発揮し、様々に応用して頂きたい。





道場法話 2016年度 1月


第267話◇元気 ••••••
正月に手に入れた張子(はりこ)の達磨(だるま)。


達磨(ダルマ)は、元気の象徴、創造力の象徴だと思っている。

達磨といえば、七転び八起き。
九転び十起き。
起き上がり小法師。


あの赤や白の張子(はりこ)の達磨には、手が無い。足も無い。そしてひっくり返すと、自ら起き上がってくる。


元気のある人も同じだ。
倒れても倒れても倒れてもくじけない。
「まだまだこれから!何かできるはずだ!」という気魄とともに、何度でも起き上がってくる。

…「元気」とは、これである。

何かをやってやろう、成し遂げてやろうとする気魄こそが元気である。


元気は、必ず知的好奇心に結びつき、精神を高める方向へ向かっていく。そして、その精神は「理想」を生む。

元気ある人間が何の理想も抱かずにいられるはずはない。
人間とはそういう生き物だ。

人間が「理想」を持つと、その理想に照らして現実を見る。そこから反省と自己批判、そして負けじ魂が生まれる。

また、「理想」はその人の行動の判断基準にもなっていく。


元気とは、必ずしも健康であるとか五体満足であるということではない。
虚弱体質や身体障害を持っていても、元気の獲得は当然可能である。

元気とは、私たち一人一人が必ず持っている不撓不屈の精神であり、未練を残さないことであり、思い切ることである。

「元気を出さなければ…」と気負うものでもない。

自分に返り、落ち着けば、元気であるということは、ごく自然なことである。

造化の力・働きが、自然と己に満ち溢れてくるに任せて、業を成していく。志を貫いていく。


改めて今日決めたことが一つある。

「他を批判しない」。






第266話◇男子八景 ~「呻吟語」より ••••••
中国の古典「呻吟語(しんぎんご)」に、男の理想像を絵画的表現で表したもの(男子八景)がある。

◾️「泰山喬嶽の身」(たいざんきょうがく)
→泰山や高い山嶽のようにどっしりと落ち着いてみえる身体。

◾️「海濶天空の腹」(かいかつてんくう)
→海の広々としているような、天の蒼々として何の遮るものもないようなゆったりとした腹。

◾️「和風甘雨の色」(わふうかんう)
→万物を生き返らせる和やかな春風の如く、甘くてやわらかな雨の如き顔色。

◾️「日照月臨の目」(にっしょうげつりん)
→日の輝いているような、月の照り映えているような輝きのある澄んだ目。

◾️「施乾転坤の手」(しかんてんこん)
→天をめぐらし地を転がせるような手。

◾️「盤石砥柱の足」(ばんじゃくていちゅう)
→盤石のようにどっしりとした、砥柱の激流の中にあってびくともしないで立っているような、そういうずっしりとした堂々たる足。

◾️「臨深履薄の心」(りんしんへいはく)
→深淵に臨む時のような、薄氷を履む時のような、注意の行き届いた心。

◾️「玉潔冰清の骨」(ぎょくけつひょうせい)
→玉の如く潔く水の如く清い清潔な骨。

これ男子八景なり。

「婦人六相」というのもあったな…。ま、それは後の機会に。


閑話休題。
また「呻吟語」では、人物についてこうも言っている。

深沈厚重(しんちんこうじゅう)なるは、是れ第一等の資質なり。
磊落豪雄(らいらくごうゆう)なるは、是れ第二等の資質なり。
聡明才弁(そうめいさいべん)なるは、是れ第三等の資質なり。

まず第一等の人物とは「深沈厚重」。どっしりと落ち着いて深みのある人物。
細事にこだわらない豪放な人物は第二等。
頭が切れて弁の立つ人物は第三等。


深沈厚重の人とは、さっき会ったばかりなのに、またすぐ会いたいと思わせるような余韻の残る人。
厚みのある温かさは人を惹きつけ、重みのある言葉は人を安心させる。(安岡正篤)



第一等は深沈厚重な人物。






第265話◇奇人変人 ••••••
型にはまった男が非常に多い。それだけ世の中が常識的だということだが、少々面白くない。
そのつまらなさの解消を、世の中の悲惨なニュースなどの刺激に求めるのは情けない。

周囲に奇人変人はいるだろうか。
自分自身はどうであろうか。

そもそも、奇人の「奇」は本来「畸」と書いた。「田」は囲いであり一定区画を意味する。「奇」はその区画からはみ出している者を言う。
天に等しくして、人に畸なる者こそ「奇人」である。


東洋の人間学を4つに分けるなら、
1.頭。これは才能を表し、
2.旨。これは情緒、
3.腹。これは胆力・実践、
4.足腰。これは堅実さを表す。

その人が才能に溢れていても、才能だけではダメ。情緒は人を動かし協力させる力になるが、肚ができていないと弱い。そして足腰がしっかりしていないと堅実さと持続が保てない。

奇人は変人と言われるが、彼らはただの少数派であり、本当は前述の4つを備えた者を言う。

つまり、偉大なる常識人なのだ。

公私混同するような小さな人物ではない。


どんな場所でも求められるのは、このような偉大なる常識人ではないか。






第264話◇習慣 ••••••
道場法話には、話題のストックがある。
ストックしてある話題数は1,300程度。

先日、その全データを失った。

落胆した。


このデータが無くなり、私は即死しただろうか。
…してない。

ならば、ただのかすり傷だ。


またメモを作る。

習慣がそうさせるのだ。

習慣は第二の天性とも言う。
自分を前に進めるのは、習慣の力。






第263話◇勝負!余裕!!メモ ••••••
・集中すると、吸い込まれる。

・力を持つのは、自分自身に覚悟を決めた者だけ。道義を体現し、あらゆる事を遂行していく覚悟。

・言は訥にして行いは敏ならんと欲す。御託はいいから、実践と強さで示す。

・「勝てなくても戦ったあいつは自分の誇りだ」こう相手に言わせる勝ち方をしろ。
そして「お前は何て強いんだ!」そういう相手に会う時も来る。

・勝負の世界は何もない真っ白な世界。没我になっている。しかし、勝負には決着がつく。
ただ、人を傷つけながら勝ち抜いていくことに意味はない。勝者とは、敗者の上に立つ殺戮者であってはならない。

・自分には見えなくて、相手に見えているものは一体何か…を考える。

・自分を卑怯・臆病・怠惰だと思っているうちは、勝てない。

・殴られ、倒れ、ピクリとも動けなくなっても自分を信じきる強さ、負けじ魂を養え。

・戦いで大切なのは体の大きさではない。腹の中にある闘志の大きさが大切なのだ(マーク・トウェイン)

・出発点の差、出足の差によって、行き着く場所は大きく変わっていく。大事なのは終盤ではなく序盤。
序盤はそつなく丁寧に正確に、中盤は閃きと工夫と深い読み、終盤は計算し尽くされた深い読みと腕力。

・軽々しく人を評価するようなことは言ってはいけない。

・もっともっと辛い思いをして闘ってる奴がいる。へこたれるわけにはいかない。

・勝とうとしたら浮き足立ち、守ろうとしたら相手に乗ぜられる。だから、まず勝敗の気持ちを度外視して、虚心坦懐・無我になって事に処する。

・大小の勝負に関係なく「流れ」は生まれる。

武において、身体・技・胆力を練磨する。
禅において、心を練磨する。
学において、道と理を会得する。
日常にこれらを溶け込ませる。修行は自然であるべき。






第262話◇睡眠の修練 ••••••
「人生、夢幻(ゆめまぼろし)の如くなり」と言うと、それは例えだと思う人が多いだろうが、そうではない。

人間は本当に夢ばかり見ている。
一晩に熟睡(ノンレム睡眠)は60~70分程度。

それ以外の時間は、うとうと夢を見ている。浅く眠っている(レム睡眠)。
しかし、それらの夢は記憶にないから眠っているのだと思っている。


人間は怠け癖がついているから、横になったら中々目が覚めない。惰眠している。
本当に熟睡しているのではない。


だから、訓練次第で短時間睡眠を繰り返せば十分というようになる。
一晩にまとめて6時間も8時間も寝なくても大丈夫なようになる。

少し寝て、すぐ起きる。

眠れる場所をいくつも確保する。

30分を5~6回眠る。

60分を3回眠る。

修練次第では、1日の睡眠時間はこれで十分(3時間)。


王陽明が言った「飢えくれば飯を食い、倦み来れば眠る」とはそういうことだ。


部屋は寒く、ベッドの中は温かい。
目が覚めてもすぐに布団から出たくない…。

しかし、そんなに惰眠を貪(むさぼ)らず、もっと起きることに努力していく。

自分の惰眠を覚醒させる!


そういう意味の学問修練が面白い。



眠くなる主な原因は、
食べ過ぎ、飲み過ぎ、退屈。


睡眠と食事の質と量に節度を持ち、
勉強や研究の時間を確保していく。






第261話◇成長と創造 ••••••
稽古とは、「古きと比べる」。
努力とは、「昨日より今日」。


昨日の自分より努力しているか。
変化(成長)しているか。

家庭での自分の場所、
道場での自分の場所、
社会での自分の場所を、

自ら創造しているか。


身体も人間関係も世の中も、
全て移り変わっていく。

相変わらず「今日も飯が美味い!」と言えるのは、
身体が前の食事を消化吸収して血肉となり、
様々な活動をして、
また腹が減ったからではないか。

変わらないように見えるのは、
変化し続けているから。


変えたくないものがあるなら、

様々なことを変えて(成長して)いかなければならない。
様々なものを創造していかなければならない。






第260話◇まぁ、座れよ。 ••••••
道場法話の時間、皆も私も正座している。
普段は15分程度だが、合宿の時などは数時間に及ぶこともある。

腰を据えて背骨を立てる。

胡座(あぐら)や結跏趺坐(けっかふざ)、半跏趺坐(はんかふざ)ではなく、正座。

正座をして、
姿勢を整え、
呼吸を整え、

心を落ち着かせる。


正座していると、足の血管内の血流が滞り、末梢神経に障害が起こる。
そして、力が入らなかったり、電撃を常に与えられているような異常な感覚が続く。

つまり、痺れる。

足を崩すと反動で血液が通ってくる。
これがいい。笑


これは、様々な恐怖症の克服にも役立つ。

様々な恐怖症で困っている人がいたら、足が痺(しび)れるくらいの正座を1日に何度か行ってみるとよい。



私達には、
現実の細々としたものから心を解放して、「今」という時と場所という束縛を離れることが、時には必要だ。

私達の日常がいかに粗雑であるか、
余りにも自己不在であったことかが、
よく分かる。

「まぁ、座れよ」

心が落ち着くよ。






第259話◇繋がりと発展と、そして統一。 ••••••
技を繋げていく時、呼吸を主体として、呼吸に身体の動きを合わせていく。
呼吸を止めないことで、動きを繋げていく。


発展とは、様々なものが「分化」していく事でもあるが、そこに「統一」がなければ、行き先は分裂破滅だ。
逆に、発展分化のない統一は、停滞萎縮となる。

分化は発展であり創造であるが、根源から離れる事であり、力は弱くなり、いずれ行き詰まる。

どうするか?

行き詰まりは、人と人、物と心、理と情、人口と自然等が「結ばれる(統一)」ことで打開される。
多様な結びつきにより、創造発展はより一層の躍進を見せる。


私たちも成長し発展していくのだから、ひとりひとりの内面には「結び」の力があるはずだ。

その力は、情緒や直感となり、様々な調和や創造に寄与していく。

私たちの持つ「結び」の力が働いたとき、今までよそよそしかった人や物事に対して、思わぬ親近感を覚えることがある。
一体感を持つことがある。


そんな感激も味わいながら、
今夜も技を磨く。






第258話◇どんな状況で、どんな技を出すか。 ••••••
昨夜の乱捕稽古の反省として。

「状況判断と先見力。この二つが甘い」という意見は、私も感じました。

その相手に、
そのタイミングで、
その技を使う?

本末顛倒していないか。


技を出すというのは「末」であって「本」ではない。
「本」は道筋を付けること。

道筋を付けたら、それを通す。技はその為のもの。技が未熟で筋道を通せないのなら、技を磨けばいい。

しかし、通すべき筋道を立てずして技を繰り出そうとしているなら、まず筋道を立てることが大事。
筋道が立たないのは、学問・経験・努力がイマイチなのかも。

技そのものに固執したら、筋道を失いかねない。技を極めるには、技の外に身を置く必要がある。本筋に身を置く。

それは、技を軽視しているからではなく、重視しているからこそ。


技という「点」をなぞって道筋という「線」を引くのではない。
まず筋道を立て(線)、そこに関わる技(点)を選択して進む。
道筋が変われば、相手が変われば、状況が変われば、当然技は変わる。


物には本末があり、
事には終始がある。
それを見極め、まず己の筋道を立て、気迫を持って進む。
技は自在に応対して千変万化していく。

1. 筋道を立てる教養・経験・努力。
2. 筋道に沿って進む気力・気迫。
3. そして、自在に応対する技術。

私も学ぶところが大きかったです。
学問や仕事にも応用していきたいですね。






第257話◇困難に出合ったとき ••••••
困難を今こそ自分が成長する機会なのだと捉えなかったら、何年生きても人間は成長しない。

世間の俗流に動じない、毅然とした人物・精神・信念・道義を大切にすれば、必ず自己を救い、困難を乗り越えることはできる。

困難に乗じて不平不満をぶちまけたり、ヤケになったりすることは簡単だが、そうしたところで事態が好転するわけではない。

個人のことなら、まず自反(自分に返る)し、筋道を立てる。そしてその筋道を通すことを考える。
節義(締めくくり)も忘れずに。

様々なものについて、絶えず明徳を明らかにして(大学)、何事にも創意工夫していると、棄(す)てるものなど何も無いと分かる。


個人のことだけでなく、もっと大事に臨む時も、ありとあらゆるものを引き込み、それぞれの明徳(資質・性質・つながり)を見極め、時節に応じて活用することが欠かせない。


平時の原則・定石にはできないが、非常時にも原則というものがある。
まず全権委任する人物を定め(己を含む)、そしてそれぞれの分野で信頼のおける人物を登用していく。
あらゆるものを、毒を薬にも使う。

自由自在の大手段が必要。


人は、死の瞬間まで現実に生きている。どう死ぬかは、どう生きるかということであり、その時に人間の真価は問われる。


筋道を立て、あらゆるものを引き込んで毒にも薬にも使い、筋道を通していく。

そうして後進に創造変化の手本を示す。

臆病・怠惰・卑怯な手本は、毒を撒き散らすことでしかない。


困難などに負けてはいけない。






第256話◇剛柔強弱の千変万化 ••••••
「剛柔両者を兼備すれば国威はますます輝き、強弱両者を兼備すれば国運はますます盛んとなる。しかし、柔弱一方なら国は衰微し、剛強一方なら国は滅亡する」〜六韜三略 参考〜

「柔よく剛を制す」〜柔道〜
「剛よく柔を断つ」〜空手〜

色々言い方はあるが根本は同じ。


天地も人事も活物(いきもの)。
これらから生命を抜いてしまって概念的に考えるなら、剛とか柔とか強とか弱とか、どれか一つに固定化することはできる。

しかし、活物(いきもの)であることを忘れて、機械的・物質的・概念的に観察していても、物事の成就は上手くいくものではない。

活物の世界は、常に変化してやまないものであり、事には時節(タイミング)がある。
そして、その中に普遍のもの(道、義)がある。
道を忘れたり、変化を考慮せずに事を行っても上手くいかないのは当然。


古人は、
「人々はただ強さのみ追い求め、自然の法則を顧みない」と嘆いた。

私達の稽古においても然り。
一つ一つの稽古は、剛法であったり柔法であったり、強かったり弱かったりする。

ただそれは、剛柔強弱の四者を兼備して、時宜に応じて硬軟自在に対処するための手段であることを忘れないようにしたい。

道を、義を、志を忘れないようにしたい。






第255話◇2017年の方針〜「義か、それとも偽か」 ••••••
自反(自分自身に返る)し、己に喝(かつ)を入れ、尽心(己を明らかにする…資質・能力・責任等)。

人・古典・歴史から己を修養し、仲間達と技術を切磋琢磨し、
昨日の自分より少しでも前へ進む努力を。


怯まず臆せず勇敢に、心を虚しくしてあらゆる経験を舐め尽くして「人物・度量」を磨き、

様々な業界の一流と新人と交わり、
仁を成し「己の道」に邁進する。
力を誇示する事なく、ただ成すべき事にぶつかる。


己についての判断基準は一つ。

「義」か、それとも「偽」か。

「偽」で通すような筋や理を持つ必要は無い。
己の思考・態度・行動が「偽」なら改め、「義」を成していく。


2017年、努力と飛躍の年に!






第254話◇まず自分に年賀を ••••••
あけましておめでとうございます。

年頭からアレだが、、
最近、自分自身であまり考えなくなった人が多い…。

この社会には非連続性の刺激が多く、その刺激に反応するだけなら、「自分」というものを失っていく。真の自分を失えば、我々は人間という動物に過ぎなくなる。

人間としての成長発展は、個人的精神が自由に働くこと、つまり考えることから始まる。

考えるとは、自分自身に話しかけることである。
道元の正法眼蔵にも「仏道をならうというは、自己をならうなり」とある。
そして、どんな学問でも「自己をならう」ことが根本だ。

世間の話が面白くないのは、自分自身で考えない人が多くなったからだと思う。


もちろん、考えるだけでは物足りない。私たちは物事を始めること、成し遂げていくことが大切。

「いつやるの?」
「今でしょ」…しかし、やみくもに始めても、モノにはならない。

物事には終始本末があり、また「機」というものがある。「きっかけ」「はずみ」「しお」「おり」等である。
機に会うことが「機会」。物事は「機」をとらえて初めてキビキビとやれるもの。

月日の流れは止まらない中で「正月」を立てるのは、一つの貴重な「機」になるからである。

この「機」に、周囲に年始回りをする人は多いが、自分自身に改めて年賀を言う人は少ないと思う。

正月という機には、いい加減にしていた自分自身と向き合って、きちんと挨拶。


そして、「新年の気概」5つの決行を期する。

1.全身を引き締め、「よしやるぞ!」という気迫・気概・感激を新たにする。生意気も恥ずかしいが、意気地がなく、度胸がない人間では何も始まらない。生計と趣味娯楽と安逸の話ばかりじゃ、全く足りない。

2.後悔して気概を無くしてしまうようでは情けない。ケチくさいことや、文句は言わない。悔いればなお一層躍進しなければならない。そうでなければ人間に何の価値がある?くだらない悔恨は新年に持ち越さない。

3.あらゆる滞りの根本は心の滞り。いつまでも停滞していたら、自分も周囲も破滅に向かう。心の停滞、雑事の停滞を正月に決然として一掃する。

4.他人とは関係なく、自分自身にとって具体的に何か一つ「善い」ことを実行する志を立てる。例)禁煙、運動、孝行等

5.もし世の中に本がなかったら、偉人以外は、くだらないことばかりしてアホになったり、無駄な苦労をしてへこたれたり、…何より寂しい。かといって、大衆の俗な心理を扱う本に一喜一憂しても暇つぶしの域を出ない。本とは、それを読むことで姿勢・呼吸を整え、精神を昂(たか)め、鎮(しず)め、敬うものへ近づけるようなもの。本によって私たちは自分自身に話すことができる。


2017年、元旦。
怠惰・臆病・卑怯な自分をまず一新。

皆さま、本年もどうぞ宜しくお願い致します。
健康と健闘を!





道場法話 2016年度 12月


第253話◇大掃除 ••••••
掃除を作務(さむ)と言う。
作務は心を磨く気持ちで行う。
だから、その場所が汚れているか汚れていないは関係無い。
己の心を磨くのだから。

作務に、「面倒くさい」「疲れる」という考えは必要無い。
己の心を磨くのだから。


四つん這いになって雑巾掛けをする。

「頭」→四つん這いになると物事を深く考えられなくなる。つまらない事は考えなくて済む。

「内臓 」→胃下垂等の重力による負担から解放される。内臓疾患の軽減。

「背骨」→ 腰痛等から解放される。
「足腰」→雑巾掛けすればするほど鍛えられる。身体の老化は足からくる。足を衰えさせないこと。

つまり、 掃除は、労働というより「養生」である。


身体を養生し、心を磨く気持ちで行う作務。

家も、
職場も、
道場も、
車も、
身体も、
…もちろん心も。

作務を丁寧に行うことで、つまらない事を省(はぶ)き、己の本性を省(かえりみ)るようになる。

自分に返る。
全てはここからしか始まらない。


清々しい気持ちで大晦日、新年を迎えられますように。






第252話◇日記 ••••••
寝る前。

机の前に端座して、心を落ち着かせて目を閉じる。
その日1日の朝起きてからのことを思い出す。

* 朝起きてどうしたか。何を考えたか。
* 午前中何をして、誰とどう接したか。
* 午後は何をしたか。誰と何を話し、何を考えたか。
* そこに志はあったか。仁義はあったか。情は?恥は?礼節は?
* 臆病・怠惰・卑怯な考えや態度はなかったか。
* 解決すべき問題にはどう向き合ったか。短期的・一面的・表面的に考えて行うだけでなく、長期的・多面的・根源的に考え行動したか。


今日1日を細かく思い出すことは、記憶力強化のいい訓練にもなる。

そして、心に引っかかったことを書き記す。


毎日のこの時間の積み重ねが、
「今日、闘ったか」という己の反省に向かわせ、己の反省は「明日こそ!」という決意に向かわせる。

その決意が、明日戦う知恵を生む。
知恵は勇気を育み、勇気は誇りを育む。


日記を閉じて布団に入る。
自分の手で未来を創っていくと誓い目を閉じる。






第251話◇稽古の楽しみ ••••••
ここでは、稽古の楽しみより苦しみを言おう。

六中観の一つに、「苦中有楽(苦中、楽有り)」とある。

苦のない所に楽はない。
楽は最終的には苦しみより生ずる。

稽古の苦しさとは何だろう?

痛みだろうか?
体力的、筋力的、精神的な苦しさだろうか?

それよりも、ものを思う苦しみ、ものに憧れる苦しみ、古人を思い古人に憧れる苦しみが一番ではないか。

古人を思い、自分の身体的精神的な未熟さが堪らなくなって歯をくいしばることがある。
古人の境地を垣間見たり、共鳴したりして、思わず涙が溢れることがある。

…そんな苦しみの中に、
言葉にできない「楽しみ」がある。

楽しみは、苦しみの後に来るのではなく、苦しみの中にある。


また、稽古は「古きと比べる」という意味がある。
なぜ新しいものではなく、古きと比べるのか?

それは「実行と実現」を重視するからだ。


私たちの掲げる理想や夢が単なる空想になってしまったら、それはあまりにも情けない。

「何としても志を貫き、理想や夢を実現したい…」という実践的な欲求があるのが大人だ。

その実践的欲求こそが、空想になりがちな未来に理想を掲げることを許さない。

理想は、すでに偉大な古人により実現された事実として過去に捉える。

そうすることで、理想実現の追求力はより強固なものにすることができる。


◼︎稽古の楽しみは苦しみの中に。
◼︎理想や夢は過去に求め、その実現にこだわる。






第250話◇稽古という努力 ••••••
天地自然は日々創造変化の働きの実現。
だから、我々も常に自己を新しく。
自己を新しくするには、まず自己に親しむこと。
親しむとは、自分を探究し資質・能力を開花し尽くす努力すること。
それは一過性のものではダメで、日々の継続した努力こそが要となる。

その努力の姿勢が稽古である。

稽古の「稽」には、「考える」「比べる」という意味がある。また「稽」は「敬」につながり「敬意を示す」意味も持つ。

稽古は古きと比べることから。
古きとは、対外的には「先輩や師という人物」「古典」「歴史」であり、対内的には「過去の自分」である。

対外的に手本を持つ。そして、自分に返り自分を究尽していく。

目標は今の自分の外、今の自分より上に置くが、努力の量は他人との比較でするものではない。

「彼も人、我も人。あいつにできるのだから、私にできないことはない」という負けじ魂は大切。

しかし、「あいつが1日5時間稽古するなら、私は10時間やる」というように、他人と量を比較するものではない。

そもそも、皆真剣に取り組んでいるのだ。その中で、人の2倍、3倍、10倍の努力などできるものではない。

大切なのは「自分に返る」こと。

努力とは昨日の自分との比較。
「昨日スクワット100回。今日は105回やった」
それなら、昨日より今日頑張った部分(5回分)が「努力」。
昨日と同じレベル(100回)までは「継続」。

昨日の自分より少しだけ努力する。
量だけでなく質や方向性も考える。
そして、心中常に喜神を抱く(どんなに苦しくても、心の奥底で少しでも楽しめる余裕が必要だ)。



人間の進歩は「感動」から始まる。精神が停滞しないためには感動・感激という刺激を要する。感動・感激がなくなると老いていく。

ただ、刺激を安直な肉体的欲求(食欲・物欲・性欲)にばかり求めると、精神は堕落する。

それを防ぐためにも、夜は自省して一日を振り返り、日記を書きたい。

朝起きてどうしたか。午前中何をして、誰とどう接したか。午後は何をしたか。誰と何を話し、何を考えたか。

そこに志はあるか。義はあるか。情は?恥は?

努力とは人との比較ではない。昨日の自分より、少し前に進むこと、少し強くなること。






第249話◇初詣のお参り裏ワザ(2)2017年版 ••••••
お参り。
二礼二拍手一拝。

・右手は「水極(みぎ)」→陰、身体
・左手「火足(ひだり)」→陽、心
→拍手とは、陰陽の調和であり、心身を一体化する象徴的動作。火(か)と水(み)が交わり、火水(かみ)となる。

手を打ち鳴らす音は、無から天地を生む音霊。拍手をもって祈念する時、そこに天地(新しい世界)を拓くという意思表示がある。

そこで私達は天地万物と一体となり、全てを包容して育んでいく自覚と、己の大志の実現への行動を覚悟する。

志・野望を掲げ、すべてを恕(万物を包容)し、仁(万物を創造変化していく働き)と一体になる。
天地万物一切の物事は、己の心に内包される。

全て自分の肚の中の出来事となる。相対理論ではなく絶対的境地に立つこと。
自分も相手もない。

無我となる。
恕となり、仁となる。


「造化」そのものとなり、
「天」と一体になることである。


お参りでこんな心持ちになったら、
自分の大志実現に向けての筋道も立ち、
気迫を持って進んでいけるだろう。

これも、お参りの裏ワザ。






第248話◇稽古・勉強会での変化 ••••••
稽古・勉強会の効用だろうか。

皆の心・気魄が、各々の中で変形し、大きくなって外面に滲み出てきたように思う。
「皆、変わったな」と感じる。

その心・気魄で物事(仕事・勉強・事業等)に取り組むことで、結果が大きく変わってくる。

この心・気魄こそ、「根っこ」であり、それを養う栄養が、「人物・古典・歴史・あらゆる経験・実践」である。

その学びの機会の一つが、稽古であり勉強会である。

「精神の発揚」
「志を立て、筋道を立て、実行」

だから、古典を学ぶのは、知識を得る為でも、いい言葉に出会う為でもない。

学ぶことで自分の心が変わるのだ。つまり、自分が変わるのだ。
そういう学び方をすることに意義を見出している。


生命の躍動。


それはまさに、
例えば「大学」の三綱領「明明徳・親民・至善」であり、
「孟子」の「浩然の気」であり、
「易経」の「天行健なり。君子自彊息まず」であり、「元亨利貞」である。


今年もあと2週間。
互敬の心をもって、何卒宜しくお願い致します。






第247話◇初詣のお参り裏ワザ(1) ••••••
(数年前のFEG会報 参考)
10 円や100円投げて、
「家族みんなが健康でいられますように。神様よろしくお願いします…」

100円で家族みんなの1年間の健康を保障してもらいたいという甘い考えは、ちょっと問題だ。笑

自力主体、力闘向上、創意工夫、礼節謙譲、報恩感謝…等、我々の綱領からしても同様に問題だ。笑

どうしても神様に願いを届けたいなら、神様が自発的に動いてくれるよう、神様の自尊心に訴える。

そして、自分達の事については「自力主体」であるべきだから、
「お願い」ではなく「見守っていて下さい」に留める。

そして「力闘向上」。
神様の応援もさせて頂く。


[基本例文]

例) こんばんは。神様、あなたのおかげで一年間無事に過ごすことができました。誠にありがとうござ いました(自力主体)。

今年も家族みんなが健康で過ごせるよう、物事には積極的に取り組んで参ります。

そして私は、○○の目標達成を考えております(自力主体、力闘向上、創意工夫、臨機応変)。

一生懸命に取り組みますので、見守っていて下されば幸いです(礼節謙譲)。

最後になりましたが、本年も素晴らしき1年を築き上げられますよう、神様の御健康と御健闘を心よりお祈り申し上げます。(順応同化)。

以上


八百万の神様は、きっとこう思われる…かもしれない。

「ん?神様を頼らないの?
自力主体・力闘向上の姿勢で頑張るというのか。その気迫に満ちた姿勢、感動した。
よっしゃ、お前のために一肌脱いでやるぞ」


自分を棚上げせず己に返る。
自分を究尽し自覚と覚悟を決める。

つまらないものと対峙せず、
志や目標を見据えて進む1年でありたい。






第246話◇肚ができればいいのか? 修蔵息遊 ••••••
ひとりの人間が思いつくような思索は、、、
人間が思いつくようなあらゆる思索は、すでに古典に書き尽くされている。


「礼記」に「修蔵息遊」という学び方について書かれている。

1. まずは素直さと志、そして知識・技術の修練。
2. 修養鍛錬の積み重ねが身体の中に蓄えられていき、その動きを定め、肚を作っていく。
3. やがて箸を使うように、果物をもぐように、息をするように、自然に静かに実践されていく。
4. そして、遊ぶように、自在に。

1〜4のそれぞれが「修、蔵、息、遊」。


先哲は、とっくの昔(約2,000年前)に、学問修養の段階として見極めている。

慎んで学び、実践を重ねていきたい。






第245話◇勉強会 古典テキスト ••••••
人生の問題は、人間関係(信頼)と実行(応対と挑戦)。
人物とは、元気(気力)・志・度量・風韻。そして、情熱と創造と実行の継続。

才能があっても、すぐにへこたれたり、私利私欲ばかりでは長続きするような仕事や大業はできない。

仕事ができなければ、人生を楽しむことは難しい。

楽しまずして何の人生か。

楽しむための、しなやかで強靭な精神の背骨を作る栄養は、古典・人物・実践。

そのうちの古典のテキストが以下のもの。

1. 小学
2. 孝経
3. 大学
4. 中庸
5. 論語
6. 孟子
7. 荀子
8. 孔子家語
9. 礼記
10. 左伝
11. 書経
12. 詩経
13. 易経
14. 老子
15. 荘子
16. 韓非子
17. 孫子
18. 呉子
19. 闘戦経
20. 四十二章経
21. 法華経
22. 勝鬘経(しょうまんぎょう)
23. 維摩経
24. 近思録
25. 伝習録
26. 菜根譚
27. 古文真宝
28. 古事記
29. 日本書紀
30. 史記
31. 十八史略
32. 資治通鑑
33. 太平記
34. 平家物語
35. 小倉百人一首
36. 神皇正統記
37. 日本外史
38. 日本政記
39. 中朝事実
40. 三国志
41. 酔古堂剣掃
42. 言志四録
43. 五輪書
44. 不動智神妙録
45. 陰翳礼讃
46. 聖書
47. エマーソン
48. カーライル
49. ゲーテ
50. モンテーニュ
51. アミエル
52. プルターク 英雄伝
53. セネカ
54. 藤原惺窩
55. 山鹿素行
56. 中江藤樹
57. 熊沢蕃山
58. 佐藤一斎
59. 廣瀬淡窓
60. 三浦梅園
61. 二宮尊徳
62. 大原幽学
63. 水野南北
64. 橋本左内
65. 吉田松陰
66. 幸田露伴
67. 上杉鷹山
68. 安岡正篤 等






第244話◇健康 ••••••
WHO(世界保健機関)は「健康」をこう定義している。
「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあること(日本WHO協会訳)」

ただ、「すべてが満たされた状態」を健康というのであれば、健康な人はとても少ないのではないだろうか?


「創造変化」という東洋思想からすると、少し異なってくる。

例えば、論語には「君子は言に訥にして、行に敏ならんと欲す」(君子は、言葉がうまくないことは気にしないが、行動は機敏でありたいと願う)とある。

機敏というのは、ただ行動がキビキビしているというだけでなく、頭・身体を使い切るということだ。


健康な人とは、
◼︎人間としての欲望も才能もあり、
◼︎気力・気魄(負けじ魂)・実行力を持ち、
◼︎節度をわきまえ、よく自省して自分自身を粛清し、
◼︎キビキビてきぱきと物事を処理したり、様々な物事を創造変化させていける人。


そこで、健康・養生のための心、食事、睡眠、運動等へ話を広げたいけど、心の在り方を少しだけ…。
[健康4原則]
…心を練って、それを日常様々に体現(応対・挑戦)していく
◼︎喜神を含む(心のどこかでは常に喜ぶという余裕を持つ)
◼︎感謝(謙虚)
◼︎節度(放縦に流されない)
◼︎陰徳(陰ながら一日一善)


安心・快楽・充実を求めて、放縦になり過ぎてはいないだろうか。薬や医者が健康を与えてくれるものと思ってはいないだろうか。

気をつけたい…と天声人語のように言って、おしまい。





道場法話 2016年度 11月


第243話◇実践主義 ••••••
「古典は過去のもの。過去のことばかり学んでは進歩がないのでは?」と質問をぶつけてくれた門下生達がいる。

確かにそういう見方もある。

しかし、古典を学ぶとは、未来に目を閉じて「昔は良かったなぁ」などど、猫の頭を撫でて日なたぼっこすることではない。

「古典に学ぶ」という姿勢には非常な理想主義・実践主義がある。


栄枯盛衰や利害得失、様々な経験を積んでくると、単に理想を掲げて喜ぶような空虚さには耐えられなくなる。
意義があり、価値あることほど「実践と実現」を旨とするようになる。

自ら欲し、命をかける理想ほど、過去に偉大な人達が実現してきたと感じ、その祖先・先哲・学問(古典)・功業から学ぶことで、私達もその理想と繋がる。

空想に止まるなんて耐えられないという精神的要求が、過去を重んじ、実践を重んじる尚古主義を生み出した。

ただ過去に愛着を持つような甘いものではない。

そこには、理想と情熱と実践が潜んでいる。

実践と実現を重んじるからこそ、古典に学ぶのだ。






第242話◇間の見方②八観〜「呂氏春秋」に学ぶ ••••••
先日は感情の発露(六験)から、人を見る目を養うことを説いた。
今回は、その人の置かれた状況を観察して、人を見る目を養う。
[八観]
1.貴ければその進む所を観る
→出世したらどういう人物を推薦するか、どういう人間を敬うか、どういう人間と交わるかを観る

2.富めばその養う所を観る
→金ができると何を養うか(女?子分?ペット?その他)を観る

3.聴けばその行う所を観る
→善い事を聞いたら、それを実行するかを観る

4.習えばその言う所を観る
→習熟したらその人を言う所を観る

5.到ればその好む所を観る
→一人前になったら何を好むかを観る

6.窮すればその受けない所を観る
→人間は窮すれば何でも受け取りやすい。どんな時でも受け取ってはいけないものがあるのではないか?

7.賊なればその為さざる所を観る
→落ちぶれると何をするか分からない。どんな時でもやってはいけないことがあるのではないか?

8.通ずればその礼する所を観る
→順調な時、出世したときに、何を礼するか、どう礼するかを観る



気力を充実させ、志や克己を養う。
そういった目に見えない人間の内面が、様々な状況に形となって現れる。
現れた形を見て、その内面を見極める。
それが「八観六験」。






第241話◇人間の見方①六験〜「呂氏春秋」に学ぶ ••••••
人を表すものの一つに、感情の動きがある。
その人がどんな知識を持っているかを見るより、情の働きを見る方が、その人の事は分かる。

人を見る目があるかどうかはその人の能力だが、人の見方を知っているかどうかも大切。

今回と次回、中国の春秋時代に編纂された「呂氏春秋」に学ぶ。


◼︎八観六験(はちかんろくけん)
→人間を八つの状態から観察し、六つの感情の発露から、その品格を見極める方法。

今回は感情の発露(六験)から。
[六験]
1.喜ばせて、その守るところ(分節)を観る
→人間は喜ばせると浮かれて反省力がなくなる。喜ぶと自分の守る分を失う人間は危険。

2.楽しませて、その偏り(私欲)を観る
→「喜ぶ」に理性が加わると「楽しむ」になる。人間は楽しめる(好む)所に行き、偏り、他を侮りやすい。
嫌ってもその中の美を知り、愛してもその中の悪を知る…そうではない人間を迂闊に用いてはならない。

3.怒らせて、その節(節度)を観る
→人間は怒らせると本音が出やすい。節度や締めを壊しやすい。怒れない人間も困るが、怒って節度を無くすような人間は、大事に於いて信用できない。酒席で上司を殴って、翌日落ち込むような輩はあてにならない。

4.恐れさせて、その独(自主性・絶対性)を観る
→人間は何かに恐れると、自分自身ではなく、何か他のものに頼ろうとする。己の絶対性や主体性を放棄するようでは、幾ら集まって羊の集団にしかならない。

5.苦しませて、その志(理想の追求)を観る
→苦しむことは生命の戦い。弱い人間は疲れたり負けたりする。進歩・発展・向上の努力を止める。志や理想を失う。

6.悲しませて、その人(全体的な反応)を観る
→人間は、悲しむことに人柄が出る。

その人物を知るには、その人がどんな喜び方をしたか、楽しみ方をしたか、怒り方をしたか、恐れ方をしたか、苦しみ方をしたか、悲しみ方をしたかで判断する。


学問・稽古の根本とは、
知識・技術ではなく、己をこういった様々な境地に持って行って鍛錬すること。
その中で、様々な徳目を築き上げていくこと。






第240話◇忘年会・忘形会 ••••••
一年の苦労を忘れて、新たな年を清新な気持ちで迎えようという忘年会の季節だが、本来は別の意味がある。

忘年の交わり。年齢の長幼を忘れての会合を忘年会と言う。
「忘年の交を結ぶ」「忘年の友となる」という事は多くの史書にも書かれている。

ただ、これには長幼各々の修養鍛錬を要する。

◼︎若者…
学問修養鍛錬を通じて落ち着きが出てくるほど練れていなければならない。物事を知らないクソ生意気なガキでは一蹴される。

◼︎年配… 頑固にならず、世間から離れず、感激を新たに元気溌剌とした活力を保っていなければならない。修養が足らず、老け込んでいては相手にされない。

しかし、長幼がお互いに調和できない社会ではダメだ。

活気ある社会なら、20代30代でも地位に就き、業績を残す。70代80代も堂々として重鎮として組織を治め、双方相交わり、それが当たり前でなければならない。


「忘年の交」と似ているのが「忘形の交」。これは、お互いの地位・身分などの肩書を忘れた交際。
これも、お互いの人間ができていなければ交われるものではない。


両方に共通している「忘」。何を忘れるかの修養は非常に意義がある。

忘却とは黒いページ。このページの上に輝く文字を刻む。
私達の人生を輝く文字で記すためには、忘却の黒いページが必要だ。

何を忘れるかの達人は孔子だ。
論語にあるように、彼は「発憤しては食べることを忘れ、楽しみては憂いを忘れ、年を重ねることすら忘れている」。

現代は20歳程度でも精神が鈍って、理屈ばかりこねて諦める器量の小さい男が少なくない。

人物とは、気力・負けじ魂があると共に、どこか余裕や潤いがあって、楽しむ所がなければならない。
それが老いを忘れ、老いずに生きる要諦だ。


国内には経済問題、医療福祉問題、教育問題等、国外には対アメリカ、中国、ロシア、東南アジア、ヨーロッパ、アフリカ等
いかに処していくか、発憤のネタが尽きる事はない。

また各人が自己の成長発展のために、挑戦すべき事は山ほどあるはずだ。

そんな応対・挑戦の中に感激と楽しみを生み出し、憂いを忘れ、命を燃やしていく。

さて、今年も忘年会シーズンだ。
忘年の交、忘形の交を結べる飲み会が沢山生まれますように。






第239話◇制限の中においてこそ ••••••
「どうすれば上手くできるか?」
技に対する要求は分かる。

ただ、「継続した努力を避けるため」の利己的観点からの要求だとすれば、浅ましく情けない。

その情けない態度は、克己・節度を失ってしまった点にある。
才智が足りないのではない。

足りないのは善意か、やせ我慢か。

効率ばかり求める努力は、時に自分を弱くしていく。


やせ我慢、節度の足りない男は、
「制限の中においてこそ名人はその腕を示す」と言ったゲーテの言葉を噛み締めるべきだ。

やせ我慢、節度とは、「男らしい諦め」。
男らしさとは、「男」という漢字で伝えたように、「志を持ち、道筋をつけ、そこに向かって努力していく」という
勇気・活動的・決断力・負けじ魂を持っていること。

「諦め」とは、己を見限ることでは決してなく、私欲を封じ、臆病・卑怯・怠惰を捨てて己を律すること。

諦めの中に生まれる安らかで強靭な力こそ、稽古の、勉強の、仕事の、そして人生を構築していく原動力だ。






第238話⑤◇元気〜再び、人物とは〜 ••••••
(第238話④からの続き)
話は最初に戻る。
道場での稽古。私達は何処へ向かって鍛えるのか?その姿勢は?

◼︎怯まず臆せず勇敢に、私利私欲を無くし、人の心を斟酌しながらあらゆる人生の経験を舐め尽くす。

◼︎歴史、古典、人から学ぶ。

◼︎人物をつくる
1. 元気(障害に挫折せずへこたれない)
2. 骨力
3. 気力(気迫・根性・負けじ魂)
4. 志(目標・夢・野望・目的)
5. 反省(克己・節度・自律)
6. 義利の弁(志に基づいた是非の弁別)
7. 知識→見識(判断力)→胆識(決断力・実行力)
8. 道器(度量・人物として大きさ)
9. 知能・技能(専門知識・専門技術)
10. 応対・挑戦(創造化成・結果・成果)
11. 風韻(リズム・個性・気品・風格)

→見えない所を鍛え、見える所を鍛え、見える結果を生み出し、見えないものに収蔵していく。その繰り返し。

目に見えて分かりやすいのは9、10、11辺りだろう。
でも、周知のようにそれは1〜8から派生したもの。独立しているものではない。


学ぶこと、実践すること。
学んで実践。学んで実践…。

様々な物事や多くの人と出遇い、尽きることのない応対と挑戦、物事の陰陽の循環の中で「人物」が練られていく。

志を持って、様々な景色をシッカリ味わって進むのだ。辛くてもめげずに。






第238話④◇元気〜形あるもの〜 ••••••
(第238話③からの続き)
そこで、各人の個性を生み出す人間修練の根本的条件は、
「怯まず臆せず勇敢に、私利私欲を無くし、人の心を斟酌しながらあらゆる人生の経験を舐め尽くすこと」。

人生の艱難辛苦、喜怒哀楽、利害得失、栄枯盛衰、そういう人生の事実生活を勇敢に体験すること。
その体験の中に己の信念を活かし、知行合一の自己を練っていく。

人生に何が起こるかは大した問題ではない。それよりも、人生の出来事に対していかに応対・挑戦するかが大切。

この人生経験の舐め尽くし方に、上手下手がある。


学問の修養とは、いつのまにか日常生活の中に深く浸透して、よく使いこなしていくことで自身を成長変化させて強く豊かに生き、世の中の興隆に貢献できるものであること。

学問を修めるに従い、創造力を大きく発揮させていく。そして、強く優しく豊かになっていく。
人を馬鹿にしたり、人から疎んじられるようでは、そもそも学び方を間違えている。

「人格の学問」が本体で、「知識・技術等の学問」も、人格の学問から派生することが本筋。学問は全人格的なものでなければならない。稽古然り。

学問を修めていけば、とにかくその人がいるだけで、皆が信頼・安心できるということ。これが知識・技術の修得よりも根源的な目的。

(第238話⑤へ続く)






第238話③◇元気〜形あるもの〜 ••••••
(第238話②からの続き)
知識が見識に、そして胆識へと変容発展してくると、様々な事象や問題への応対・挑戦に徹するようになる。

そして、人間の「器」ができてくる。

人間の根本が元気であり、それは尽きることのない創造力・生みのエネルギーである以上、人間の器は創造変化という道に沿って無限に進歩発展していく「道器」であるべき。

創造変化の働きを発揮させる主体としての道器となれば、それは当然判断力・観察力を持つ。
物事を様々にはかることができることから、「器度」「器量」といい、度と量を合わせて「度量」と言う。
物事を大きくはかれる人間、物事を遠くまで見通せる人間、大きく包容できる人間を、
度量の大きな人間、器の大きな人物と言う。

度量の大きさが、人物としての大きさである。
文武を用いるとは、この度量の中に存在するだけだ。

道器となって創造力を発揮して様々な物事を生み出していると、そこにその人独特の風格や気品、風韻、リズムが生まれてくる。
これを「個性」と言う。

(第238話④へ続く)






第238話②◇元気〜知識には実行力を〜 ••••••
(第238話①からの続き)
元気は骨力となり、気力となって人間の内面が発達してくると、自らにして生きるという目標・目的・野心・夢等を抱くようになる。これを「志」と言う。

志が立つと、その志に照らして物事を考えたり省みたりするようになる。これが「反省」である。

人間の精神に「反省」が生まれると、志を貫くために、義(志)と利(知識・技術・便利・都合)が分かれてくる。そして、単なる利では満たされなくなる。
そして、「何を成すべきか、為さざるべきか」という弁別が明らかになる。孟子はこれを「義利の弁」と言った。

義利の弁が明らかになると、知識は単に物事を知っているたいうだけではなくなり、自らの精神や創造力から判断した「見識」へと変化する。

そして、見識が立つだけでなく、様々な利害や矛盾を克服していく決断力・実行力を伴う「胆識」へと変容していく。

(第238話③へ続く)






第238話①◇元気〜人物とは〜 ••••••
道場の稽古において、技を鍛える、心を鍛えるというが、そもそも私達は何処へ向かって鍛えるのか。「人物であること」につきる。

そこで、東洋思想の観点から「人物」というものについて考えてみたい。

人物であることの第一義は、「元気がある」こと。
元気のない人間はここで落第。

「元気」とは何か。
「元」とは、一切の「もと」であり「はじめ」であり、「大きく普遍的なもの」。 「気」とは、万物を包容し育み生み出していくエネルギー、創造力。

従って、
「元気」とは、万物一切の造化の根源・本質。私たちの存在・生活のもとでありはじめであり、そこから出てくる気力・気迫。
これを「骨力」と呼ぶ。

骨力は、造化の力、万物を創造変化させていく生みの力・働きである。ここから、様々な道徳が出てくる。骨力はそれらの根源の力であるから、物理的な体力よりも、精神的な力が高まっていることが本来である。この精神的な力を「気力」と言う。

また、自然の造化の働きが、他の動物と同様に私達人間を生み出したとすれば、それらの動物と人間との違いは何か?

それは、「精神」を発達させてきたこと。
従って、人間らしさというものは、肉体的な所よりも精神的な所に発揮される。
だから、精神的なものを失ったら、人間としては一番の堕落となる。


※元気とは一時的なものではない。
障害に挫折したり、飽きたりして元気が続かないことを「客気(かくき・かっき・きゃっき)」と言う。

※骨力…「骨」は「骨格を形成」「運動の支点」「内臓の保護」「カルシウムやリンを貯蔵」「血液細胞を造る」等の役割がある。
人間の身体・生命の大切な働き・力は、体の中の一番奥の一番堅固な骨の中にしまってある。

(第238話②へ続く)






第237話◇ひとりでに備わる? ••••••
厨二病(中二病)・絶望・反抗期は、10代にあるもので、歳を重ねるにつれて、おのずと絶望するような愚かさを克服できると言うのは、ただの妄想である。

哲学や信念、そして教養は、爪が伸びるようにひとりでに備わるというわけにはいかない。

哲学・信念・教養は、ただ生きていればひとりでに人間に備わる類いのものではない。

肉体的なものと違って精神的なものは、歳を重ねるだけで何処かに到達するということは…、

あり得ない。


逆に、精神的なものについては、歳を重ねるとともに、本人の自覚のない所で何かを失っていく場合が多い。

以前持っていた情熱や、素直さという内面性を失うのだ。

俗に流され、自分の都合のいいように人生を解釈して、そこに安住するようになる。
これを本人は成長だと誤解する。

絶望には精神が必要だが、本人はその精神さえも知らず知らずのうちに捨ててしまう…。

そうならないために、私たちは修養鍛錬を続ける。






第236話 ◇勝者と敗者 ••••••
勝った時は、勝者として振る舞う。傲慢で油断が生まれるというのは、勝者ではなく愚者の振る舞いだ。
克己、仁義、礼節。そういう徳の上に勝者としての振る舞いがある。克己・仁義・礼節を外していい道理はない。

負けた時は、敗者としての振る舞いもある。
しかし、敗者になったというだけで、相手に見下されるいわれはない。
敗者は敗者であって、臆病者でも卑怯者でもない。まして、勝者の奴隷などではない。

克己、仁義、礼節。そういう徳の上に敗者としての振る舞いがある。克己・仁義・礼節を外していい道理はない。


負けたくらいでどうして卑屈になるのか。
器量が小さく人間が幼稚なのだ。

心の修養は疎かにしていないか。

大志、野望がないから鍛錬がない。
感傷的で、人間が甘い。
理屈は言うが覚悟ができていない。
何かの刺激にすぐに昂奮して浅ましく怨みがましい。


もう少し闊達明朗でなければ、自分に申し訳ない。

1. 元気はあるか。
2. 志はあるか。
3. 節度はあるか。
4. 知識はあるか。
5. 判断力はあるか。
6. 実行力はあるか。

これらを材料にしてできる器が、その人間の器量となる。
そういう器量と判断力・実行力が発達して「信念」を持つようになる。

そうして、その人独特のリズム(風韻)が生まれる。

こうして、人間は単なる物的存在から精神的・人格的・精神的存在になっていく。


勝者と敗者、お互いの波長に違いはあるのか?笑






第235話 ◇応対と挑戦(2) ••••••
想定内、想定外、様々なことが起こる。

何が起きるかは関係ない。どれもその人に起こるだけだ。起こる出来事はどれも貴重なものだ。


重要なのは、「何が起きたか」ではなく、
起きた出来事に「どう応対するか」。

その応対こそが、腕の見せどころ。

そして、
物事に「どう挑戦するか」。

その挑戦こそが腕の見せどころ。

そうして、
確かなことをしっかり味わいながら、心は成長していく。






第234話 ◇歯をくいしばる ••••••
身体を動かす時、歯の咬み合わせは大切。

プロスポーツ選手が試合中にガムを噛むことがある。
脳への血流を活発にして、集中力を高めるため、瞬発力を高めるため。そして、力を増すため。



成人男子の総咬合力は90kg・f(重量キログラム)。
スポーツ選手は一般の人とくらべて噛む力が強く、特に、姿勢を安定させて集中力を高めることが大切なライフル射撃や、ボート競技の選手では250kg・f(一般人の約3倍)を超える。


歯と歯がきちんと咬み合うと、
頭の位置が固定され、
腰の位置も安定する。
結果、身体のバランスが良くなる。


「ここぞ!」という時は、ペラペラ喋らず口は閉じる。歯をくいしばることで、全身の筋力が瞬発的に向上する。

口を開けて、アゴを上げてはいけない。
身体の締まりがなくなってしまう。


歯をくいしばって、闘志を養う。
歯をくいしばって、克己を養う。

「チクショウ!」という言葉なら、歯をくいしばったまま言えるのだ。


歯をくいしばって、「今日、闘ったか。」
そして、歯を大切に。






第233話 ◇道場 ••••••
もともとは、仏道修行の場を示していたらしい。

江戸時代になると、武術の稽古場のことを道場と呼ぶこともあったらしい。

江戸時代中期以降、板張りや畳の稽古場が整備されるようになり、弟子の人数に応じて大きな稽古場が整備されるようになった。

この頃の稽古場は、師範が弟子の稽古を総見する床があり、その両脇に「剣の神、武の神」とされた「鹿島大神宮」、「香取大明神」の二柱の神名を書いた掛軸が掛けてあったらしい。

明治時代以降になると、剣道や柔道の稽古場を「武道場」と呼ぶようになり、その「武」を略して「道場」と呼ぶことが一般的になったらしい。

神棚を祀ったり、日章旗を掲げる道場もある。

最近では個人が道場を所有することは都市の過密化や地価の高騰等で難しくなり、体育館や雑居ビルの一室を借りている例も多い。

各都道府県の警察署、警察学校、警察本部内には道場が完備されている。柔剣道教室を開き、道場を開放していることも多い。

という事だが、
維摩経にこんな言葉もある。「直心(じきしん)、つまり素直で偽りのない心の所在こそがとりもなおさず道場である」。

もし、直心の下で日々の修行鍛錬を行うならば、これが真の道場なのだろう。
各々に備わった直心、それが道場であるという。


道場とは稽古場である。
道場とは直心である。
そして、道場とは道(仁の実践)の場である。

人生、いたるところ道場だ。笑






第232話 ◇精神を鍛える ••••••
面白いことに、「精神を鍛える」ことと「身体を鍛える」こと、初めはどちらもほぼ同じメニューとなる。
どちらも身体を動かすことで鍛錬を始める。

座禅や座学など、身体を動かさずに精神を鍛えるのは上級者向きのやり方。


精神を鍛えるとは、未熟・弱い・幼稚・甘ちゃんな心を強くしていくこと。それには、日常生活から離れずに鍛えていくことが大切。

すると、鍛錬のためのメニューが出来てくる。

◼︎早寝早起き…特に朝起きる時間を一定に。
→就寝時刻、起床時刻をノート等に書き出す。

◼︎朝掃除

◼︎節食(腹6分)
→朝食…梅干、お茶。
→昼食…(熱中しているものがあれば、腹は減らないもの)
→夕食…その地方で採れた食材。穀菜食中心に腹6分。

◼︎運動・勉強・仕事・遊び

つまり、
規則正しい生活を心掛けて、「自分の生活のリズム」を作り出していく。

何者になるとしても、まず修養鍛錬して会得すべきは、
◼︎決断力…自分で決める力
◼︎自分との約束を守る…自分で決めたことをやり遂げる意志の力
◼︎他人への思いやり

精神力は、薄紙を一枚一枚重ねていくように、少しずつ少しずつ鍛えられていく。
とにかく、愚直に自分との約束を守り続けていくことが大切。

「このままずっと何も変わらないのでは…」と思い始めた頃に、以前と違う自分を発見する「出来事」がやっと起こる。

そして、また自分で物事を決め、決めた事をやり遂げていくよう努力していく。自分のリズムを作り出していく。その繰り返し。
鍛えるとは、一歩一歩進んでいくことである。近道はない。

悲しいことに、
忍耐力の欠如から、挫折する人は非常に多い。
しかし、価値あるものは過酷な試練を乗り越えなければ得られるものではない。


人を、魂(心)と体が合体したものとして見てみる。

魂(心)は体という形を持つことで、様々な制約・制限・争いに直面し、また様々な物事を体験し得る。
そして魂(心)は、様々な事に挑戦・応対し、制約や争いを克服する事で成長していく。

自然の本性は「造化」。造化とは万物を生み出し育てていく働きであり、成長である。
そして、成長とは魂(心)の本質である。
種が春に芽吹くように、幹が豊かに枝葉を伸ばしていくように、魂は成長したがっている。

魂の成長のため、日常生活に即して精神を鍛える。






第231話 ◇直突き ••••••
直突きだから、拳は直線の軌跡をたどる。
と言っても、定義ありきで形が決まるのではなく、形に沿って言葉が生まれる。

3万回〜10万回。繰り返し行って基本を身体に染み込ませていく中で、体感覚も磨かれていく。


負荷をかけて行うのも有効だ。
ダンベル(1kg〜15kg程度)を持って行うと、色々会得できることもある。

例えば、
15kgのダンベルを持って正面に直突きを行う。
いやいや…そんなものではない。

ベンチプレスではないが、立っても仰向けに寝ても座ってもいいが、自分の頭上、真上にに突きを出すイメージ。
片方ずつ上げたり、両方同時に上げたり、上げる方向を変えてみたり…。

体幹は締めたり緩めたり、
下半身も使う。
全身を使う。

肘を曲げている時は膝も曲げ、ダンベルを上に上げていく時は、地面を蹴るように膝も伸ばしていく。
息を吸い込み身体を収蔵させ、息を吐きながら身体を開放させる。

手足は大きく速く動かす。体幹は小さくゆっくり動かす。

呼吸との連動も忘れずに。
原則は呼吸主導で動く。動きに合わせて呼吸を変えるのは例外。

そういう中で、変わらないもの、変えないことを会得していく。
変化させることで、変化しないものを見つける。


結果、
陰陽・剛柔・緩急・バランス・調和、
情味ある言葉にするなら、強さ・含み・深さ・潤い・余裕を体現するようになる。


まずは基本3万回〜10万回。
稽古10,000時間。


外から降りかかってくる火の粉を避けられないときがある。
自分の心の中の臆病・怠惰・卑怯という火の粉が、自分を燃やし尽くしてしまおうとする時もある。幼稚で甘い心は強敵だ。

全て「一撃粉砕」。
鍛錬した直突きで。





道場法話 2016年度 10月


第230話◇1mm、1度の違い ••••••
「その技は、あと2cm間合いを詰めて」
「つま先の向きは相手の正中心に、誤差ゼロで合わせて」

意識が甘いと動きも甘くなる。
感度は、鍛えれば鍛えるほど鋭敏になる。


そして、私達の身体は思っているよりずっと燃費がいい。

しかし、「身体はもっと燃費が悪いはずだ」と思い込ませ、「もっと食べろ!」と思い込ませたら消費社会の勝ち。笑


例えば…、
[燃費]
・脂肪1kgのエネルギー(約7,200kcal)で、フルマラソン3回分走れる。
・一生に分泌される女性ホルモン量は約5cc(小さじ1杯)。…1滴で25mプールの水を変質させる程の力がある。


「もう少し間合いを詰めて」「つま先の向きが少しズレてる」…それは人によって異なったり瞬時に変化するものではあるが、「ここ」という場所がある。

1mm、1度、10gの違いは大袈裟ではなく、決して小さくない。

身体は、思っているよりずっと精密・繊細だ。
[末端の動き]
・手の指、手首の角度を少し変えるだけで、体幹が締まる。
・ケツの穴を締めて数mm上にひっこめるだけで、声の出方が変わる。
・目線の先をわずかに横にズラすだけで、身体が開いてS字から逃れられる。
・相手の手の甲に触れた状態を継続していと、逆関節が極まっていく。
・呼吸と動きを合わせるだけで、力の出方が変わる。
[意識]
・表現の全て、作った物全てに、その人の意識や精神が宿る。

そうは言っても、鋭敏なだけではダメなのだ。鈍感さも大切になる。
鋭敏と鈍感のバランス。






第229話◇志・気概 ••••••
道場での稽古は、志と気概・気迫を養う手段としてある。

だから、道場の門下生たちは、あの程度の不条理・理不尽・人・組織・環境・社会等に屈することはない。

鍛錬していない者とは、志・気概が違うのだ。


己の志・野望・目標・夢…を定める。それは72億人いれば72億通りあるのだろう。

自分の夢は自分で見つけるしかない。


進む道はクネクネしていても、心にコンパスを持っていれば、立ち尽くすことがあっても、迷うことはない。
コンパスの針の示す先にあるのは、己の立てた目標だ。

目標を達成したらどうするかって?
そこから降りて、次の山を登る。


何も成し遂げないなら、人生は長く退屈かもしれないが、
何かを成そうとしたら、人生は哀しいくらい短い…。

私たちひとりひとりには、いろいろな役割や立場がある。
その時その時、成し遂げなければならないことも、沢山ある。

目標は目的地。
稽古は、エンジン。
臨機応変にハンドルを操れるかどうかは、普段の勉強次第。
あとは、アクセルを踏む志・気概があるかどうか。


風の強い今日みたいな日は、人生が変わるかもしれない。
風の音を聞いただろうか?


時は決して私達を待ってはくれない。

アクセルを踏まなきゃ、始まらない。






第228話◇引きこもりは出てこいよ! ••••••
自分の部屋が逃げ場所だろうか。
そこに逃げ込んで、パソコンやスマホをいじっていても何も変わらない。

それは分かっているはずだ。

そこで、キャッチコピーを考えた。
◼︎「(辛いことも楽しいことも沢山ある)外へ冒険に出よう!」

部屋の外に出るなら、どこでもいいのだ。

タブレットの画面を見てるだけじゃ分からないところで、様々な体験をして沢山のことを味わえる。スマホの画面から目を離して、顔を上げろよ。

「興味ねぇ」などと気概のないことを言わない。


いずれ私たちは、死んだら形のない魂だけになるのかもしれない。
しかし、今この世界は三次元だ。沢山のことを形にしていくこと、物質化していくことがルールではないか。

様々なものを生成化育させること、そして、行き詰まることなく、それを変化させていくこと。
自分を発芽させ、成長させ、実花を結実させること、そしてそこから種を取り出し、また新たな芽を出していくことが大切ではないか。

ここでもう一つキャッチコピー。
◼︎「確かなことだけ、しっかり味う!」

形になったものを観れば、作った人の精神がそこに宿っていることに気付く。心の修養が疎かなら未熟なモノが出来上がる。笑

心を養い、知識や技術を鍛錬して、沢山のものを作り、大きく豊かに人生を発展させる許可を、自分で自分に出したい。


引きこもっている人たちは、外の人たちより優しいのだ。
嫌なことを人より敏感に感じて、辛いことばかりだったのだろう。

だが、そこに貴重なことがある。
自分が感じることは自分だけのものだということ。
これは大事なことだ。

外に出て体験を重ねていくことで、きっと今より少しだけ人と仲良く、そして自分に厳しくなれる。


引きこもりの人たちを守ろうとして犠牲になっている人たちを私は知っている。彼らは、いい人たちだ。
自分が弱いままだと、その弱さを彼らのせいにしてしまう。それでいいのか。


私たちはお互いに、守り守られている。
それだけの話だ。

チョコレート持って、部屋から外に出よう。
そして、確かなことだけ、しっかり味わう。


スマホは、たまには部屋で留守番。笑






第227話◇怖さと向き合わないのは怖い ••••••
稽古の一環。
アスレチックで身体を動かす!


子供の時は当たり前にできたこと、夢中になってやったことが、いつの間にか頭でっかちになって躊躇(ちゅうちょ)してしまう…。

「ここの筋肉は武道には重要じゃないから…」という思考は、ちょっと浅ましい。 論理で考えたら…力は小さくなっていく。


手には手の使い方、足には足の使い方。
それぞれの適性・状況に応じて駆使する。

身体はひとつ。
手、足…というパーツで捉えても、身体から離れて動くわけではない。

「部分」は連携し合って「全体」となり、「全体」は収束して「部分」となる。

全身を同時協調的に駆使して、手足という部分を活かす。

そして、体感覚を大切に。
論理という思考は全体を捉えない。


頭より感覚。


自分の身体と対話して、相互理解のためにアスレチックに行こう。笑

身体を動かすことに、
夢中になれてるか。
呼吸に動きを連動させてるか。
全身を駆使しているか。

身体は変わる。意識は変わる。


時には度胸が無くて怖いときもある。
怖いから逃げる。
その気持ちは自分なりに分かる。

…だけど、
怖さと向き合わなくなるのは、
もっと怖い。


諦めて止めるのは簡単。でも、本当はまだ進める。

止めた場所から再スタートだ。
そこからまた始める。

振り返るのは最後だけだが、その時「良く頑張った」と頷きたい。


頭の中に、スキマスイッチの「全力少年」が流れてきたので、お喋(しゃべ)りはお終い。

休憩もお終い。






第226話 ◇目つき(1) ••••••
志も精神も未熟だったなぁ…と述懐することがある。それは「目つき」について。

学生時代、「技を出す前に、まず相手にガンをつけて(睨みつけて)目で殺せ」と教えられた。
当時、良くも悪くも、その場の空気を一変させる眼力を持った先輩は確かに多くいた。

「目つきは猛獣から教われ」ということで、当時先輩から指導された目つきの「鍛え方」はこれ。

・握り飯(昼飯)を用意する。
・朝から動物園に行く。
・閉園まで虎と目を合わせ続ける。
・毎週日曜日、3ヶ月間続ける。


目つきを鍛える事とは別に、容赦ない稽古は毎日行われる。

稽古後は都内の繁華街に繰り出して、肩をわざとぶつけて喧嘩。
先輩は遠くから観察。
喧嘩が終わると先輩のところに戻って批評を受ける。それを参考に一晩数回実地稽古。
その後、ビールを飲みながら喧嘩分析・研究。

喧嘩ノートは3冊程書き溜めたところで、だいたいパターンが分かってきたので止めた。

何をどう鍛えれば男になれるのか、分からなかった。


同じ部の後輩が大学を卒業して、
彼と外で会った時「先輩、初めて目を合わさせて頂きます」と言われて、お互いに目を合わせた事がある。

私は何の自覚もなかったが、彼にとっては絶対に目を合わせられない人だったとの事。

仕方ない。が、申し訳なかった。


学生を卒業後、数人と奈良公園を歩いていた時、何となく目線を感じて周囲を見たら、池のスッポンと目が合ってしまった。

…どれくらい時間が経ったか(多分1〜2分だろう)。

メンチたれて(睨みつけて)いた私は、スッポンに降参した。

そして、何かが変わった。
これで今後、人を睨みつける必要はないんだ…と、勝手に思ってしまった。

とにかく、
周囲を萎縮させたり、ビビらせたりする目つきは最低だ。そういう雰囲気を纏(まと)うのも最低だ。
あの時、そう思った。


私の目は、

先輩にビビり、
トラに鍛えられ、
人を喰らい、
そして、スッポンに降参した。

盛者必衰の理とはこのことか…。違うか。


今夜は満月。
一点の曇りもない目を持つ人は素敵だなぁと思う。

どんな目つきがいいのかは、ずっと分かっていた。
それは、「赤ん坊を見る母親の目」。
慈愛の目。慈悲の目だ。


私は少し成長しただろうか。

それとも、 「吠えてる犬を黙らせる」のが内緒の特技だと言ってしまうような、

未だに満月を見て狼に変身してしまうような、

まだそんな男の目つきだろうか。






第225話 ◇昂奮・落ち着き ••••••
チーム対抗の乱捕り稽古をやると、「ブッころせ〜」等の応援?が飛ぶことがある。

周囲や上の者たちが殺気立ってどうする?
必要なのは冷静さだ。


「冷静な眼を更に清めて物事を直視せよ。そして、軽々しくその信念を変えてはならない」という意味の「冷眼剛腸」という言葉が「菜根譚」にあったではないか。

簡単に激情にのまれるような心では、共に未来を語るに足らない。


いやいや、激情ではなく感激だ!と言うだろうか?
しかし、感激は昂奮や狂躁ではない。
感激には、一身を投ずべき大事の認識と同時に、浄智(俗事から脱する努力から生まれる知)が必要だ。そうでなければ、ただの昂奮に過ぎない。

昂奮は、疲労・愚痴・怨嗟(うらみ嘆くこと)に陥っていく。
そんなに昂奮したり上がったりしてどうする?
昂奮して無我夢中になるというのは未熟過ぎる。


人間の精神は創り出す物に宿る。そして、身体の動きにも宿る。
ケツの穴を締めて、腹に力を入れて、気持ちを落ち着かせて相手を見る。

まずは、心を落ち着かせること。

「相手の眉毛はどんな形だろ?」
それが見えるようになれば、その落ち着きは大したものだ。


昂奮したり上がったりしていては、乱捕り稽古の意義は半減する。


心・技・体という武器は、自分を守ると同時に、相手を制御・征服するためにも用いることになる。

戦いとは、我が意思達成を敵に強要することを目的とした実力行使とするなら、
戦いに負けないためには、盾だけてなく強力な矛(武器)が必要になる。

そんな武器を、昂奮したり上がったりした者が使ってはいけない。


極論すれば、
命を奪える力を持つ者は、命を守り、物事を創造していくという点においてのみ、
その行使が許可される。それが我々の武だ。

昂奮したり上がったりしている奴は、見境いが無くなる。


まずは、落ち着こうではないか。
道場から離れても。
仕事や勉強に戻っても。

それが嫌なら…。






第224話 ◇挨拶 ••••••
人に対する当然の礼儀。

己に一礼、道場に一礼、相手に一礼したら、各々心の中のスイッチをオンにして稽古に挑む。

挨拶の「挨」とは、自分の心を開くこと。「拶」とは、近づく・迫ること。
つまり、挨拶は自分の心を開いて相手に近づく・迫ることだ。

相手に礼することで自分を礼し、自分に礼することで相手を礼する。それを形に表したものが挨拶であり礼である…と、ここまでは以前から共有していること。


挨拶について、もう少し深めたい。

元来、「挨」という字は「撃つ・推す・排する」を意味した。
漢時代に書かれた「揚子法言(ようしほうげん)」によると「強いて進む」意味に説き、「正字通」では「物が相近づく」意味の俗語と説いている。

「拶」も「逼(せま)る」「相排する」という意味。


南宋の葛長庚(かっちょうこう)の鶴林簡道篇(かくりんかんどうへん)に、
「天子泰山に登封(とうほう)す。其時士庶挨拶す」とある。

人の痛いところに身をもって鋭く迫ることを「一拶」などと言う。
詩句にも「痛拶」「冷挨」「拶折」等用いられる。


つまり、私たちが日常使っている挨拶も、ただ儀礼をあらわすだけでなく、相手の肝腎なところにピタリとくるものでありたい。

「あいつはロクな挨拶もできない」とはよく言ったもので、ちゃんとした挨拶をするのは簡単ではない。

「ご挨拶誠にありがとうございました」ではなく、「ご挨拶痛み入ります」と言われるような「挨拶」をしてみたいものだ。






第223話 ◇リズム ••••••
稽古の中で、皆を見ていて「見事!」と思うことがある。
その内実を暴露する。

杓子定規な言い方になるが、
「見事!」「素晴らしい!」「感動!」等と心が震える基準らしきものが内にある。

それは、
◼︎力強さ(生命の躍動)はあるか。
◼︎含みや潤いはあるか。
◼︎深さや余裕、広がりはあるか。
これらが相まって、
◼︎音楽(リズム、風韻)を奏でているか。


約3,200年の昔から連綿と発展してきた「漢詩」の鑑賞基準はとても発達している。 例えば、「詩品24則」「9品」「詩の7の難問題」等の見方がある。

これらをもう少しまとめて、写真も、絵画も音楽も詩も、生き方も…、世の中で凡そ「芸術」と呼ばれ得るものに触れるときの、私の鑑賞・嗜好基準になっている。


◼︎力強さはあるか
創造的力量、忍耐力、健やかさ、矛盾苦悩に堪える力、線の太さ、技巧よりも本質、
⇆弱く、甘く、脆(もろ)いものは、一時の流行りや同情は得られても、真ではない。

◼︎ふくみはあるか
落ち着き、含蓄、うるおい、悠々、安立、自然
→創造的なものほど、内に養うところがある。

◼︎深さはあるか
悟境、胸中万巻の書、優しさ、余裕、広がり

「強さ、ふくみ、深さ」が相まって、リズムが生まれる。そのリズムと波長が合えば、心に響く(ドキドキ、ワクワク、ジーン。

これらは、自分が目指す基準でもある。

そう簡単ではないけれど。笑






第222話 ◇創造の躍進 ••••••
形が板についてくれば、その格は力強いだけでなく、静かになり、どこか情緒的に、そして音楽的になる。
音楽は、何かと結ばれることで音を奏で、生命を躍動させる。

例えば、右手と左手。
・右は「水極(みぎ)」→陰、身体
・左は「火足(ひだり)」→陽、心
→拍手…陰陽の調和。霊(心)と身体の一体化。火(か)と水(み)の交わり。

手を打ち鳴らす音は、無から天地(宇宙)を生む音。拍手をもって祈念するとき、そこに天地(新しい世界)が生まれる。

道場での相対(二人一組)稽古の意義もそこにある。相対し、成長・発展・創造は躍進する。

衝突、争い、繋がり、結び…陰陽の結びつき(人と人、男と女、人工と自然等)は色々な言葉になるが、

要は、合わさる事で音を奏で、創造・発展を躍進させていく。

ひとりひとり、自分がどんなに重要な人間か分かっているだろうか。
貴方がいなければ、誰かは貴方と繋がれないのだ。

貴方と誰かがぶつかり、そして繋がって創造されるものは、
決して他の誰かと作れるものではない。

引きこもってばかりいてはダメだ。
孤立してばかりいてはダメだ。

今に集中し、
そして、孤立しない稽古を。






第221話 ◇3日会わなければ…。 ••••••
様々な立場から様々な事が、現代社会の興隆のために、今日も為されている。
日々の積み重ね、継続が、ある閾値を超えて結果が生まれたとき、それは社会に認知されて、そこからまた加速がつく。

誰も気付いていないとしても、その場に止まっている者はいない。皆、それぞれの場所でその人なりに頑張っている。


私達の道場では、社会の興隆のために何を為していけばいいのだろう。

日々の稽古?合宿?地域の祭りに参加?他団体との交流?情報発信?人財育成?

…全て有り。

そして、私は他にもこう思っている。
俗流に屈しない有志者のグループを作ることが必要だ、と。

道場は、俗流に屈しない有志者の集まる場所でもあるべきた。
だから、ここで勉強会を開いている。そして、俗流とは距離を置いている「古典」に学ぶ。

なぜ学ぶのか。
あらゆる創造性の源泉であり、志に基づいた行動の出発点となるものは、ネットからの情報をいつでも取り出せるスマホではなく、
容易に他人と分け合うことができない、「私的な内面生活」であると考えるからだ。

精神の気高さと志の明確さを失わない者であればこそ、情報が飛び交う社会の騒擾(そうじょう)や乱雑さの社会の中にあっても、ただ流されるだけなく、文化の創造へ参加することができると考えるからだ。

道場とは、そんな自身を錬成・修業できる場所のひとつである。
それが今の道場の社会貢献のやり方だ。


こんな言葉がある。
「士別れて三日なれば刮目して相待すべし」
(日々真剣に鍛錬するならば、その人は3日も経つと見違える程成長しているものだ)


「男子三日会わざれば刮目して見よ」。
この心意気でお互いに鍛錬していこう。

じゃ、3日後にまた





道場法話 2016年度 9月


第220話 ◇反動が来る ••••••
もし、ワイシャツのボタンを掛け違えたら、最後だけ帳尻を合わせて出勤…というわけにはいかない。当たり前だ。

食い過ぎて胃酸過多、肥満、高血圧、糖尿…。
薬で血圧を下げたり血糖値を下げようとして中和を目指す。

しかし、これは中和ではなく、ただ現況を抑制するという対処療法に過ぎない。

このやり方では、いずれ必ず反動がくる。リバウンドだ。

すると、徐々に薬の量が増えてくる。対処療法だけでは、いずれ体が耐えられなくなる…。


中和するとは、反対のものを持ち込めばいいというような単純なことではない。

根っこに戻り、原因をよく吟味して対応を考え、行動や態度を改めなくてはならない。
運動不足なら運動を、食べ過ぎなら節食を、過労なら休養を取る必要がある。

後で反動(リバウンド)が来るような、安易な抑制方法は行うべきではない。
より大きな反動がくるから。


根っこが腐りかけてるのを放置して、気付かないフリをして、表面だけ繕うような稽古をしていないか。
そんなやり方で仕事をしていないか。勉強していないか。

大きな反動が、すぐそこまで来ていないだろうか。


道着には、ワイシャツと違って、掛け違えるボタンはついていない。

表面を繕うことなど、簡単にできてしまう?笑






第219話 ◇魔法 ••••••
「魔法」は、、、ある。


それは「勇気」だ。






第218話 ◇昇格審査基準 ••••••
※合格ライン…70%(70点)。
30%未満のものが1種目でもあれば、その時点で試験終了。後日再試験。
※65〜69%(65〜69点)の人は、後日追試験。

◼︎事前レポート: 70/100点
・課題2問(1問50点=100点)

◼︎学科: 70/100点
・記述50問(1問1点=50点)
・論述2問(1問25点=50点)

◼︎技術: 70/100点(基準点70%〜加点減点法)
・剛法左右5〜10技(1技10〜5点=50点)
・柔法左右5〜10技(1技10〜5点=50点)
→正確さ・速さ(時中)・気迫(気合い)・残心・間合い・一体感(各10点満点、基準点7点、平均点)

◼︎組手: 70/100点(基準点70%〜加点減点法)攻守別
・剛法(10点×5人組手=50点)
・柔法(10点×5人組手=50点)
→正確さ・速さ(出足の早さ)・気迫(気合い)・残心・間合い(位置取り)・一体感・臨機応変(各10点満点、基準点7点、平均点)

◼︎口頭試問: 70/100点(基準点70%〜加点減点法)
・有段者のみ
・主に日常生活、道場、社会への実践・貢献について試問

昇格審査受験生は、修業の節目として、今までの修行を自他で確認し合う挑戦者であり、
昇格審査員考試員は、道場の代理人として、受験生の修行を確認する。
お互いに敬意・礼節・誠意をもって、最大限に己の分を尽くすこと。

受験生、考試員ともに、「臆病・卑怯・怠惰・傲慢」な心・態度・言動は、厳に戒め慎むこと。






第217話 ◇力は節度から生まれる ••••••
秋から冬へ季節は変わっていく。しかし、そのまま限りなく空気が冷たくなっていくわけではない。また季節が動いて、暖かい空気が入ってきて春・夏へと移り変わっていく。
そしてもちろん、そのまま限りなく空気は熱くなっていくわけではなく、また秋・冬へと季節は動く。

極まれば反転する。ある程度の所に来たら止まるを知る。行き過ぎない。
そうやって自然は、季節を、四季を形成する。
その四季が、万物を生成化育していく。
もし、空気が限りなく冷たくなっていったり、限りなく熱くなっていくなら、多様な植物を育む季節は生まれない。

両極端では行き詰まってしまう。
極端から力は生まれない。
造化(創造変化)の力のためには、節度と変化が必要だ。


嗜好や快楽を限りなく追求するだけや、苦行をひたすら耐え続けるだけでは、結局どちらも行き詰まる。
そこには節度がない。

成長や豊かさには、悦びと節度が必要だ。

文明も然り。
止まるを知るという節度がなくなれば、安楽や快楽の限りない追求に走ることになる。
それは文明の利器をコントロールするのではなく、逆に人生がコントロールされるようになる。
それでは、行き詰まる。


今日も行き詰まらない稽古を。






第216話 ◇手刀打ち・足刀蹴り ••••••
手は手刀、足は足刀と言って、鍛えれば「刀」の代用になるほどのもの。

手刀は、手や腕の力だけで打つ・斬るのではない。しかし、手や腕の力はあるに越した事はない。
もし、力が無くていいなら、腕立て2,000回、懸垂100回等と課すわけない。

地面を踏みしめた足から体の中を通してきた力を、腕に力を「入れ」て止めてしまうのでは無く、
地面から足に戻ってきた反作用の力を、
全身の筋肉や関節を同時・協調的に使って増幅させて体の中を通し、腕の力を「出し」て対象に伝える。

「手刀」「足刀」は、
「力×速さ×技術」を急所へ伝えること。

しかし、姿勢が悪いと力を通すことはできない。
まずは姿勢。そして呼吸。
整った姿勢から呼吸主導で動く。動きに合わせて呼吸するのではなく、呼吸に合わせて動く。

手刀や足刀だけの話ではなくなった。

武道の技術は危険なもの。しかし、
臆病・卑怯・怠惰な心に打ち克つ勇気、素早く行動する決断力等、人間的に成長する手段にもなる。

当たり前だが、我々の行動には身体が伴う。身体も心も鍛えたい。

本日も汗を流そう。






第215話 ◇学ぶ(時習・活学) ••••••
「皆、仲良く」とガキの頃に言われた…。

◼︎「学ぶ」とは「皆、仲良く」という言葉を覚えることではもちろんない。

論語の最初にあるように「学びて時にこれを習う」だ。
「時にこれを習う(時習)」とは、「時々復習する」という安易なものではなく、「その時その時に応じて習う」こと。
様々な人達と、その時その時どう仲良くしていくか。相手の立場も自分の立場もある。間合いやタイミングもある。
「時習」して、「皆、仲良く」とはどういうことかを、自分なりに会得し、深め、高めておく。
それが、活学。

◼︎「学ぶ」とは、一生に渡って恥ずかしくなく、悔いることなく、万変に応じられる己を、平時に養うこと。
人物、本(主に古典)、歴史、そして日常から学ぶ。

例えば「三国志」。
そこには、後漢末から三国時代にかけての人間のドラマ、思考・議論・行動等…およそ考えられること全てが描かれている。
三国志の一端から、士気や信念を養い、知識や叡智を育むことができ、かつ楽しむこともできる。

◼︎「学ぶ」とは、その時その時に応じて習い(時習)、己の中で深め、その時その時に応用していく(活学)こと。
己を満たし、世の中に活かしていく。
世の中に活かし、己を満たしていく。

道場での稽古は、日常や学校や職場でも活かせているだろうか。
日常や学校や職場での応対や挑戦は、稽古にも活かせているだろうか。






第214話 ◇今より強くなる ••••••
◼︎心構え
「今」の幼稚さや甘さを自覚する。
悔しいけど上には上がいる。
井の中の蛙になるのはつまらない。
傲慢な人の名前は、私も含め全員「カエル君」。

褒めなきゃ伸びない…という男では情けない。
マニュアル主義だと、自分の頭と体で考えて判断し、身につけていく機会が減る。

※「こうしたら、こうなる」ではなく、「こうなるために、どうするか」。

・基本稽古…どんな状況にも無意識で正しく身体を使うため、繰り返し稽古する。
・閾値を上げる…疲れた所からが稽古。

大切と思ってることなので繰り返す。
疲れた所からが稽古。

◼︎落ち込んだり泣いたりするのは、未熟だから。そういう閾値(いきち)も上げていきたい。
テンション下げる暇があるなら、稽古。
本人が幼稚なまま、甘いままでいるのが、自分の時間も周囲の人の時間も一番無駄にしてしまう。

◼︎ま、泣き止まず、ヘタレ込んだままなら、休憩。
腹ごしらえして、昼寝して、また頑張ろ。

◼︎「泣き言」は幼稚さ・甘さのあらわれ。
心構えを変えなければ、まだ話をする段階ではない。

◼︎車の運転が上手くなりたいなら、車を運転する。美味いパンを作りたいなら、パンを焼く。
強くなりたいなら、毎日血反吐を吐くくらい試合い、切磋琢磨し、創意工夫。

情報を得たり、形(型)をやったり、空突きを毎日1,000回やったところで、それが強さに直結するわけではない。

泳ぐのと同じで、畳の上で稽古して上手くなれる、強くなれるなら、苦労はない。笑

◼︎そういう意味では、道場での稽古だけで強くなろうと考えるのは浅はか。
そんな可愛いレベルにいたいわけではない。
実践と工夫、実践と努力、実践と稽古。
実践と工夫、実践と努力、実践と稽古。

◼︎才能・努力・環境などについて御託並べるのは、「やることやってる」人しか言えない。
そして、そういう人は「どうすればもっと…」と前を向いている。
御託は並べない。
御託は並べない。

◼︎「いい勝負」を相手と作り上げていきたい。
それでも、上には上がいる。
上を知らないのは、世界が狭いだけだろう。

世界は、もっともっと広くて深くて高くて、そして面白い。






第213話 ◇姿勢と所作(3/3 E.) ••••••
(所作)…まずは3ヶ月行う。
◼︎縁を紡ぐ力とする。
縁→いつ、どこで生まれるか分からない。だから、日常の所作を大切に。
→自己を満たす。溢れさせてもNG。不足もNG。

※物事をスタートさせたら、所作を積み上げていくことでゴールする。
※所作は、スタートとゴールを繋ぐただの手段ではない。(所作を疎かにしない)

◼︎呼吸…腹式呼吸。いい呼吸にはいい姿勢が不可欠。
姿勢・呼吸を整えると、全身の血流量が約25%アップ。呼吸が乱れ、身体が固くなると15%ダウン。
40%も違ってくる。
感情は頭に上げるのではなく、腹に落とす。

◼︎丁寧…意味を知ると所作は丁寧になる。
折り目正しさ、節度に繋がる。
節度とは相手との境界線であり、正しい間合いに繋がる。

◼︎リセットする…毎晩が自分の葬式。一日一日、喝を入れて区切りを付ける。一週間、季節行事、24節気、干支(1年、60年)。

◼︎一体感…今行っていることに打ち込み、間合いも時間も一つになりきる。

◼︎包む…風呂敷や袱紗。万物を創造包容して育む(仁)。造化のはたらき。

◼︎合掌…
左手: 自分の心
右手: 相手の心
→一つにする。互敬。

左手: 自分
右手: 己(仁義、克己)
→常に独りではない。

◼︎朝…
早起き(0500起床。「朝こそ全て」)
挨拶、朝稽古、茶を淹れる…まず一つキチンとする。

◼︎お辞儀…自分と相手双方への礼

◼︎挨拶をする…季節の色を添える

◼︎言葉…美しい言葉(仁語)を使うと、所作も整う。声に出して言うことで、全身が音に包まれ、それにより心が整ってくる。言葉は丁寧に、はっきり、ゆっくり。

◼︎聞く…対話するときの、双方が果たすべき役割。

◼︎もてなす…一期一会。見えない所作、見えない気配り、陰徳。

◼︎笑顔の効用…前向きな心、あなたの敵ではない、相手を安心させる、この場をあたたかく明るくする等。

◼︎手…
力: 小指、薬指
丁寧: 親指、人差し指、中指
手のひらを開いて相手に向ける。相手を指差すのはNG。所作にはなるべく両手を使う。

◼︎江戸しぐさ…例)
・迂闊謝り…「うかつでした。申し訳ありません」。こちらに非がなくても常に使える。
・傘かしげ…斜めにして通り過ぎる。お互い様・お陰様(祖先のおかげで)。

◼︎食事…「典座教訓」「五観の偈」(道元)

◼︎作務…掃除。綺麗とか汚いではなく、己の心を磨く。

◼︎以心伝心…心を受け取る。見て見ぬ振りをしない。

◼︎克己…弱い自分を克服する。律する。呼吸を整え、所作を整え、心を整える。

◼︎働く…利他。相手を喜ばせる。社会に貢献する、喜ばせる。
報酬は、社会が喜んだ時に受け取る、社会からの感謝が形になったもの。






第212話 ◇姿勢と所作 (2/3) ••••••
◼︎座る(正座・幡足座・跪座・蹲踞・椅子)
・正座…上半身は立ち姿勢と同じ(体幹を引き締める)
踵は開き、親指は重ねる(利き足を上に)
開いた踵の内側に尻を乗せる(重心はわずかに前。腿を短く見せるつもりで)
膝と膝の間は握りこぶし1〜2個分(女性はなるべく閉じる)
目線は正面or約1m先の地面(半眼)
手は自然と膝の上

※あぐらは猫背になるのでNG。
・幡足座(はんそくざ)

・跪座(きざ)…足の指を曲げて、つま先をできるだけ前に入れる

・蹲踞(そんきょ)…手は自然と膝の上。膝の位置は低く。踵(とつま先)をつけて尻を乗せる。

・椅子に座る
背もたれは使わず浅く腰掛ける。
上半身は正座と同様。

◼︎呼吸
呼吸に合わせて全身で動く(動きに呼吸を合わせるのではない。呼吸主導)。

・腹式呼吸
吐く…肛門を締めて上に。腹を凹ませる。
吸う…腹を膨らませるように。横隔膜を下げて肺を広げる。

・胸式呼吸
呼吸を止めない=動きも止めない。
呼吸を整える=心を整える。

例)呼吸主導の動き(お辞儀)
吸う(お辞儀)→吐く(止める)→吸う(起き上がる)

◼︎歩く
地に足(踵)が着いた歩き方
膝の内側で一本の線を挟んで、静かに前に進むイメージを持つ。
上体や腕はあまり動かさず、その場の空気を乱さない。
後ろ足を前に出す時、なるべく踵を上げないよう意識する→重心を体の中心からブラさないため。
後ろ足主体で、まっすぐ平行に前にすり出す。
向きを変えるときは腰から。
左右同じ歩幅で。
その場での適切なスピードに配慮する。
足を引きずらない。

※疲れ知らずで歩けるかどうかは、生活の質を左右する大きな要素。

◼︎応用
(立つ→跪座→正座)
男性:上座の足(左足)を半歩まっすぐ引く
女性:下座の足(左足)を半歩まっすぐ出す
息を吸いながら真っ直ぐゆっくり上体を下ろす。
跪座の姿勢から利き足の親指を重ねて正座。
(正座→跪座→立つ)
息を吸いながら跪座。
腰を伸ばしながら右足を踏み出す(足先は膝より前に出さない)。
上体を真っ直ぐ上に伸ばす。
踏み出した足の膝が伸び切り、踵が床につくのと同時に、後ろ足を揃える。

※体幹の筋肉は衰えてないか。呼吸と動きは連動しているか(呼吸主導)。足首は固くなってないか。足指の筋肉は衰えてないか。






第211話 ◇姿勢と所作 (1/3) ••••••
◼︎基準は「美しさ」。
「美」とは、人類の歴史の試行錯誤が結晶化されたもの。
実用的であり、無駄が無く省略されており、人に心地よく、人を優しく、豊かに、前向きにする。
静かな自信になり、縁を紡ぐ力にもなる。

何かを続けていると、「無理・無駄・ムラ(雑)」が、煩(うるさ)く感じるようになる。「美」は、それらを省いたところにある。

「美」とは、いたについた仕草で、静かで定まったもの。その仕草から生み出される音は、音楽的である。

◼︎姿勢
よい姿勢とは、骨格や体格に逆らわない姿勢。
無理、無駄、ムラ(雑)を省いていく。

◼︎仕草の速さ
ゆっくり動き出し→少し早く→ゆっくり動きを終える。のびのびと!


◼︎立つ(軸、重心)
背骨が自然な状態(緩やかなS字カーブ)を保っていること。
頭を頚椎と脊柱と骨盤で支える。

◼︎筋肉…力を入れるとか入れないではなく、地面からの力を通す時に、その力を阻害するような力を入れないこと。
力を出す(通す・流す・伝える・繋げる)ことを重視する。

◼︎体幹の筋肉…大腰筋、内転筋、脊柱起立筋等。
足は平行、重心は土踏まずのアーチ、体重は両足に均等→いつでも俊敏に動き出せるように
。 目線は正面or約2m先の地面(半眼)
耳は肩の真上
首はまっすぐ
顎は浮かせない
腕は体に沿って下ろす
手は軽く膨らませて指先は下に向けて揃える(下ろした左右の手の高さを揃える)

◼︎意識は腹に置く
肛門を締めて少し上に持ち上げる。
背中・腹・肛門を締める→腹回りの贅肉は取れる。

・立ち上がる時は、線香の煙が一筋天井へ立ち昇っていくように。
・座るときは、湖面に石が沈んでいくように。

常住座臥の心掛け: 雑巾掛け、布団の上げ下ろし、筋トレ等。






第210話 ◇「実行計画→準備→展開→後始末」 ••••••
◼︎渦を作る
①実行計画…筋道を立てる。
目標・期限・計画を、イメージ豊かなストーリーに作り上げる(5w2h)。

②準備…事の成否は「準備8割」。周到な準備が勝利を引き寄せる。
長期的⇄短期的
多面的⇄片面的
根源的⇄表面的

③展開…臨機応変で機敏な実行力。物事は様々な出遭いや結合とともに、予期しなかった方向へ進むことがある。
本筋を見極めておく。道は外さない。

④後始末…打上げや御礼状送付。ケジメ。次への準備。
特に、失敗したときの後始末の見事さを、世の中は期待している。

仕事は、次の人がベストを尽くしやすい状態で取り組めるように引き渡す。

自分がいい加減に取り組むと、周囲もいい加減な取り組みになる。


◼︎成長曲線 cf.易経、干支
Ⅰ (導入期)
…混沌から生み出す。丁寧に正確に。毅然とした態度と情熱、実行力と勤勉さがものをいう。

Ⅱ (成長期)
…システムを構築しながら、誠実に堅実に。

Ⅲ (成熟期)
…調和を重視しながらも、新たな創造化成へと舵を取り始める(新たな導入期のスタート)。
もしくは保守的になり、生命の躍動たる「造化(創造変化)」のはたらきとの矛盾が生じてくる。

Ⅳ (衰退期)
…「創造変化」と「事なかれ主義」との矛盾や衝突が大きくなる。新たな創造化成へ向けて自反し、筋道を立てて進むか。
それとも、その矛盾を克服できず混乱を大きくさせて消耗・独裁・滅亡へと向かうか。






第209話 ◇脚下照顧 ••••••
脚下照顧(きゃっかしょうこ)…脱いだ履物を揃える。自反する。

脱いだ靴を振り返って揃える。そんな後始末さえ出来ないと、
己の身勝手で人を傷つけ、それでも平気でいられるような男になってしまう(…俺がそうだと猛省)。

脱ぎ散らかしたままの自分の靴と同じように人を扱い、そして振り返ろうともしない。

謙虚さがない。

そういう男に近づいてくるのは、利害打算に長けた弱者たち。
弱者は、勢いのなくなった者からは離れていく。

人心が離れていくと、気力が無くなり、ゆっくり堕ちていく。
また、本当に褒めてもらいたい人の前では、決して素直になれない。

最悪の場合、ビルの屋上へ登っていく。
そして生まれて初めて、靴を揃えることになる。

そうなって初めて、自反できる。

大切な人から「お前なら再起できる」という声が、心の中に小さく聞こえてくるのだ。
それは、初めて己に心を開いたからかもしれない。

本当はワンマンではなく、皆と調和したかったのかもしれない。


「お前ならできる」。
初めて聞こえてくる大切な人からの声援に、
「そうだ、見ていてくれ。負けてなるものか!」と、気力を絞り出すことができるかどうか。


もう一度靴を履いて階段を降りるために後ろを振り返った時、
はじめて靴を揃えた時の覚悟を思い出せるだろう。


「負けてなるものか」と歯を食いしばって顔を上げるか。
それとも、全てを捨てるか。

もう一度再起してようやく、


ただの男になる。






第208話 ◇対立 ••••••
対立とは「→←」であって、「←→」ではない。

「←→」では、交わることがない。それでは何も生まない。
「→←」は、結合する可能性がある。結合すれば、何かを生み出すこともできる。

自然観の骨子とは、「二つの力が交わって、万物を生み出す。万物は生成して、その変化は極まるところ無し」。

従って、武道の技も然り。相手の攻撃を受けて反撃(繋げる)。
繋がりを意識するのは、それぞれの矛盾・対立を克服して一段上に発展する可能性を模索しているから。

そして、技は相手との一体感を志向する。造化の働きと一体になる。分裂しないことが肝要。調和統一を図る。


子供はよく人と比べて、どちらが凄いとか、全部俺のものだとか…、
精神の発達の幼稚な時には、すぐに人と比べたり、自分の方に引こうとする。

しかし、武道を修養する上では、そういう未熟さ、ケチな根性は禁物。

一体感、天人合一という至極の場所を目指すのだから、ただ「仁道」あるのみ。






第207話 ◇反(かえ)ることで進歩する ••••••
「エントロピー増大の法則」では無いが、人間の生活・歴史は必ず混迷へと広がり進む(陽)。
そこで、もとに返らなければならない(陰)。
混迷の先にあるのは滅亡だから。

しかし、もとに返るのは本当に難しい。

例えば、欲望は「もっと欲しい…」と先へ進むもの。これは簡単。
しかし、「君子は自ら反(かえ)る」とあるように、自反するのは容易では無い。

①進み、
②止まるを知り、
③そこから向きを変えてもとへ返らなくてはならない。
④返ること(反省)で、一段上に進める…。


例えば、身体。血液循環。動脈で血液を巡らせるのは楽。問題は末梢血管であり静脈。末梢血管が詰まってしまっては、いくら勢いよく血液を送っても届かない。

身体の末梢、足の血液を心臓に返すのは大変。足の血管・神経・骨・筋肉…みな、如何にして足の血液を心臓まで戻すかに苦労している。

末端が大切であり、静脈を活性化することが大切であり、返ることが大切。


人間が常に自らに反って出直すことを「維新」という。
「如何に反(かえ)るか」ということがあって、「日々これ新たなり」という進歩発展がある。

反省できなきゃ進歩は無い。
もと(道)を外した成長は無い。






第206話 ◇負けじ魂 ••••••
仁愛(万物を創造化成していくはたらき)を実践して積み上げていくには力が要る。
その力の根本は、己の中にある「負けじ魂」だ。

「負けてなるものか」という気概(負けじ魂)が、優しさや思いやり(仁)を後押しする。


今、苦境にあるなら、それは自分の器量の小ささが招いたものだ。
そこから如何(いか)にしてのし上がるか。


社会が、天が、男を見極めようとしている。

その苦境に潰れれば、それまでの男でしかなかった、
社会が望む大業を成すに値しない男だった、
自分の人生を築き上げるに値しない男だった…というだけのことだ。


しかし、社会は、天は、予想を遥かに上回る男の姿勢や行動を期待している。
連綿と連なる歴史は、男に未来を託している。

その男に、個性や特徴や能力を与えたのだから。

それらをフルに活かして(自力主体・創意工夫)、仲間を募り(切磋琢磨・力闘向上)、社会や天をあっと驚かせて(創意工夫・臨機応変)、のし上がってくることを間違いなく期待している。

そんな男であればこそ、社会や天は男のファンになる。
「お前を近くで見ていたい」
「お前と関わりたい」
「お前を応援したい」

そんなヒーローは、
きっと思いやりが深く、優しくあたたかく、器量がデカい。
愚痴や批判は口にしない。臆病や卑怯や怠惰な態度は踏み潰す。

その男を支えているものは、
弱気に負けてなるものか!という気概。

それが自分を大切にすることであり、
つまり男の矜恃、プライドだ。


「負けてなるものか!」と自分に言い聞かせたら、姿勢を正して、今日を生きる。

そんな男だからこそ、祖先も安心して眠れるというものだ。






第205話 ◇相手の目を見るな ••••••
「なぜ自分の頭で考えない?ここは学校ではない。親も先生も助けてはくれない。自分で考えて判断して動くしかない。
自分の人生は自分で作っていくしかない。
…って話をしてる時に、どこ見てんだよ。
相手の目を見て話を聞け」。
そういう男は舐められるし、事の役に立たない。

…しかし、相手の目を見てはいけない時もある。
今夜はそんな話を。


相手と対峙する時、相手の眼力にのまれたり眼光にすくんでしまったら、心が萎縮して恐怖が大きくなる。つまり、必ず負ける。

だから、初めの心構えは、

◼︎相手の目は見ない。

◼︎心は静かに、そして顔を動かさず目だけで追う。
◼︎相手も周囲も含め、全体を見る(八方目)。
◼︎不自然なリズム、相手の動き・呼吸・気配等から、気の流れの微かな乱れを、自分の身体と五感全体を使って見極める。

◼︎そして、相手より早く動き始める。

では、乱捕り稽古を始めましょう。





道場法話 2016年度 8月


第204話 ◇負けじ魂と笑顔と ••••••
先日、親友の一周忌の法要に参列。

約20年前、初めて会った時に彼から言われた「ケンカと酒に強い男なら大歓迎だ」という言葉の意味が、先日の法事の席で突然閃いてしまった。

まるで彼の声が聞こえたようで、胸がいっぱいになった。

「ケンカと酒に強い男なら大歓迎だ」…それは、どんな理不尽な選択を迫られた時でも、「負けてなるものか」という気概を持った男なら大歓迎だという意味だ。

「ケンカは大好きだ」という彼の言葉も同じ意味だ。
それは、相手がどんな奴であっても「負けてなるものか」という気概、すなわち「負けじ魂」を大切にしていたのだ。


そして、誰も信じてくれないが、私は「ケンカは大嫌い」だ。
それは、不毛なケンカよりも、もっと気の利いたことに挑みたいという気概や自尊心を大切にしたいからだ。

その意味で、私の中では「ケンカ大好き」も「ケンカ大嫌い」も同じ意味だ。


彼との酒席のように、
仲間を作るなら、ケンカではなく、相手を認めて一緒に何かに挑み、楽しめる時間を過ごす方が断然いい。
「そんなの当たり前だろ!今頃何言ってるんだ!」と、彼から叱られそうだが…。

あの法要の席で、そんな彼の声と、彼の豪快な笑い声が聞こえたようだった。

彼はとても強くてあたたかい男だった。
彼は、奥さんや皆のことを、いつも近くで見守ってくれていると思う。


彼から私が受け取ったものは、
臆病・卑怯・怠惰を容赦なく踏み潰す「負けじ魂」と、
全てを解決してしまう豪快な「笑顔」。






第203話 ◇いい時も悪い時も••••••
陰と陽と中について。

陽の働きは成長・発展・分化等、四方八方に広がっていくイメージだ。

しかしそれでは、力の一つ一つは細かく小さくなっていく。

そうすると、散らかった力をまとめる働きも必要になる。

それが「陰」。
陰の働きは、統一・潜蔵・調和。一つにまとまると、力は大きくなり焦点も合う。

だから、陽の働きで様々なことが発展しているように見えても、陰の働きが無いと、力は失われていく。
歯止めのない「発展」の行き着く先は「滅亡」でしかない。


いい時も悪い時もある。
できる時とできない時がある。
そういう波のように相対(相待)する変化を経て、その時その時の問題を克服して、一段上に発展していくことを「中」という。

「陰・陽・中」はセットだ。

ヤル気の出ない時もある。3日坊主も当たり前。皆、そんなものだ。
しかし、ひとつ頭を出したいなら、その波を変えるとしても、途切れさせてはいけない。

何か「魔法」を探そうとする精神性は、軟弱だ。

どんな時でも淡々と続ける。
継続だけが力なり。
いい時も悪い時も。






第202話 ◇短所を長所に••••••
世の中には、その人の長所が短所になる人間と、短所が長所になる人間がいる。

例えば、「20歳という若さ」。
「若さ」を短所にする男もいれば、長所にする男もいる。

短所にするというのは、「生意気」な立ち居振る舞い。
自分に実力があるなら謙虚に出て、大人を手のひらの上で転がせばいいのに。笑

長所にするというのは、「素直」な態度。
自分の経験不足は、大人に可愛がってもらって補ってもらい、自分は着々と経験を積んでいけばいい。笑

「若さ」という外見に固執して、人間としての内面の深みを修養しなければ、軽薄さが露呈する。

反対に、外見が悪くても、修養した人間をさらに磨いていくと、その容貌は恐ろしく魅力的になる。

生まれつきの才がありながらも、それを磨かなければ、歳を経るにつれて軽薄になっていく。

逆に、どんなに愚鈍な男であっても、短所から長所を創造していける。
自身の修養、鍛錬、変化こそ人生の醍醐味。

才能の有る無しよりも、ずっと大切なことがある。
哲学、学問、所作、実践。






第201話 ◇「男」とは。••••••
「男」という漢字は、「田」と 「力」。
そして「田」とは「口 」と「十(道)」。

「田」の外枠の「口」は、何も整っていない荒地の一区画
→開墾する区画を決める。
「田」の中の「十」は、畦(あぜ)道。
→区画を決めた後、まずすべきは道筋をつけること。筋道を立てること。

「力」とは、つけた道筋に沿って努力し続けること。そして、社会の進運に寄与していくこと。

◼︎成すべきことを知り、
◼︎筋道を立て、
◼︎継続して努力できる者。
それが、「男」という漢字が伝えてくれること。

逆から言えば、
◼︎成すべきことも分からず、
◼︎道筋をつけることもできず、
◼︎それに沿って努力ができないような奴は、

男ではない。






第200話 ◇体現する••••••
信念、負けじ魂、仁義、志、野望…直接目に見えないが譲れないものがある。

それを、立居振舞や言動、仕事、趣味、人間関係…目に見えるものや感じられるもの、あらゆる表現の中で体現していく。

直接見えないもの(心)を、直接見えるものや感じられるもの(所作・言動)を通して、体現させる。

周囲の人は、見えるものや感じられるものから、見えないものを察していく。

「志」から「所作・言動」へと向かうベクトルが無ければ、
「所作・言動」を見たり聞いたりした周囲の人達は、その人の「志」に辿り着けない。

志や野望が決まれば、所作や言動も定まってくる。
目指すべき男像が定まる。
24時間365日、体現するよう努力できる。

人は、見えないものを、見えるものを通して体現していく。
人は、見えるものから、見えないものを察していく。

どんな時も。
修羅場でも。
心の届く場所でも。






第199話 ◇突き 〜技は全身を使って〜••••••
人は一般的に体の末端(手の指先)や表面(皮膚)の感覚は敏感なので、小手先の技に流れやすい。

弱い突き(パンチ)というのは、手突き(小手先)であることが多い。

武道の稽古では、技を頭で理解しようとして手や足や体幹等、1つの身体を部分部分に分けて考える傾向もある。

しかし、そもそも手も足も体幹も身体の一部の名称であって、身体はひとつである。

「突き」は拳が相手に接触するものだが、拳や腕を意識するだけでは、「手突き」になりやすい。

拳や腕という身体の一部の使い方に終わっているなら、その突きは本筋ではない。

自分は力一杯突いているつもりでも、相手には「軽い突き」「弱い突き」として伝わっている事が多い。

拳や腕もさることながら、体幹(正中心)と下半身(脚)…つまり全身の屈曲伸展や捻り戻しの力を使って、重心移動で突く(打つ)。

拳を鍛えるのは、全身の力を瞬時に乗せたとき、拳が壊れないようにするため。

→全身での体当たりをイメージしてみる。どうすれば相手を遠くまで吹っ飛ばす体当たりができるか。

→虎が獲物に噛み付いた時は、両足を踏ん張り、口の力だけで引きちぎるのではなく、身体や顔を動かし、その捻り戻しの力や遠心力を牙に伝えて噛みちぎる。

それらを「突き」に応用することを考える。

◼︎逆突き…
体重移動(膝の運びで間合いを詰める)しながら、上半身を1枚の板として、それを捻って遠心力をイメージ(背筋が重要)。

◼︎順突き…
体重移動(膝の運びで間合いを詰める)しながら、上半身を1枚の板として、捻った板が戻るイメージ(背筋が重要)。

どちらも、全身の力を拳を通して相手に伝えることで「強い突き」になる。
前へ移動する力、遠心力、捻った身体の復元力を同時協調的に活用することで相乗効果になる。


基本突き3万回を3〜5セット。9万発(1日1,000回×90日)〜15万発ほどで形になり、意識せずに身体全身を使って突けるようになる。稽古の継続のみ。

身体は、全身のなるべく多くの部位を
同時協調的に使うことを考える。

部分部分にこだわることは、技の進歩発展(陽)に非常に大切なことだが、根源(陰)から遠ざかるという面がある。

陰と陽とが和合することで「中(問題や矛盾を克服して一段上に発展すること)」していく。

→根源へと引っ張りながら(陰)、外へ伸ばしていく(陽)ことを大切にしたい。






第198話 ◇ケンカ••••••
たまに、議論の形でケンカを売ってくる人もいるが、最近思うことがある。
この人のケンカの目的は何だろ?

相手の立場を考慮せず、自分の立場だけで是非弁別を論じて、「俺が正しい。お前が間違ってる」と断ずる未熟な人がいる。
視点が片面的、短期的、表面的過ぎる。

そんなケンカは、
相手を見ずに自分の技を繰り出すだけの、未熟な連中の勝負と同じ。

そんなケンカをする人の根底に、
義勇仁礼や負けじ魂はあるだろうか。

ケンカ相手にも、敬意は必要だ。

お互いに敬するところがなく、志も仁義もないケンカなど、醜いだけだ。
しかも、根源的な骨力(精神力)はヤワで、汚い言葉とゴリラの腕力が頼りというのは、…何とも情けない。


ケンカの要諦3つ(心身ともに)。
・軸を取る。
・間合いを取る。
・一体感を持つ。
そして、出足の早さと位置取り。

世の中には、いろんなケンカがある。
腕力、議論、欺罔(ぎもう)…。

ケンカの後は、ケンカの前よりも成長・進歩・発展したいもの。


人とは、なかなかケンカできなくなった。
なかなかケンカにならなくなってしまった。

周到な準備のもと、人よりも天を相手に勝負も仕事もしていきたい。

人の代わりのケンカ相手は、
勝率を上げるべき勝負の相手は、
…自分自身。

志・我慢・負けじ魂を甘やかしていないか、己の甘さ弱さを克服する勝負から逃げていないか、それを自反する。


今夜も問う。
「今日、闘ったか」。


夏の日に。






第197話 ◇修行の段階(技術〜以心伝心まで)••••••
修行には段階がある。

1.技術を修める
→技術を教えるのは、修行の道筋を伝えるため。だから、所作や動きの中に「道理」を含む。
その教えを蔑(ないがし)ろにして技巧に走れば、結局「技比べ」になって正道を見失い、想定外に遭遇して不覚を取ることになる。
自分免許ではなく、本筋・本格の修行が必要な段階。

2.気勢
→負けじ魂や士気を鼓舞し、気勢で相手を制して進む。相手がどう来ようが、こちらが相手を呑み込み、従って、相手の変化に自在に応じることができる。
技を意識して使うのではなく、無心の中から自然の技が出る段階。
しかし、相手のレベルが上だと、制すべき相手に気配が無く、気勢では通用しない。
気勢に乗じて動くのは、自分に執着し過ぎている。自分の気勢では圧倒できない相手には応対できないことになる。
常に自分が強く、相手が弱いという道理はない。

3.義の力を養う
→臆病・卑怯・怠惰な心を捨て、道理に従って自らを処遇し行動することが「義」。その経験を重ねていくことで、内面の力が充実していく。それは、大きな川の洋々たる流れのような力。
気勢に任せて圧倒していく力は、一時の洪水のようなもので継続しない。
無心で向かってくる相手には、気勢だけでは征服できない。

4.一体感
→心を練る。勢いに任せるだけでなく、相手との一体感を目指す。
では、気勢にも屈せず、調和にも応じようとしない相手にはどうするか?

5.無心の妙法
→作為をもって一体感を目指す場合は、思慮分別が自然の感応や直感の邪魔をする。
自然の感応や直感が邪魔されれば、妙用は生まれない。
意識的にやれば、一つの気の所作となり、これは道の本筋ではない。だから、相手は心服せずに敵対する心を持つ。
無心・自然に応対すべき。

6.言葉にできない
→道には極まりはない。そして、物事が分かってくると、己を意識せず相手意識せず、無心に応対する。それを言葉にすることはできない。言葉にできる者はまだ会得していない。

7.造化に徹する
→武は、相手に勝つだけでは不十分で、大事において生死を明確にする術でもある。
だから、生死の道理に徹して無心で物事に応対すれば、何事にも創造変化し、自在に応じることができる。
無心というのは空っぽということではなく、私利私欲なく物事に順応同化し、森羅万象に満ち満ちている造化(万物を創造化成していく)の働きの理を知って武を学ぶことが、武の道を歩くということ。

8.克己復礼
→形を忘れ、私利私欲を忘れ、澄み切った軽やかな心でいる時に、相手と調和して一つになる(一体感)。
もし、相手が形を破っても、自分は感応のままに自然に応じるだけ。
結局、自分の心の修行に戻る。
自分の心が迷ったり、弱かったりすれば、その心は相手の助けとなる。
自反し自分に求める(克己復礼)。

9.以心伝心
→教外別伝、自得。
自得のところは、皆心を以って心に伝える(教外別伝、師事して会得のこと)。心の届く場所にいたい。






第196話 ◇答えが重要なのは、質問が正しい時だけ••••••
「何の為に生きるのか?」
質問が間違っている。
→「いかに生きるべきか?」。

「あなたは何者か?」
質問が間違っている。
→「何があなたか?」。

「どのように生きるのか?」
質問が間違っている。
→「どのように死ぬか?」。

「この悲しみはいつ癒えるのか?」
質問が間違っている。
→「この悲しみをどう越えていくか?」

そもそも人間は「周りに生かされている」。「なぜ生きているのか?」ではなく「生かされている」。

ならば、そこに感謝するだけでなく、
その恩に報いることだ。
自力主体で仁(万物を創造化成していく働き)を体現していく。

嫌なことは自然現象だと思って応対する。台風に応対するのと同じに考える。
天を相手に仕事する。誠実に、真剣に、全力で。

8月、お盆だ。
健康と健闘を!






第195話 ◇陶冶(とうや)••••••
「陶」…焼物を造る→土を粘り、焼いて、陶器を造る。
「冶」…金属を精錬する→鉄を鍛えて鉄器を造る。

どんなに素晴らしい環境・素質・才能を持っていても、教育を受けても、その後の陶冶を欠いては何も成さない凡人となる。

劣悪な環境・指導でも、その後の自己陶冶によっては改善され得る。

自分で自分を見限ってはダメ。
甘やかしてもダメ。


人は陶冶次第。
しっかり焼きを入れ、鍛えなければ、ものにならない。






第194話 ◇意味があるのは、結果より過ごしてきた時間••••••
「俺にもできますか?」
…分かりません。

あなたは、あなたなりにできる。
それ以下ってことはある。チンタラ取り組めば。
しかし、それ以上ってことは、ない。

「俺にもできますか?」
あの人のように…は、無理だよ。笑

あなたは、あなたなりにできる。

そのために、臆病・卑怯・怠惰な心を捨てて、
甘い幼い心を捨てて、

自分自身を成長させる正しい努力を。

そしてその努力の結果が、最初の目標とは違っても、結果まで過ごした時間は確かなもの。

そして最後に意味をもつのは、結果ではない。

意味があるのは、今まで過ごしてきた、かけがえのない時間。

そして、私たちが生きることができるのは、「今」だけ。
どのように今を過ごすのか。

時間は命だ。






第193話 ◇「正しい答え」と「優しい答え」••••••
「正直は最良の策」と論語にある。
しかし、相手を守る「嘘」もある。

「正直」も「嘘」もどちらも正しいと思う。
正しいというのは、相手、時、状況の流れの中で、ピタッと当てはまった時のことを言う(時流、時中)。

目的のためには、悪魔も聖書を引用するという。
様々な力を使う時、もちろん恣意的(自分勝手に、先を見据えず、状況を考慮せず)にも使えてしまう。


そこで、自己中から一歩成長するために「無心」が必要になる。
無心とは、何も考えないことではなく、恣意を離れ、全体の造化(創造化成)に資すること、仁(森羅万象を包容し育んでいく働き)に寄与すること。

※本筋を押さえているならば、集中して取り組む事が、そのまま「仁」に資するようになっている。
その意味においては、「無心」と「集中」は同義になる。


「仁」に資するかどうかが、様々な相手、時、状況に上手く応じるための基準となる。

仁を会得するにはどうすればいいのか。

→経験と勉強…「自己の修養」から少しずつ会得していくほかはない。
だから釈尊は「己こそ己の拠るべ(自分自身を拠り所としろ)」と言ったのではなかったか。
経験値を上げる。深く学び考える。

そして、正しい答えを導き出してゆく。
しかし、正しい答えは立場で違う。

自分の立場での「正しい答え」は誰でも出せる。
が、「あれも一理、これも一理」「盗人にも三分の理」。

それぞれの立場の理屈、それぞれの「正しい答え」だけで物事を進めるなら、その推進力は抹消化し、いずれ力を失ってゆく。

「正しい答え」とは別の答えはあるのか。

自分の立場を踏まえ、そこを離れ、全体の成長・共栄・調和…、つまり仁に資する「優しい答え」もある。


技を稽古する。
状況に応じて技を使う。
そこには様々な「間違った答え」「正しい答え」そして「優しい答え」がある。
武道は仁を顕現するものである以上、「正しい答え」の先にある「優しい答え」を導き出したい。

そして、私たちも社会に仁を顕現していく存在であるならば、様々な問題で「優しい答え」を導き出したい。


結局、物事は「応対」と「挑戦」。
様々に応対するには、適切な武器を身につけ、それを時流(流れ・状況)を見極め、時中(旬・タイミング)を捉えて自在に使えることが理想だ。

そのためには、「自反(自分にかえる)」し、克己修養を重ね、自己を強く大きくしていくしかない。


しかし、「正しい答え」だけでは満足できない。
北を指すコンパスのように、常に「仁」を見据えて、「優しい答え」を模索したい。






第192話 ◇天を相手に!••••••
◼︎佐藤一斎「言志四録」に、
「およそ事をなすには、すべからく天につかうるの心あるを要すべし。人に示すの念あるを要せず」とある。

◼︎西郷隆盛「南洲翁遺訓」には、
「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして己を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」とある。


私たちはどうだろう?
人を相手に仕事・稽古しているのだが、意識はそこにあるわけではない。

天を相手に行う。
敵をまともに相手にするのではなく、天を相手にする気概で勝負する。


相手に騙されたとか、こちらの誠意が伝わらないとか…日常でも仕事でも、
ま、色々あるだろう。

しかし、その相手のことを台風や真夏の暑さなどの自然現象とみなしたらどうか。

自然(天)に泣き言や文句を言っても批評しても何も始まらない。

「如何(いか)に応対するか」が大切だ。

天(自然)との勝負には、時や地の利、人の和をフル活用しなければならない。

例えば台風には、どんな準備をして、どうやり過ごして、どう後始末をつけるかに集中する。

臆病・卑怯・怠惰な態度は改めたい。
怠ければ、そのツケは自分に戻ってくる。

天を相手に勝負していく。
相手に不足はない。






第191話 ◇定まり静かであること(定静)••••••
武道の稽古をしていると、ある段階まで至らずに、その手前でウロウロしている時期の人は、身体もウロウロしている。

茶、剣道、坐禅、音楽、絵画、料理…何事も、あるところまで進むと身体が定まり、姿勢が決まってくる。
落ち着くところに落ち着く。
板についてくる。

すると、ガサツにならず物静かで、急場でも、悠々とした落ち着きと安らかさがある。

稽古に未熟な者の動きは、ガサツなところがあって安定しない。

人物修養も然り。
周囲を見渡しても、人物が出来てくると、身体にも言語にも所作にも決まりが出てきて、静かで悠々としている。
安心感がある。

修養しない者の所作や言動は、ガサツなところがある。円やかさに欠けて、落ち着かない。


社会には、ガサツでつまらなくても、良い地位に収まっている男がいる。
それは奥さんが良くできている。
彼女が定まっていて、静かで安らかさがある。そして思慮深い。

男が奥さんに補われている。


男は金や名に囚われやすいが、出来た女は自分を忘れてより大きなもの(至善)に生きる。
至善に止まるのだから、女の方が男より定まりやすい。静かでどこか安心している。

やはり男には「知り→定まり→静か→慮(おもんばか)り→会得」のための修養が必要だ。


「定まり静かである」というのは、人物修養の程度や品格を測る手掛かりになる。






第190話 ◇志を立てる••••••
橋本左内、15歳の日記より(「啓発録」)

「志とは自分の心が向かい赴(おもむ)くところを言う。忠孝の精神を持っていれば、成すところなくつまらぬ一生を終わる者には決してなるまいと直ちに思いつくはずである。そう思うことが志の始まり。

また、志を立てる(立志)とは、自分の心の向かい赴くところをしっかり決定し、真っ直ぐにその方向を目指して、絶えずその決心を失わぬよう努力すること。

志が不確定で、心も乱れていては、とても聖賢豪傑になれるものではない。

自分の足らぬところを努力し、自分の前進するのを楽しみとすることが大切である。
また、志が立った後でも、学問に励むことを怠れば、志は失われていくものであるから注意しなければならない」。

20歳で立志を言うなら普通だ。
が、15歳で書き残している橋本左内には頭が下がる。感服する。

立志とは、理想追求という求道心だ。この心を失えば、物質的な力や生物的本能に支配されるようになる。

弱いから、忙しいから、金がないから、人脈ないから勉強できない、仕事できない…と、言い訳ばかりして、何も出来ない連中が集まっても結局何も出来ない。

彼らは、不平不満を並べたり、批評したり、つまらない喧嘩したり…、物事をぶっ壊すばかり。

それじゃ、情けない。


何が自分であるかを考えたい。
そのために「自反(己にかえる)」。人間生活の根本は道徳。その基本的精神・情緒を育てなければ、人間生活は健全に発展しない。

自反の一助になるのは「小学」。
「小学」…知識を体現すること。日常実践の学問。小学を学ぶと、言葉や応対の間に自ずから現れてくる。

「まず、洒掃(掃除)、応対(挨拶)、進退(作法)が大事。そして、親を愛し、目上の者を敬い、先生を尊び、友を親しむ。
そういう道を教えることは、自分の身を修め、家を斉え、国を治め、天下を平らかにする礎となる」と説く。
これらを無意識的な行動にまで落とし込む。

そして、「論語」…吾(わ)れ日に吾が身を三省す(1-4)。
三省
◼︎人事を尽くしたか?
◼︎誠実であったか?
◼︎道理に沿っていたか?

「荀子」も。笑

今夜は立志というテーマだった。
今月の合宿、夜は「小学」を読もう。笑






第189話 ◇集まって切磋琢磨••••••
論語の顔淵篇
「曾子(そうし)曰く、君子は文を以って友を会し、友を以って仁を輔(たす)く」


・文…教養・学問・活学。
・(武)…人間社会においては、心の弱さから始まり、様々な邪悪と戦い勝ってゆかなければならない。その邪悪と戦い、私達の生活や理想を一歩ずつ積み上げていく実践力。
・仁…造化(創造変化)の働き。限りない私達の成長・共栄・調和。


我々もこれを以って旨としている。

→◼︎「教養や武を以って同志を集め、
お互いの切磋琢磨・力闘向上により、
お互いの人格(心技体)の向上を図り、
社会の興隆に寄与していく」。






第188話 ◇革命とは?••••••
稽古して力がついてくると、軽率になる輩がいる。言葉も軽率になりがちだ。 しかし、浮つくための稽古ではない。

浮ついた言葉として最近耳につく「革命」について、一緒に考えてみたい。


革命の本質は、過去を壊すことにある。
革命は少数の人々の英雄的行為を明らかにするが、同時に、いかに多くの人間が呆れるほど卑しいかをも露呈する。

過去をぶっ壊せば、真善美が勝利を収め、自動的に万事が新しく創造されると思ったら大間違いだ。
過去をぶっ壊しても、過去は過去として存在し、そこからバラ色の未来が作られるわけではない。

革命には、歴史から明らかになる問題がある。
多くの革命家に共通するものは、大義のために何を犠牲にしても構わないという冷酷な人間性と鉄の意志、そして権力欲に支配されているという事だ。
彼らでは革命後のリーダー足り得ない。

革命は、社会が健全に発展・変化していく創造力が欠けている状態を示すから、革命によって新しい人間は生まれることはない。

新しいリーダーが革命後を仕切るためには、精神的運動・変化がなければダメだ。
新たな創造にはならない。
単なる衣替えだけになる。
(「愛と実存」ベルジャーエフ 参考)


易経にも「沢火革(革命)」という卦がある。その前後を見てみる。

下経、「天風姤」で、人・時・物に出遭い、
「沢地萃」でそれらが集まり選別される。
次の「地風升」で事業等が大きく発展し、
「沢水困」で、一段上がった新天地で様々な困難に直面する。
「水風井」で、その困難は自分自身を深めていくことで打開できると説く。
その上で「沢火革」(革命)。

ここから、革命を起こせる人の資格が垣間見える。
「困難」に直面したから「革命」なのではない。
困難の後に自己を深める(水風井)ことなくして、自己も世の中も革新することなどできない。

また、ただ壊す(沢火革)だけでなく、建設(火風鼎)が必要であり、ここが最も大切だ。
自己革命は必然。存在秩序を正しくして、創造活動的社会を築き上げなければならない。

だから、本来は「革命(ぶっ壊す)」ではなく「革鼎(かくてい・壊し創造していく)」であるべきだ。


自己革命、職場革命…その意気は買うが、革命の意味を分かっているか?

勢いに乗じた軽挙妄動は、ただ壊すだけという愚行に終わるぞ。






第187話 ◇負けてヘラヘラ?••••••
勝負は勝つから面白い。
負けてヘラヘラ笑える精神は健全ではない。
本気じゃないのか、悔しさを隠して自分を守るためか。
…いずれにせよ、情けない。

勝負にあるのは、勝因より敗因。
勝った理由は相手に敗因があったからだ。
負けた理由は必ずある。

悔やんでも負けた勝負は戻ってこない。
敗因を分析して次の戦略に目を向ける。

そして、勝負の質を高めることを考え、結果を求めていく。

そんな時期の稽古も面白い。






第186話 ◇出会(遭)う••••••
単独では成し遂げられないことが、大勢ならできる。
出会(遭)うこと、組み合わせることで、創造化成を顕現していく。

時に出会う。
物事に出会う。
人に出会う。

どういう態度で挑戦し、応対していくかにかかっている。


「さよならだけが人生さ」と言った人がいる。

しかし、未来は出会(遭)いから始まる。
そして、出会(遭)いの方がエキサイティングだ。






第185話 ◇東洋思想の自然観••••••
自然観…西洋文化が「人為的」なものに対し、東洋文化は「自然的」であり、人よりも「天」に基づく。

人は、天を観念として捉え、そこから自然観・社会観・人間観を作ってきた。
だから、天に基づいて考えることが根本にある。
人は主体的積極的に天を模範とすることで、その立場を築いてきた。


◼︎天…人間社会は有限、限定されたもの。人間の悩みや間違いは、小さく自分を限定することや、つまらないものにこだわることから始まる。

東洋文化は、自然の摂理を模範として、悩みや間違いからの脱却を考える。
この有限に対する無限を「天」と言う。

天は無限を象徴することから、万物を生み出し育て変化していく(生成化育)力そのものをも象徴する。

天は、人間の欲や感情や行動で自由になるものではないことから、人間から見ると必然的・絶対的なものとなる。


◼︎地…天とは反対に、固定・有限を表す。天があって地があるのだから、地は天の力を受けて、天と同じく万物を生育する働きを担う。


◼︎人…天と地との間に生まれた。
天地のエネルギー(火)が、この五体に留まるを以て火止(ひと)と言う。

天地の間において、無限の生成化育であり、変化であり、それらの働きを象徴する存在である。


◼︎命…人間から見た、天の絶対的な働きを命という。
私達の身体や人生は「命」を伴ったものであり、個人の勝手なものではない。
命は絶対的なものであり、そこに是非の概念は生まれない。

子供にとって直接の天は親である。
従って、「生まれたくなかった」等と言うことは許されない。

「命」とは存在であり、存在とは活動である。


◼︎天命…人間の欲や意思に拘束されるものでなく、固定したもの(宿命)でもなく、絶対的なものであり限りなく変化するもの。

天命は活動変化して止まらないものだから「運命(命を運ぶ)」と言う。誰が運ぶか?自ら主体的に運ぶのである。

命を観察すると多くの法則があり、その中での生成化育や変化は複雑な内容を持ち、不思議な因果関係(数)を持つ。因果関係の中の原理原則を「律」と言う。


◼︎律…命の生成化育や変化の因果関係(数)における原理原則。
限りなき因果関係をまとめる「理」を天理・命理・数理と呼ぶ。
天・命・数(因果関係)という原理原則に基づいて、いかに変化させ、いかに治め、いかに化育させていくかが、人生の醍醐味の一つ。

その面白さは、原理原則を踏まえ、いかに自分の存在と人生を変化させ、創造化育していくかにかかっている。

だから、今がドン底と思っていたり、悩んでいたり苦しんでいる者ほど、変化させるべき材料に溢れているわけだから、面白くできる。

変化や化育の必要のない、最初から最後まで恵まれた人生では平凡過ぎてつまらない。また、変化に対し臆病になる。

芸術は悪や醜を真善美に変えて、人の心を楽しませたり、清らかにさせたり、高めたりすることが役目。

自分の人生も芸術のように変化させていくところに醍醐味がある。
創造化成・変化の醍醐味を味わいながら、私達は存在し、成長していくもの。
その実践を道という。


◼︎道…天の中に含まれる絶対性(造化の働き)、人間からいうならば実践性を道と呼ぶ。

道は理の実践 により把握するもの。
理と同じものであるが、知性の対象になる時は「理(物事の存在・活動の本質)」と呼び、実践の対象になる時は道と呼ぶ。

だから、全ては道によって存在し、道によって活動していることになる。

「道(造化の働きそのもの)」によって生み出されたものを「器」という。

各自の天命を「性」と言い、その性に従った実践を「道」と言い、その道を修めていくことを「教」と言う。


◼︎徳…道(造化の働き)が人間という媒介を通じて現れたものを「徳」と言う。
従って、人間は徳を持った存在である。

徳とは人間の本質的要素であり、人間の存在の根本(徳)と、活動の根本(道)の原則を合わせて、「道徳」と言う。

道徳が人間の様々な社会活動に現れて仕事となる。
これを「功」(業)と言う。


◼︎功(業)…道徳・天道が政治、経済、教育、医療、防衛等の様々な社会活動・事業・仕事になったもの。
人間を左右する力。


以上の、天・道・徳・功(業)…これらが人間社会を千変万化に動かしていく4つの基本概念。
己の人生を、自ら切り拓き創造化育していくための、しなやかで強靭な背骨になる。

◼︎天…創造化成・変化の力や働きそのもの
◼︎道…造化の働きの実践
◼︎徳…人間の五体を通じて道を体現したもの
◼︎功…社会での創造化成・天命・性の実践とその成果






第184話 ◇技とは技術ではなく道である••••••
大自然の万物を創造変化させていく造化(※)の働きを、人間の実践的立場から「道」と言う。

つまり、道とは実践的働き(創造そのもの)であり、創造された「物」ではない。

道によって作られた「もの」は、「器」と言う。

従って、器は決められた目的のために役立つ「もの」であり、道は融通無限。

器は道により存在する「もの」であり、
道は必要に応じて様々な器を作っていく働きである。

器は道に基づいて役に立つ「もの」。道と器は一貫していなければならない。

所作・体捌き・運歩・技も器の現れであり、道理から出てくるものだから、所作や技にも理が含まれている。

技は技術ではない。
技は道である。
そして、道には極まりはない。

※造化…無意識で森羅万象に充満している造化変化の働き。






第183話 ◇イジメで自殺するな!••••••
日本での自殺者は毎年3万人。
変死者は15万人。

自殺者と変死者の違いは、「遺書があるかないか」。

WHOは、変死者の50%を自殺者とみなす(残りも自殺ではないのか?)ので、WHO基準では
日本の自殺者数は11万5千人程になる。

日本は、1日約315人(4分30秒に1人)が自殺している国ということになる。

この数字は他の先進国の10倍。
主要先進国(G8)で、20代30代の死因No.1が自殺という国は日本だけ。
加えて、行方不明者も年間8万人程。

世界でGDP第3位(2015年)の日本の裏側。

社会の仕組みから外れた人たちの多くが自殺候補者。
特に、子供のいじめによる自殺は痛ましい。

マスメディアやネットのスタンスが犯人捜し、仇討ち、敵討ちなら、ニュースを見た自殺予備軍の子供たちは、期せずして加害者への復讐の方法を知ることになる。

自殺すれば、テレビが仇を取ってくれる…。

マスコミの報道役割は仇討ちではなく、

→「ガキの頭や経験で自殺を選ぶことは、幼稚すぎて恥ずかしいことだからダメ」

→「いじめられてしんどい時期や、そのいじめの世界は、人生という織物の一つの小さなシミのようなものであり、人生はこれからもっと広大な世界に続いている。そのための戦略を立てろ」と、知らせることではないか。

いじめられたら闘うという選択もいい。
いじめられたら逃げるという選択もいい。
「死ぬしかない」と思い詰めてはダメ。
「辛いから死ぬ」という選択はダメ。

もっと長期で人生の戦略を立てて、したたかに生きろ。
いつか加害者を見返してやれ。






第182話 ◇自反••••••
勝負における勝因は、敗因をなくしていくこと。
ならば負けた時己に問うべきは、

「お前は何に負けたんだ?」

迷い、臆病、卑怯、怠惰な心は却って敵の助けとなってしまう。
そして、弱気は最大の敵!

負けた「原因」が分かれば、対策の立てようはある。

そして結局は、自ら反省し、自分自身に求めるしかない。(自反)


師は、それ(自反)を伝え、その道理を教える。
それを会得するのは自分(自得)。

この部分は心をもって心に伝える他ない。それを教外別伝(教えの外に別に伝わるもの)という。

師が教えるとは、自分自身の中にありながら、自分で見ることができないものを知らせることであり、何かを与えることではない。

教えること、教わることは簡単。

しかし、自分の中にあるものを見つけ、それをモノすることは容易ではない。

集中して真剣に。






第181話 ◇理屈と人情••••••
技には理屈がある。
しかし、理屈を前面に出す稽古は控えたい、という話を。

理屈で納得する事に満足を覚えてしまうと、道着を脱いだ後も、様々な世界に同じ姿勢で臨みたくなるものだ。

例えば家庭。しかし、家庭は情の世界であって、理の世界ではない。

理が無いわけではなく、理は情の中に含まれる。
そして、その理は情緒的に現れなければならない。

家庭は、理で是非弁別を比較する場所ではない。恨みや感謝は各々の主張に任せて、理屈で問い詰め過ぎない。
理の主張が強いと、潤いや温かさや深みが少なくなっていく。

花が風になびくように、水面の波が揺れるようにやっていくのが、家庭という世界。


その上に、政治・経済・道徳・医療・教育・防衛・文化等がある。

人間の営みは、理と情を切り離して、そのどちらかだけでやろうとすると、後悔や恨みを残す事が多くなる。当たり前だ。

情の中に理を含ませ、理の中に情を含ませていく。

物事は、無心で感覚・直感を研ぎ澄ませて、時勢の流れや物事の性質という波にうまく乗っていく方が良い。

それを否定してしまうような、
理屈を前面に出す稽古は控えたい。






第180話 ◇やられた奴をバカにするな••••••
やられた者が味わう屈辱
…殴られた痛さ、骨が折れる音、恐怖、悔しさ、心が折れていく情けなさ等は、実際にやられた者にしか分からないところがある。

アドレナリンを止めるには、相手の心を折ってしまえばいい。
腕を折られたり、肩を脱臼させられたりしても、目力が衰えず相手を睨み続ける人は多くない。
その後に、拳が顔面にめり込んでいく痛さが想像できるだろうか。甘いものではない。

やられた者は、負けじ魂で必死になって痛みや屈辱と闘っている。
心が折れないように。
再起を図れるように。

そんな思いをすることになっても、逃げちゃいけない時がある。男とは、男のために、男を張るものだから。

やられたこともない奴が、やられた者を馬鹿にしてはいけない。






第179話 ◇闘う前から白旗か?••••••
人間は具体的な目的やゴールを持てば、準備をして着実に進むことができる。
しかし、目標を持たなければ、人にも時にも流されて、やがて無気力になっていく。
無気力では何をしても楽しくないだろう。

崖っぷちに立っていても、リスクを背負おうとしない人は多い。
彼らは、危機から目をそらしたり、誤魔化したり、気分を紛らわすものを探すのは一流。
根性の無さと勇気の無さは超一流。

→それを変えてみたらどうなるか?

社会は大雑把にいって、肉食と草食。狼と羊で構成されている。性別や職業とは関係ない。
ただ、「狼の皮」を被った羊もいるし、「羊の皮」を被った狼もいる。
また、「狼の皮を被った羊」のように見せかける狼もいるし、「羊の皮を被った狼」のように見せかける羊もいる。
更に、状況に応じて狼にも羊にもなる連中もいて、案外本性は分かりにくい。
が、肉食系か草食系の2種類が世の中を歩き回っていることは変わらない。

我々は、ベジタリアンであっても平和主義であっても肉食系、狼でなければいけない。
どんな矛盾を抱えても、それを克服できる強さを持たなければならない。

私達ひとりひとりが、各自の具体的目標を掲げ、そこに向かって歩んでいるからだ。

何かを行えば、必ず応援団もできるし、噛み付いてくる連中もいる。
私達が羊では、噛み付いてくる連中と闘えない。彼らは猛獣なのだから。

「俺がいなくなったら世の中つまらない、世の中おしまいだ」…という気概を持って、自己修養にも仕事にも取り組む。
それは、人並の神経・知力・体力では厳しいかもしれない。
しかし、勇気を絞り出して目標に向かって取り組むと、無気力とは無縁になってくる。

それでも、「俺は羊だから」と、闘う前から白旗を掲げる?

→それを変えてみたらどうなるか?

自分の創造変化こそ、生きる醍醐味だ。






第178話 ◇ほめる?励ます?••••••
「やってみせて、言って聞かせて、やらせてみて、 ほめてやらねば人は動かじ 話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず
やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず」(山本五十六)

山本五十六ではないが、
相手を伸ばすには、まず手本(今の自分の最高の技 動き・技)を見せる。そして、相手にさせてみる。
説明の言葉は、その弊害を分かった上で慎重に使う。言葉に引っ張られると、観察する目が曇ってしまう。理屈で技を消化しようとしてしまう。
言葉は、褒めるか励ますことに。

褒めたり励ましたりする目的は、やる気と自信を植え付けること。
自信無く過ごすことは、決して目覚めない莫大な能力が自分の中に眠ったままになるので、非常にもったいない。笑


ただ、本音を言わせてもらうと、
褒めたり励まされたりしなきゃ、全力を尽くせない甘い男など…そもそも論ずるに足らない。

勿論、誰しも他人から認められれば嬉しいし、ほめられたり励ましたりされても嬉しい。
そして、相手の期待に応えようと頑張るのが人情だ。

しかし、上手にほめられて一生懸命取り組む男なら、上手にけなしてやればすぐに落ちてゆく。

そして、ほめることの上手い人は、けなすことも上手かったりする。笑

また、人の言葉に一喜一憂している男など、大丈夫かと心配になってしまう。

相手の望むことを、望むタイミングで、望むところに与えることは、
相手の嫌がることを、嫌がるタイミングで、嫌がるところに与えることと表裏の関係、つまり、同じことだ。

相手をほめて伸ばすことが前者とすれば、護身術や格闘技は後者の代表。

自分との約束を守っていく男、起こる出来事全てを「糧に変える力」を持っている男であればこそ、どんな世の中でも楽しく渡れる。

→それには、明確な目標・勇気・克己・節制・余裕!

克己と言えば、山本五十六はこんな言葉も伝えてくれている。
「苦しいこともあるだろう
言いたいこともあるだろう
不満なこともあるだろう
腹の立つこともあるだろう
泣きたいこともあるだろう
これらをじっとこらえてゆくのが
男の修行である」

…男の修行である。






第177話 ◇割り箸とバケツの水〜波を起こすより渦を作る••••••
割り箸とバケツの水。

「割り箸で、バケツに入った水をかき回して渦(うず)を作れ」。
…渦ができるまで、ずいぶん時間かかった。

「お前は、この割り箸の役割を果たせ。
一つの流れから渦を作り出して、皆を巻き込め。無関心やいい加減は許さない」。

→「率先垂範の一貫した行動で皆の信頼を得て流れを作れ!」…こういうことだろうか。

そうやってきたこともある。失敗したこともある。

…そして、今朝、気付いてしまった。
「1 vs 多数」に対して、真っ向勝負しろと恩師は言わなかった。
ぶつかって砕け散る波を作れ!ではない。
円を描いて皆を巻き込む渦を作れ!…と言ったのだ。

渦を作るには、割り箸で水を…バケツの内側をぐるぐる搔き回すだけだ。手は水につけない。
対立してぶつかるような抵抗はない。

そして渦の中心は、一番低いところにある。渦が大きく勢いを増すほど、中心は低く(謙虚に?笑)なる。
溢れさせてもいけない。過ぎたらこぼれ落ちる連中が出てくるから。


波を起こすより、
大きな渦を作れ!

それには、
率先垂範と、一貫した行動から積み上げる信頼だ。

あれ?宇宙も渦なのか?笑






第176話 ◇「思想とは、一つの行動である」••••••
走っているか?
基礎代謝量は、年齢や筋肉量の低下とともに下がる。
→食べる量が同じなら体重は増える。

継続だけが力なり。
→自信は、継続した行動に対してつく。
◼︎記録は必ず頭打ちになる。そこから奥深い世界に繋がっていく。
◼︎精神力を鍛える近道は、自分で決めたことを厳守すること。
◼︎スポーツは科学的・合理的トレーニングが大事だと言われる。
では、トレーニングに大差なければ、最後に勝敗を決めるのは何か。
→結局のところ、決めたら何があってもやるるという「精神力」「負けじ魂」。

継続。
自分に誓ったことは、何があっても続けることは、あらゆる場面で必要なこと。

◼︎自分との約束を厳守する。

続くか続かないかは、目標へのモチベーション次第。
◼︎「明確な目標と計画」を持つという習慣を身につける。

今回のタイトルは、小林秀雄著「私の人生観」より。
「精神の状態に関して、いかに精(くわ)しくしても、それは思想とは言へぬ。
思想とは一つの行動である」。






第175話 ◇上達に実感はない••••••
稽古して技術が上達していく。そしてその技術を応用し、相手や状況との相対の中に適用していく。

便宜上、技術が上達していくことを「できるようになる」とし、
その技術を状況に適用していくことを「使えるようになる」と区別して、
稽古の内容を分ける。

→分けるのは、理を「とこわり=事割(分)り」と呼ぶように、物事を細かく分けると理解しやすくなるから。

しかし、物事を細かく分けることで全体(根源)からは、かえって遠ざかってしまう。
従って、理解とはいつも断片的なものでしかない。
しかも、予定調和という前提も必要になる。

→「事を分ける」理解とは、大脳皮質の働きに頼る。
が、上達するには大脳皮質の理解だけでは厳しい。

様々な状況に応対できる応用力、創造変化できる技の上達とは、大脳皮質にとどまらず、小脳・脳幹・潜在意識という無尽蔵な部分も含めて豊富にしてしていくところにある(含蓄力の養成)。

上達とは、潜在意識(無意識)の働きが大きい。

無意識なのだから、上達しているという実感は、なかなか自覚できない。笑

上達も成長も自信も自覚の必要なんてない。
誰かがどこかでちゃんと見ているから!笑






第174話 ◇運命を生きるということ••••••
宿命と運命。両方に共通しているのは「命」。
◼︎「命」とは、絶対的なものを言う。

◼︎宿命とは、絶対的なものが宿る(動かない)。つまり、現代の日本に生まれたことや、男として生まれたことなど、良いものも悪いものもあるが、動かない(変わらない)ものだから、宿命。

◼︎運命とは、絶対的なものを運ぶ(動く)。誰が運ぶのか?自分の運命は自分で運ぶ。どうやって?自分の人生に挑戦する姿勢を持つことで初めて姿を現わすもの。

→宿命を受け入れる事で、自分の変わらない軸ができる。
軸が決まれば、そこから様々なことに果敢に「挑戦」していくことで、千変万化の営み(創造化成)が生まれる。

→己にかえり、宿命を受け入れ、自分独自の運命を自ら切り拓き作り上げていく。
それが運命を生きるということ。

1.宿命を受け入れることで勇気を育み(開き直り?笑)、
2.自己修養を積み、
3.虎の尾を踏むような冒険、様々な事へ果敢に挑戦していくことで、自分固有の運命をつくっていく。運んでいく。

運命は各自固有のもの。だから、他者との比較を超える。
皆が違う運命を持つのだから、平等などあり得ない。
独自のものだから価値がある。
自ら切り拓くものだから、努力にも価値がある。

どこに向かうか。それは未来のことだから分からないこともある。しかし、それが人生の面白さ、醍醐味。

持っている力を「今に集中」して、自分の運命を生きる。自分を、自分で未来に運んでいく。

さもなければ、その時代の流行(はや)りに流され、他人に流され、他者を羨(うらや)むだけの人生になる。

自分自身の心の真ん中の真ん中、素直な自分にかえり、修養を積み、主体性を発揮して生きる。

今夜は、その勇気と実行力を養う。
さて、稽古だ。






第173.1話 ◇メモ••••••
◼︎出足の早さと位置取り
◼︎どんな技もシンプルに同じようにやる
◼︎呼吸と動きは連動させる
◼︎時間(タイミング)による連絡変化
◼︎豪快(鈍感)で繊細な感覚→野生的
◼︎筋トレ。下半身から!
◼︎心意気→豪快な中にこそ繊細さを
◼︎両儀→単純で混沌のプロセスが、様々に発展する無限の可能性を持っている
◼︎根幹は豪快でシンプル
◼︎枝葉末節が繊細になり、根幹が見えにくくなる
◼︎技を小手先でやると、小手先の人生になる
◼︎姿勢・仕草・重心・呼吸
◼︎軸・間合い・一体感
◼︎強さの基本は柔らかさ
◼︎そろばん 「引いて(立てる)、置いて、払う、右から3番目」。
1+4=5、2+3=5、…5の組み合わせ、10の組み合わせ。

◼︎ピアノ
リズム、ドの位置、ドレミファソラシド(10本の指使い)、片手→両手、楽譜
右手だけ簡単な曲(ドからソまでしか使わない曲)、左手だけ、両手

◼︎ダンス
ストレッチ、基本ステップ、振り付け、応用
→芸術性、完成度、難易度。






第173話 ◇連休稽古お疲れぃ!••••••
連休稽古 法話メモ

◼︎「学ぶ」ことの意味は、家庭や学校や職場で、周囲の人々に真心と愛情をもって付き合い、自分のしなければならない仕事には誠実に立ち向かって、全力を尽くす気構えを持つこと。(橋本左内)

◼︎我々は利己心に甘んじていないか。
怠惰な傍観や臆病な逃避で日々を過ごしていないか。
無益な批評をして偉そうにしていないか。

まず自分自身に活を入れる。どんな環境でもまず衣食住を整える。そして、自分の生活と職場に新しい意義・使命を立てる。

◼︎まず我々が、成長・共栄・調和の社会興隆のために地に足をつける。

現状の情けなさを嘆くより、まず己の心に義(理想・誇り)の一燈を点ける。ひとりひとりが、各自の周囲の闇を照らす一燈になる。手の届く至る所に明かりを灯す。一人一燈でも万人万燈。

◼︎義・勇・仁・礼を胸に、成長・共栄・調和の明かりを灯す。

どんなプレッシャーにさらされても、気高く優雅に振る舞う。

道着を脱いでスーツ姿になったら凡人という軟弱じゃ、大した役に立たない。この道場で稽古している意味がない。
会社を、地域を、日本を明るくしていく。


◼︎◼︎連休稽古の目的は「自己の限界への挑戦とその拡大」。
簡単に言えば、「自分に嫌な思いをさせる」。笑…笑えないか。

しかし、いずれそれが毎日の当たり前になる。逆境も忍耐も自分の糧にして、 「何かに変わる力」を磨いていく。

◼︎全ての痛みは、乗り越えるべきものである。だから、悲しい結末など存在しない。

限界まで挑むことは生きている者の責任。そして、その限界を押し上げるところにこそ意義がある。
だからこそ、努力には価値がある。
その信念と鍛錬と忍耐が、身体も精神も進化させる。

連休明けから、また娑婆を掻き回そうぜぃ。

◼︎3日間連日の稽古、本当にお疲れぃ。
筋肉痛で身体が動かなくても、すぐに復活する。
夏合宿にむけて、いいウォーミングアップになったことと思う。






第172話 ◇疲れる原因の筆頭は?••••••
「仕事に疲れた。勉強に疲れた。人間関係にも、家事にも、人生にも…」。

しかし、疲れる原因の筆頭は、仕事でも勉強でも人間関係でもなく、

「退屈(たいくつ)」。

→「退屈が人を殺す」 (道場法話 第137話◇退屈に耐えられるか? 参考)


「お疲れ様」は、相手を労(ねぎら)って言う言葉だから許される。
しかし、「疲れた」と周囲に言う連中は、うっとおしい。
「ヨシヨシ。ナデナデ」と言って欲しいのだろうか?しかし、周囲の雰囲気を害してることを自覚しているだろうか?
「ガキかよ!」とも思ったが、ガキは退屈しないから疲れない。

「疲れた」と言う代わりに、心の中で小さく「今日も頑張った」と言ってくれ。笑

誰かに甘えたい人は、「疲れた」の代わりに、「今日も頑張った」と言ってみてくれ。笑

門下生全員、各業界でリーダーになって大業を成すためにここで稽古している。
少なくとも、誰でも自分自身のリーダーであるべきだ。
すぐに疲れるリーダーなど要(い)らない。

人物評でも2種類ある。
「退屈な人達と、退屈しない人達」。

仕事や勉強に追われていても、つまらなく退屈に過ごす人もいる。
ヒマにしていても、退屈しない人もいる。

稽古は退屈じゃなくても疲れる?
身体を酷使してるんだから、当たり前だろ。今、身体を酷使する場面の話なんかしてねぇよ。笑

皆で稽古するなら「あいつは退屈とは縁遠い人だよ」という人と一緒がいい。

仕事も勉強も遊びも。
人生も。






第171話 ◇構造化(2)〜基本要素を探す〜••••••
先日、周囲の人達や門下生たちと「技の構造化」について論議していた。

構造主義哲学の元祖は、フランスのクロード・レヴィ・ストロース。
「一見関係ないようなもの同士の間には、一定の方程式があり、同一の原型が異なる形で顕在化したもの」という説も彼は取り上げていて、私はそこに興味を持った。

例えば、二次方程式なら「解の公式」(不変)を通して見れば、どの問題も(変化)同じようなもの。

変わらない原理原則の上に、千変万化に創造化成するという「易経」や「陰陽論(東洋思想)」と通じるところがあるじゃないか!

構造化することは、物事の基本要素を見極める訓練にもなると思った。
早速、色んなものを「構造化」するぞ、と試みてみたら、…面白い。
物事を安易に見るという姿勢さえ戒めれば、「構造化」という視点は面白い。帰納法と演繹法を行ったり来たりする。

→基本要素を見つけるのに留意している点は、「この要素を変化させることで、それに応じて顕在化するものが変わる」かどうか、ということ。

武道の技の基本要素は、
「急所・力・タイミング・間合い」の4つの基本要素で構造化した。

◼︎急所→狙う急所を変えることで、応じる技も変わる。
◼︎力→例)相手の力が自分より強ければ、力を流しながら技をかける。自分の方が強ければ、そもそも技を使う必要ない…ではなくて、相手の力を受けながら技をかける。というように、技は変化する。
◼︎タイミング→相手の出だしより早かったり遅かったりで、技は変化させる。
◼︎間合い→相手との間合いが遠かったり近かったりで、技は変化させる。

スタンプの基本要素は、
「インク・熱・水(油)・空気」。

デッサンの基本要素は、
「対象・質感・陰影・距離」。

大好きな写真はどうだろう?
「カメラ・光・レンズ・構図(アングル)」かな?

ピアノはどうだろう?






第170話 ◇技の構造化(基本4要素)••••••
相手により状況により、技の適応は千変万化する。しかし、変わらないものもある。その変わらない原理原則(要素)を、どこかでいつも見据えておきたい。 →「技の習得は簡単」ではないが「技の原理原則・基本要素はシンプル」である。

数多の技を一つ一つ会得していくやり方では技のデパートになる。そこは目指さない。
いくつかの技を通じて、要素(根っこ)を見極め、そこから倍々ゲームのように多くの枝葉(技)を繁らせていく。

一つ一つの基本、形、技を積み重ねていき、そこから共通項を導くという「帰納法」稽古にプラスして、原理原則を理解して、そこから千変万化していく「演繹法」稽古も必要。

結局、一流を目指すなら10,000時間の稽古は必須の要素と考えるので、時間の短縮を目的にするわけではない。

「技」…「原理原則が状況や人に応じて異なる形(結果)として現れたもの」と定義する。

その形とは、「自分と相手の関係性を変化させた結果」でもある。
相手は変えられないので、言わば自分に技をかけるようなもの。原理原則を踏まえた上で、自分を創造変化させていく。
→自分が変わることで、その関係性を変えてゆき、結果として相手も変わらざるを得なくなる。

技のための前提と考えているのが、「出足の早さと位置取り」、そして「相手・状況との一体感」。

◼︎<出足の早さと位置取り>
先を見据えることで、相手よりも初動のタイミングが僅かに早くでき、自分に有利なポジションに位置取りでき、自分の変化を相手に伝えていける。

◼︎<相手・状況との一体感>
一体感へのプロセスが自然であるほど、相手からの反発や抵抗は少なくなる。
一体感の度合いが強ければ強いほど、自分の変化は相手に伝わりやすい。ごく僅かな自分の変化が、相手に大きく浸透していく。

以上を踏まえた、
<技の基本4要素>
◼︎「急所」…理、経絡、関節、等。
→解剖生理・心理・脳科学・物理・事理等。
◼︎「タイミング」…旬。時流と時中。
→先先の先(兆し)〜後の先による技の変化。
◼︎「間合い」…対象との差(距離、時間)。
→遠間〜近間による技の変化。
◼︎「力」…筋力、体力等。
→対象との力の比較(強弱)による技の変化。






第169話 ◇集中とは拡散、一体感。個性を超える。••••••
集中。

最初は「一つのこと」に意識を合わせる。
そのために、洗面器一杯分の米粒を箸で別の器に移動させる訓練も行ったりする。

「集中とは拡散だ」と言っても、最初は「一つのこと」に全身全霊で真剣に取り組む。
そうでないと、ただの注意散漫になる。

しかし、次第に「一点集中」は、その集中できる範囲を広げ、どこか一ヶ所への執着が小さくなって、意識は全方位へ「拡散」していく。
無我無心になって相手や状況との「一体感」へ。呼吸はきめ細かく、長く細く静かに。

◼︎車を運転する時…進行方向のみに一点集中するのではなく前も後ろも右も左も。 視野は広がり、集中するに従って意識は全方位に拡散していく。視覚だけでなく、エンジンや周囲の音も、身体に伝わってくる振動も、匂いも…。

◼︎護身…正面から絡まれたら、その相手全体を観る。しかし、相手の仲間が自分の後ろにいるかもしれない。何人もいるかもしれない。「相手は一人だなんて誰が言った?」「相手が刃物持ってないなんて誰が言った?」…。前も後ろも右も左も上も下も、その先の落とし所も全部観る。

◼︎人の話を聞く時…は全てに同じような注意を払いながら「ぼーっと聴く」。「ぼーっとした顔」じゃマズイけど。
一点集中ではなく、拡散。全方位へ同時に注意を向けておく。

◼︎写真を撮る時…被写体だけに一点集中して撮ると、背景とのバランスや、光、陰影等を無視した写真になる。
ファインダーの中全て、反対の目も開ける。五感をフルに使って全方位へ同時に注意を向けておく。拡散、拡散。

無我無心、拡散、一体感…。心はどこへも置かず、拡散して全部の中に入り込む。 意識を向ければそこへ心を持っていく。それを冷静に見ている第二の自分もいて、全体を観て先を見据える第三の自分もいる。

仕事も同じ。相手と相対している自分。それを横から冷静に監督している自分。状況全体を観て先を見据えている自分…の3人はいつもセットだ。
集中すると、そんな風に自分が3人現れてくる。そして無心になって、個性をも超え、澄み切った軽やかな世界へ…。

え?集中できない?
そんな時は、飲食を絶って身体を動かす。





道場法話 2016年度 7月


第168話 ◇鍛錬の第一歩••••••
しっかり鍛錬を重ねれば、心身は必ず変わる。

そして、「易経」に見られるように、一段進歩すれば、そこにまた新たな問題が生じる。

それは、以前と同じ負荷なら心身は反応しなくなっていくこと。
だから、負荷を大きくしていかなければならない。
そこに、「克己(※)」、創意工夫、切磋琢磨が必要となる。

※克己…礼(形)に自己を従わせ、卑怯・臆病・怠惰な自分に打ち克っていくこと。


3年後の自分をイメージして、長期的視野で物事を見ていく。
だから、サボっても逃げても、また戻ってきて始めればいい。
物事は波の形で進んでいく。自分に都合の良い時ばかりではない。

目標として掲げた場所が高ければ高いほど、意欲や知識や技術を高めてくれる。

継続してやれば、必ず体は変わり、心が変わり、行動と習慣、そして人生が変わっていく。

強くなること。

それが鍛錬の第一歩。






第167話 ◇大切なものは、少し遠ざける••••••
◼︎星を見る時、星を直接見るのではなく、ほんの少しだけ目線をずらして、夜空の暗いところを見る。
すると、瞳が大きくなり、結果として光を沢山取り込み、星がよく見える。
星そのものを見ると、その光に反応して瞳が小さくなり、光の取り込み量が減ってしまう。よく見えなくなる。
→星をよく見たいなら、星から少しだけ焦点をずらしてみる。

◼︎紅茶が大好きなら、毎日飲むのではなく、週に1杯だけに控える(第31話)。
「もしも、大好きな紅茶を毎日飲んでいたら、それが当たり前になって紅茶に感激しなくなってしまう」。
→活力や感激は、節制から生まれる。満足から生まれるわけじゃない。

◼︎易経も、咸→恒の次は「遯」にいく。
徳川家康も「結婚してしばらくしたら、夫婦は必ず別々に寝よ」と言う。いつも一緒に寝ているようでは、天下の大事を成すに足らない。愛すべき人は愛するが、それに溺れない。
→大切なものは、少し遠ざける。

◼︎技の稽古。焦点を合わせたつもりでも、未熟ならとんでもない方向に向かってるかもしれない。少しだけ焦点をずらした方が、かえって上手くいくこともある。笑
例)いつも相手を見ているより、後ろを見るように一瞬首を回すと、かえって肩が入り、体の軸が真っ直ぐになって、相手に上手く力が伝わることもある。

真面目で未熟なカタブツは、大切なものを大切にするために、「少しだけ焦点をずらす」「大切なものを、あえて少し遠ざける」という勇気の存在にも心を開いてな。






第166話 ◇恨みの晴らし方••••••
仁の人は、他人を恨んだりしないのか?

→論語は「公平無私な仁者にしてはじめて、本当に人を好み、人を憎むことができる」「善人には好かれ、悪人には嫌われるのが本当の仁者だ」と言う。

そもそも、恨みという感情は良くないものか?感情には良いも悪いもない。ただその現出のさせ方に、上手下手はある。

恨みとは「存立を脅かすものへ立ち向かう生命力そのもの」という一面を持つ。


動物と人間を比べてみる。
→動物は、自らの存立を脅かす相手に対し、「報復」を当たり前に行う。
縄張りを荒らされたら、当然相手に報復する。
それは生きるための戦いである。
動物にとって、生きるために絶対必要な事は悪ではない。
→動物の世界では弱肉強食は正しい。

しかし人間は、精神的な動物という側面も持つ。

私達の存立を脅かす2つの侵害について
◼︎肉体的侵害 →報復(リンチ)は原則NG。正当防衛はOK。
→加害者に刑罰などを課し、社会的制度で救済しようとする試み。

◼︎精神的侵害
→慰謝料請求の裁判など、社会的制度を使う。
→見返す。
相手を凌駕(りょうが)し、二度とちょっかい出すような気持ちを起こさせない程、圧倒的な力を見せつける。

「圧倒的な力で相手を見返す」。これが恨みの晴らし方。






第165話 ◇勝負する気も起こさせない••••••
Q. 勝負に負けない秘訣は何か?
(技術、戦術、戦略論は置いとく)

→相手が自分と勝負する気が起きないくらいの圧倒的な力の差を作る。比べさせない。

(第41話◇世の中は広い。上には上がいる↓)
◼︎自らを鼓舞し、「できると思え!」と脳に指令を出す事で、脳みそは身体の器官の性能を向上させる。能力のリミッターを外す。
◼︎負けじ魂
◼︎無我集中

・人より優るのは簡単だ。人より苦しい思いをすればいい。
・筋トレは回数じゃない。身体が動かなくなるまで追い込む。
・筋トレの苦しさが、人生の楽しさを教えてくれる。

これは筋トレに限ったことではない。

世の中は広い。どんなに鍛えても、やはり上には上がいる。
全力を尽くしても、挑むものが常に勝者となるわけてはない。思惑通りにはいかない。
いつでも創造化成の余地がある。だから面白い。

落ち込んでる場合じゃない。自分で自分を見限ることは絶対にしない。

変えないのも自分。変えるのも自分。
ただ、鍛錬で人は必ず変わる。絶対に変わる。3年後の自分を見据えて、しっかり自分の背骨(軸)を作る。

鍛えて病気になったりしないかって?
「全力を出し切って行動し、食べ過ぎず、ぐっすり眠る」。
それが健康へ至る方法だ 笑






第164話 ◇理・道理・事理・論理… ••••••
物事には、その存在や活動の本質的な要素がある。
→その本質を、知性により解するときの呼び方を「理」と言う。
→その本質の、実践的側面を「道」と言う。
それらを合わせて「道理」と呼ぶ。どちらも、物事の存在や活動の本質という同じものを、違う角度から見ただけ。

今回は「理」について。

理は「ことわり(事割り・事分り)」と言う。物事は細かく分けると解しやすくなる。それを「理解」と呼ぶ。
しかし、知性による理解は物事の一面になりがちであり、細かく分化する事で根源から離れて力を無くしたり、全体を見失いがちになる恐れもある。

物理、心理、生理、盗人にも三分の理、あれも一理これも一理…。存在するものにはみな理がある。

・事理…世の中の様々な事実に含まれている理。
・論理…私達の思考の中の理。
→論理が事理となり、道理となるに従い、物事の真実(真理)に向かう。論理→事理→道理→真理。「論理」が一番抽象的で、実践性に欠ける。

→論理の発達は、事理の一面だけを捉えたもの。物事全体に通じなくなり、実践から遠ざかる危険がある。

→誤った教育では、論理に埋没して事理・道理・真理が分からなくなり、道(実践)を解しなくなる危険がある。
→物事の一面を取り出し、結論を出し、それを論理にかけて展開することは、論理としては成り立つが、事理・道理・真理としては成り立たない。
事理・道理等を無視した論理的抽象的議論はいくらでもできるが、実践から離れたものになる。

→私達の生活の現実の理法、日々の実践の理法と、事理や道理に基づく「実践・行動」「結果」を大切にしたい。






第163話 ◇己に克つには?••••••
結論→好き嫌いではなく、まずは礼(形)を形通りに実践すること。

私たちは遵奉精神において「義・勇・仁・礼」を掲げる。
礼とは、仁義を「形(かたち)」に表したもの。

己に克つ…とは、この「礼(形)の実践」である。礼に背(そむ)くことをしないことが、己に克つこと。

稽古に当てはめると、これは「基本」や「形(かた)」の実践。
「技」にも基本はあるが、状況に応じて、その運用は変化していく。技の妙味はその運用の連携・変化にある。
対して、「基本」「形(かた)」は、変わらない形(かたち)があり、それを繰り返し実践していく中で、強靭でしなやかな背骨のような軸を会得するためのもの。

→技を千変万化させていくためにも、変わらない基本や形の習得が必要。

まずは形(かた)を形(かたち)通りに行う。頭での理解が深まらなくても、含蓄力に期待する。

理解力と含蓄力は別なもの。理解は脳みその表面(大脳皮質)だけを対象としたものだが、それだけでは浅い。
大脳皮質も小脳も脳幹も、そこから広がる無意識・潜在意識という無尽蔵な部分も含めて豊富にしてしていくという姿勢だ。

己に克つ(克己)も同様。まずは礼の形通りに。
相手に対して礼を外さず自在に振舞う前提としても、形は必要。

論語12-1(顔淵)に、仁とは「己に克ちて礼に復(かえ)ること(克己復礼)」であり、「礼に適わぬことを視るなかれ、聴くなかれ、言うなかれ、動くなかれ」とある。

→礼(形)に復ることで己に克っていく。その方法論が「形の実践」。






第162話 ◇何かを勉強したならば、••••••
何かを学ぶということは、人間を知り、事理を知り、社会を知り、自然を知って、自分を高め、人に優しくしていくことだろう。

何かを学ぶということは、臆病・卑怯・怠惰な心に打ち克つ、義・勇・仁・礼を会得していくことだろう。

何かを勉強することで、自分を強く、優しく、明るく、深く、高く、厳しく、そして大きく創造化成させていくこと、
物事の事理を知り、人の機微を知り、世の中を知り、自然を知り、自分の適性や能力でそこに参加し、創造化成し、貢献しながら歴史を紡いでいくことが本筋だ。

何かを勉強してきたのなら、
相手を批判したりバカにしたりすることなく、

強さ、明るさ、積極、優しさ、情味、深み、潤い、美しさ、寛容、忍耐、謙虚、厳しさ、あたたかさ、知性、話題の楽しさ等を体現したり、

相手を尊重したり、勇気付けたり鼓舞したり、
笑顔にさせたり納得させたり、
楽しませたり、美しくさせたり、高めたり、

相手から好かれたり、信頼されたり、安心されたり、

自分を高めたり強くしたり豊かにしたり、色んなことを楽しんだり感激したり悲しんだり…、

そんな事が何もできないようなら、

そもそも勉強への取組み方を間違えてる。

受験勉強では無理だって?
忍耐力、実行力、継続力、計画力…自分を強く大きくすることを学ぶ、いい機会じゃないか?






第161話 ◇成功の反対は失敗??••••••
◼︎目標を持って何かを始めるとき、一番キツイのは最初の一歩。
最初から目標達成(成功)しか眼中にない中で一歩を踏み出すのは、気負いすぎだ。
目標達成から焦点を少しずらして、失敗を集めるつもりでスタートする。

◼︎そもそも、成功の反対は失敗ではない。

例えば、技は膨大な時間の稽古と失敗の積み重ねの上に体得していくもの。
失敗という経験の上に成功はある。とすると、失敗とは成功の反対ではなく、成功の途上(プロセス)ということになる。

◼︎では、成功の反対は何か?

それは、「何にも挑戦しない」こと。
挑戦が無ければ、実行がない。実行が無ければ、その先にある「失敗」はない。ましてや、失敗の先にある「成功」には絶対に届かない。

→何にも挑戦しない人を、遠慮深い人だと言えるのか?…ま、有害な人ではないかもしれない。
しかし、何にも挑戦しない人は、組織や社会、国家にとってのハンディキャップでしかない。

◼︎遠慮と積極
遠慮は慎み深い徳だ。
しかし、あまりに遠慮深いと、何も挑戦しないのと同じようなことになる。

積極性は造化の働きと親和する。
しかし、あまりに積極的過ぎると、不必要な敵が多くなったり、周囲はその人の後始末に追われたりする。

遠慮も積極もどちらも大切な徳だ。

ただ、成功(目標達成)に向かうなら、遠慮よりも積極性をやや重視すべきだ。
特に成功の途上である失敗を恐れて遠慮がちになっている人には。

◼︎何もしない⇆挑戦→失敗→成功
◼︎遠慮 < 積極






第160話 ◇お辞儀(3)••••••
遵奉精神の一つ、礼について。
礼…仁義を形にしたもの。その形の一つ、お辞儀について。

お辞儀の第一義は「自らを敬する」こと。
そして、第二義は「相手に敬意を表する」こと。
→自分が相手に敬意を表すると同時に、相手を通じて自分が自分に対して敬意を表すること(第46話◇お辞儀(2)参考)。

犬猫はお辞儀をしない。その意義を尊重することを知らない。
人間になって初めて精神生活が発達し、お互いに挨拶、お辞儀する。
挨拶の形は文化によっても様々だ。しかし、お互いに挨拶・お辞儀しないのは犬猫以下だ。

→お辞儀をするということは、お互いに相敬するということであり、自ら他に挨拶をするということは、同時に他を通じて自己を敬すということ。
そこにお辞儀の意義がある。

そもそも、人の人たる所以は「道・徳」を持っていること。それは「敬」「恥」の心に現れる。

敬する心は、人が限りなく成長・進歩を望み、より完全で偉大なものに憧れ、そこに近づこうとする気持ちが生まれる。
そして、偉大なものと比較して、なんと自分の小さなことかと、恥ずる心も生まれ、そこから、慎む、戒める、修める等の心理が発達する。

敬するという精神が発達し、作り上げたのが宗教。
恥じるという精神が発達し、作り上げたのが道徳。
「敬・恥」は表裏一体。宗教と道徳も然り。






第159話 ◇勇気一秒、後悔一生••••••
勇気がない?じゃ、一生後悔するかも。笑

「金を失うのは小さく、名誉を失うのは大きい。しかし、勇気を失うことはすべてを失うことだ。生まれてこなかった方がよかったろう」→チャーチルかゲーテ?の言葉。

「成功は決定的ではなく、失敗は致命的ではない。大切なのは勇気を持ち続けることだ」 (チャーチル)

→金も名誉も、社会にコミットしていれば手に入れられる。 しかし、勇気を失えば社会へコミットしても大して使い物にならない。 ひとりで生きるにしても、その気概を失っているようではロクな人生にならない。

勇気は生きるための源であり、後悔しないための前提だ。
だが、勇気がなくても、己の本分を全うするために生きていかなければならないから辛い。笑

→勇気を絞り出すには、
▶︎話をやめて口を閉じる。自分に気合い入れて、とにかく行動開始。
▶︎最初の5分はガチで取り組む。
▶︎勇気がある男のように振る舞う。
▶︎バカになれ。

◼︎稽古 ・動きの基本は、「姿勢・仕草・重心・呼吸」。特に呼吸と動きの連動は大切に。

日常の動きが整わなければ心も整わない。何も始まらない。
心を鍛える(整える)には、今に集中して、当たり前のことを丁寧に真剣に行うことから。






第158話 ◇即死と致命傷以外はかすり傷 シリーズ(1)••••••
→絶体絶命の危機に追い込まれた時に感じる身体や意識の変化の一例。稽古の一助に。

◼︎身体→短時間で獣のように変化する。
◼︎脳→余計な機能を停止させ、危機を乗り切る事に集中する→食欲や睡眠欲を忘れさせる。
◼︎血液→出血しても早く凝固するよう変化。
◼︎血管→出血を抑えるため収縮する。
◼︎運動能力を高めるため、血圧を高め、心拍を上げる。
◼︎アドレナリンが急増し、口の中は化学薬品のような味がしてくる

◼︎アゴを上げると呼吸は楽になるが、気力は萎える。だから、アゴを上げるな。
◼︎大きく息を吸うならゆっくり。早く吸うと埃を吸い込む。
◼︎長時間潜み続ける場合、口呼吸も併用して機を伺う。

◼︎相手の素性がわからない時は、想像を止めて事実だけを全神経を集中させて観察する。
◼︎どんな相手にも油断しない→油断は致命傷になる。

◼︎淡々と長年鍛錬を重ねなければ応対できない。
◼︎人はあまりに苦痛を受けると、死を願うようになる。
◼︎サードマン現象(?)…多分未経験。






第157話 ◇道場の落書き(抜粋)••••••
「お前たちをどんなに深く愛したものがこの世にいるか、あるいはいたかという事実は、永久にお前たちに必要なものだと私は思うのだ」(有島武郎「小さき者へ」)


◼︎即死と致命傷以外はかすり傷。
◼︎死ぬことと死ぬ覚悟は別のもの。
◼︎大切なものは、あえて遠ざけろ。
◼︎なぜベストを尽くさないのか。死ぬ気でやれ。死なないから。
◼︎立ち向かうのに、弱音はいらない。
◼︎もう遅いと感じたその瞬間が、物事をはじめる絶好のタイミング。
◼︎情に流される人間になってはダメ。情のわからぬ人間になってもダメ。
◼︎明日やるより、今日やれ。
◼︎鍛えるのは、お前を無駄死にさせたくないから。
◼︎勉強の苦しみは一時、勉強しなかった苦しみは一生。
◼︎壁を乗り越えた時、それはお前を守る盾になる。
◼︎時間が足りない?お前の努力が足りないんだ。
◼︎成功したいなら、人より早起きして、人より努力しろ。
◼︎楽して成功することはない。成功には徹底的な自己管理と忍耐力が必要だ。
◼︎闘う相手が誰でも、信じるものは一つあればいい。
◼︎現実的な人は、自分の未来に投資する。
◼︎今日は二度とこない。
◼︎今この瞬間もあいつは学んでいる。
◼︎雑学は駄菓子みたいなもの。毒にも薬にもならない。
◼︎苦しまずに、前に進むことはできない。
◼︎いい時も悪い時もある。またそこからやり直せ。






第156話 ◇選挙••••••
人類は、未だに民主主義以上の政治システムを構築していない…。

民主主義の元祖、J.S.ミルは、その著書「自由論(on liberty)」の中で、民主主義は「多数決」だとは言っていない。あくまでも「議論」だと言う。
だから、道理に基づく自らの見識、未来の展望、そして他者への寛容さを持ち合わせる人の集団…つまり、オトナの集まりでなければ、民主主義は成り立たないのだ。

例えば、私が某アジアの国と戦争がしたいと主張する。皆はダメだと言う。そこで徹底した議論が始まる。お互いの立場、価値観を理解しようと歩み寄り、なぜ戦争したいのか、ダメなのか話し合う。それぞれの選択後の未来はどうなるだろう?周囲、後世への考え得る影響は?等。
それでも、どうしてもまとまらない。そこでやむなく使われるのが、絶対多数の絶対幸福の原理…つまり、多数決が行われる。
10対1で、戦争はしないと決まった。
少数派の私は、その決定に従わなければならない。どうしてもイヤなら、その国を出るしかない。
そして、勘違いしてはならない点がある。多数派は、少数派に対して「お前の考えは間違ってる。考えを変えろ!」とは言ってはいけないということだ。
それが民主主義だ。

歴史を紐解けば、個々人が権利を会得するまでには、先人たちの多くの血が流れた。
我々が権利を放棄して、未来を人任せにするなら、この国で「過去からの叡智を受け取り、改良を加え、未来へ引き渡す」ことなど出来るわけがない。

そもそも、自分達の国やその未来に関心を持たないという選択に、義はあるのか。

我が国も、そろそろオトナの仲間入りしないと、この国はいつまで経ってもホントの民主主義国家には届かない。

各政党、他者への批判はどうでもいいから、各政党の義、50年後100年後の日本の姿、国際社会においてどんな国で在るべきか。
それぞれの政策の勝算とその根拠、そして最悪の場合にどうするのか。
そこを語って欲しい。

私達有権者も、政治や国際情勢、歴史や哲学に無知・無関心ではいけない。
ケネディも言ったように、そういう人達は国家にとってのハンディキャップでしかない。

今月14日、また国政選挙がある。
不在者投票制度も期日前投票制度もある。

俺はこの国と未来に関心がある。
権利は行使したい。






第155話 ◇ 自分を棚に上げない••••••
最近のこの「道場法話」ブログは浮ついているという顧問からの指摘を受け、その通りと痛感。反省。

→道場での稽古を「陽」とすれば、勉強会は「陰」。
勉強会では、「小学」「大学」「中庸」「論語」「孟子」「易経」等、四書五経も学ぶ。
→国政選挙も控えた今日この頃、「大学」を見直して、浮ついた心を反省し、再スタートしたいと思う。

「大学」→「修身・斉家・治国・平天下」という儒教の基本的な考え方の流れが上手くまとまっている薄い本。原文1,753文字。

「…上は天子から下は名もなき庶民にいたるまで、すべて身を修めることを以って第一の本務とする。身(本)が修まらないで、家・国・天下が治まるようなことは決してあり得ないことである。
次に「厚き所」とは家である。「薄き所」とは国・天下に該当する。
そもそも人間の愛情は、身近な家族に対する恩愛の情こそまず厚かるべきで、家族にくらべると疎遠な国・天下の人々に対する情誼は薄くなるのが自然の人情というものである。しかるに身近な家族には薄情でありながら、家族より疎遠なはずの国・天下の人への情誼を厚くするのは、順序が逆である。
そのようなことで国・天下がよく治まるということは、古からその例(ためし)がない…」。(大学より)
力を「意思を貫き通す強さ」と定義すれば、「腕力」は実感しやすい力ではある。 しかし、私利私欲を抑えて、社会や歴史に参じることを考え、それを実践していくとしたら、腕力という力で男は満足すべきだろうか?
教育力、防衛力、経済力、政治力のように、直接自分が顔を合わせない相手に対しても、広く永く影響を与えられる方が、腕力よりも遥かに大きな力になる。

「企業の歯車は嫌だ。一国一城の主こそ男の本懐だ」という気持ちも分かる。しかし、その歯車が合わさって、一国一城を遥かに凌駕した力で社会に貢献できるとしたらどうだろう?

日々の稽古においては、自分たちの技にこだわる。が、「小さい力」にこだわりたいというわけではない。

技にこだわるのは、造化、実践にこだわるため。実践から遠い「理屈・論理」に陥らないため。そして、自分自身を棚に上げて、天下国家を語らないようにするため。

自身の鍛錬(腕力)から、各々が養う徳の力(徳力)へ、そして己の義を貫いて歩む道の力(道力)へと進みたい。

結局、置かれた場所でどんな花を咲かせるか。咲かせ続けるか。
今ここでどう振舞うかという、日常の立居振舞に戻ってくる。

最後に、「大学」を再度引用する。
「上は天子から下は名もなき庶民にいたるまで、すべて身を修めることを以って第一の本務とする。身(本)が修まらないで、家・国・天下が治まるようなことは決してあり得ない」。






第154話 ◇ 2種類の悩み••••••
<前提>…悩みを持たない人はいない。

悩みの出処から二つに分けてみる。

<1.自分の内部からくる悩み>
◼︎自己中、ワガママから生まれる。
◼︎他者との比較(例. 収入・容姿・学歴・地位等)から生まれる。

→嫉妬心、虚栄心、不安感など(自己の内側)から生じる。
→これらは、自己を停滞・衰退させる。人間を幼稚にする。

結論)自己を思うと、自己を停滞させる。

<2.自分の外部からくる悩み>
◼︎人間関係・仕事・生活等の環境や状況から生まれる。

→他者からの期待、信頼などから生じる。
→これらは、他者が己に与える試練。人間を成熟させ大きくする。

結論)自己を忘れると、自己を成長させる。

私たちが接する情報は、自分の内側からくる悩みを奨励しているものも多い。
が、自己の内側からくる悩みは、悩むに値しないと言いたい。
自分の事ばかり考えるな。そんなことより、相手を喜ばせることも考えろ。

自己の外側から来る悩みと共に生き、悩みの克服を楽しみの一つとして捉える。
→応対と挑戦。

…そうは言っても、克服は簡単なものじゃない!!
自分の内部から来る悩みが、外部からの悩みを連れてきたりして、2つの悩みは繋がっていることも多い。

そして、内部からの悩みに直結する己の卑怯・臆病・怠惰という弱い心は最強の敵でもある。

しかし、負けっぱなしでは人生の醍醐味は味わえない。
身近で大切な人も、社会も、歴史も、「前を向いて、強く豊かに楽しく生きてくれ!」と背中を押し続けてくれている。
先人たちの声が聞こえてくるようだ。
「やせ我慢のできない男じゃ、話にならない。そろそろ男を見せてくれよ」と。

克服への一歩は「ヘタレな言葉と飲食を慎む」こと。
自省して進みたい。






第153話 ◇ モテる条件(2)••••••
先日、女にモテる男の4つの条件(第146話 参照)を話したところ、男にモテる女の条件も開示しなければダメだろ、と、顧問からお叱りを受けた。

→「男にモテる女の条件」 結論から言うと「分かりません」。
以上。

以下、戯言として…。

◼︎女は「男に甘えたい・男を試したい」生き物。
◼︎男は「女に認めてもらいたい・女を支配したい」生き物。
を前提とすると、

→雰囲気があたたかい、明るい、清潔、頭の回転が速い(臨機応変)、不精ではない…等一般的に言われる条件は当たり前として、「男女論」にならないように「条件」をあえて言うとすれば、、、

<男にモテる女>
・口が固い女
・話し上手、聞き上手
・小悪魔(女の誘惑を楽しめる度量が男になければNG)
・要領が良く、そつない女(実力あるが、出しゃばらない→求められれば人にアドバイスもできる)

…以下は、不用意に女の敵をつくるけど…。
<モテない女>
・干渉しすぎる女
・箸の持ち方が下手な女
・口が汚い女(言葉、食べ方)
・軽い女(言っていい事と悪い事の区別がつかない女、感情的・短気な女)
・雑な女(仕草・立居振舞・雰囲気)
・自分の半径3m以内のことにしか興味ない女(化粧、エステ、食事、服等)

→漢Camp〜「漢(おとこ)とは!!」
に続く。






第152話 ◇ 風の中に掲げる旗••••••
私達は「共栄」という旗を掲げる。

しかし、ミサイルを売りながら平和を訴える国もあり、聖書の言葉を引用する悪魔もいて、「共存」するが「共栄」できない連中は確かにいる。
もっとも、論語にもあるように「共に権(はか)ることのできる連中は少ない」ことを考えれば、それは当たり前なのだが。

共存のために、ギリギリの中立地帯で「連絡会」を持ち、情報を交換し共有する。それは「共栄会」等と呼んだりする。笑
もちろん共栄などという気持ちなどさらさらなく、それぞれの存在・利益のため。

今回の法話は嫌な話だろうか?

私達は「共栄」という旗を掲げる。

しかし、正反対の主義を掲げる連中もいる。主義・思想では世界は動かない。
その立場からの正義(主義)よりも、「己の利益と、相互の信頼」が大切だったりする。どんな主義を掲げようが関係ない。
そして、主義も信頼も利益も無くたって地球は回る。皆に明日はやって来る。

自分たちにとって居心地の良いぬるま湯に浸っていると、すぐに風邪をひく。甘い場所にいると、心の奥にまで脂肪がつく。

正しいとは、正義かどうかではない。どんな立場にも理や義はある。
正しいとは、それぞれの立場の「口実」として正しいかどうか。そのような場所で遵奉できるものは、自分を守り、処していくことのできる「力」だけ…。それは哀しいかもしれないが、感傷に浸ってばかりもいられない。

私達は「共栄」という旗を掲げる。
世の中は創造変化だ。「今をどう変えていくか」が大切だ…。

しかし、それだって一つの考えに過ぎない。正反対の考えや価値も沢山あり、それぞれに理がある。
それぞれの立場から、
「認め合おう」と言って、相互の理解を求め歩みよる人達もいる。
「認め合おう」と言って、相手の油断を誘い、抹殺の機会を虎視眈々と狙っている人達もいる。
「認め合おう」と言って、相手の存在を無視する人達もいる。

どんな主義であっても、そこから自分の世界が構築される。しかし、全く別の世界も「共存」している。
弱肉強食、栄枯盛衰、権謀術策が渦巻く世界でも、同時に人は真善美を求める生き物。

そんな世の中でも楽しんでいきたいもの。

人間は肚を据えると落着く。落着くと物事がハッキリ見えてくる。そして、覚悟が真剣であればあるほど、人としての温かみ…つまり、情味も出てくるところが面白い。

そうは言っても十人十色。情味のカケラも無い人もいる。笑

目的と覚悟は同義。覚悟のある人は、意外と温かい。そして冷たい。

流されない。今を生きる。共に生きる。

私達は「共存」ではなく、「共栄」という旗を掲げる…。
時代という風の中で、皆はどんな旗を掲げているだろう?






第151話 ◇ 言葉にしない••••••
道場法話…言葉にしない 「おはようございます」。

相手の今朝の挨拶は、いつもと何か違う
表情や立居振舞いが、何か違う
どこか庇うような…
少し具合が悪いのかもしれない
でもそれを隠して気丈に振舞おうとしてる
その態度と自尊心を尊重する
でも、相手に気付かれないようにフォローはしたいもの

夜、1日乗り切って共にグラスを傾ける
アイコンタクトで、お互いに労(ねぎら)い合う

その後…。

言葉はほとんど交わしていないが、コミュニケーションは十分。
非言語コミュニケーションの機微と深み。

根底には観察力、洞察力、敬意、信頼。

親しくなると、言葉よりもアイコンタクトでのコミュニケーションが圧倒的に多くなる。その方がお互いに理解し合えることもある。

日本は察しと思いやりの文化だと聞いたのは、いつの日だったか。

言葉に引っ張られると、間違える。
「言いたいことは、全部言葉にしてくれ…」などと、単一的一方的なコミュニケーションは遠慮したい。

言葉にできないことがある。言葉にしてはいけないことがある。
一番大切なことは、胸にしまっておく。言葉にしたら軽くなってしまうこともある。

個性さえ乗り越えて、澄み切った、軽やかな世界に至りたい。






第150話 ◇ 易経••••••
「易経」とは、千変万化に創造化成していく人間の営みの原理原則を明らかにしたもの。
仕事、稽古、日常、趣味、恋愛…、如何様(いかよう)にも当てはめられる。

易経を学んで、まず身につく考え方が2つある。
①応対と挑戦 「どう応対して状況に順応していくか、どう挑戦して状況を克服し、新たな状況を作り出していくか」。

易経の言葉では、 ◼︎「窮すれば則(すなわ)ち変じ、変じれば則(すなわ)ち通じ、通じれば則ち久し」
…1) 行き詰まってどうにもならなくなると、何かを変えざるを得なくなる。何かを変えれば自(おの)ずと道は通じ、通じれば久しく繁栄していく。
…2) 窮(きわ・極)めれば、そこではじめて変化が生まれ、変化するまで極めれば新たな道に通じていく。通じれば久しく繁栄していく。

②創造化成 どのような変化もそこに繋がりを見出し、また別の変化へと進化発展させることができる。驕ることなく、行き詰まることもない。

易経の言葉では、
◼︎「天行は健(けん)なり。君子以て自彊(じきょう)して息(や)まず」 …天の運行は、止むことなく進行して(健)、その徳を受けた人間(君子)は、自ら修養努力(自彊)して息(や)すむことがない。
◼︎「地勢は坤(こん)なり。君子以て徳を厚くし、物を載(の)す」 …大地のエネルギーは、造化に順(したが)う。その徳を受けた人間(君子)は、造化の働きを受け継ぎ、無限に物を包容して、生成化育を遂げてゆく。


易経の64卦の繋がりや変化を学んでいくことで、他への応用に際しても、驕ることなく、行き詰まることなく、主体的創造性を持って応対と挑戦を重ねていける。

易学とは、不変の法則を学ぶだけでなく、どこまでも新たに創造化成していくこと。
いかに変わらないかではなく、自分の存在・活動・運命をいかに変え、創造していくかという実践の学問。

従って、私たちの人生は、すべて事実に支配されるものではなく、主体的な創造化成・変化である。いかに避けるか、逃れるかではなく、いかに変えていくか、創造していくかである。

主体的な創造変化を、「易経」(頭)と「稽古」(体)双方から会得したい。






第149話 ◇ 何を始めたか。••••••
「人、その生の終わりに到らんことを恐るるなかれ。むしろ、いまだかつて始を持たずして終わらんことを恐れよ」(ニューマン)。

人間は、死ぬこと(終わり)を心配するな。それより、いまだかつて始めらしいことを持ったことがないことを恐れよ。

男として良心が頷(うなず)くようなこと、何を成し、何を残し、何を引き渡してきたか。


納得できることは、
まだ何もしていない。…かもしれない。





第148話 ◇ 熱帯夜に情味••••••
今夜は暑い。こんな夜の稽古は、一献傾けながら明日への英気を養いたい。
(以下、4月の会報より)

「花は開落を憐れみ、月は盈虚(えいきょ)
乾坤(けんこん)を収拾して、酒壺に入る 清夜一燈 書万巻、坐して天下を知る
是れ真娯」 坂本葵園(きえん)

訳)花は開いたり落ちたり、月は盈(み)ちたり虚(か)けたりするからいい。その折々に一献傾けながら、徳利に乾坤(天地)を収拾する。
しかし、ただ酔っ払ってそのまま寝てしまったのでは深みに欠ける。
そこで、清夜に一燈を灯し、古の書万巻に游(あそ)び、坐しながら天下(人間の営み)を知る。
そんな風に、楽しみの上にまた游(あそ)べることが、男の真の楽しみではないか。

呑むなら、美しい人と一緒に。それは、強くて知的で情味のある人。例えばマーガレット・サッチャーのような…。
イギリスの威信をかけて、彼女がどのようにフォークランド紛争を戦い抜いたか、杯を傾けながら語り合ってみたいもの。

雲が隠すは、月のため
  風が散らすは、花のため
   月に叢雲(むらくも)、花に風
    雲や風があるからこそ、
     月や花は美しい

え?訳がないと理解できない?笑わせるな。遊びだよ、遊び。笑

遊びじゃない事が世の中にあったか??
少しは楽しんでみろ。笑





第147話 ◇ なぜ勉強する?••••••
「仁」とは違う視点から、勉強嫌いの中・高生に話す。嫌いなら好きになれとは言えない。嫌いなら、「嫌い」をいかに自分に活かすかを考える。

「なぜ、嫌でつまらない科目の勉強をするのか?」
それは、私たちの忍耐力や実行力を鍛えるため。

毎日、楽しいことばかり起こるわけじゃない。嫌なこと、苦しいこと、悲しいことも多い。それらは克服すべき事も多く、逃げてばかりいては、人生の醍醐味が味わえなくなる。

やるべきことはマシーンのように平然と継続し、やると決めたからには、なんとしてもやりきる忍耐力や実行力を養う。
…高校までの勉強や受験勉強は、そういう忍耐力や実行力、自分との約束を守るためのいい訓練にもなる。 科目が好きになれないなら、そんな風に気持ちを切り替えてみる。

それに…「始めたものなら、必ず終わる」のだ。

苦しい方を選択するからこそ、だんだんいろんなことが楽になり、余裕も出て来る。
また、やるべきことなら、出来るだけ積極的に取り組んだ方が楽しめることが多いもの。何事も、心のどこかで喜べる気持ちが必要だ。
積極的に取り組めば、自分で「自分の勉強の仕方」を見つけることもできるようになる(第145話◇道場法話はスマホにメモ~学びは楽しく厳しく 参照)。

さて、勉強には頭を使う。暗記も必要だが、それだけじゃ寂しい。
どのように「考える」か。
1. 短期的に考える⇆長期的に考える。
2. 一面的に考える⇆多面的に考える。
3. 表面的に考える⇆根本的に考える。
それぞれの考え方で、答えは正反対になる事も多い。

集中力、記憶力、忍耐力、実行力…いろいろ鍛えることも必要になる。
そのうち機会を見つけて、私達の方法を紹介させてもらう。

自分を鍛えるのは、「自分との約束」を守っていくため、「相手の予想を勝手に上回るため」。

男の本筋は、自分・周囲・社会を扶(たす)けていくことにある。女の本筋は、自分・周囲・社会を美しくしていくことにある。
力を養わなきゃ、助けられてばかり…。そのうち、社会にとってのハンディキャップという存在になる。それじゃ、自尊心が許さないだろ。笑

テーブルの上に置いた湯呑みを指して
国語…「ミッキーの湯呑みに入ったお~いお茶」。
算数…「200ccの湯呑みに約4割…80cc位入っているいるお茶」。
理科…「少し酸化して色が濃くなったお茶」
地理…「日本産と見せかけて、実は中国産の湯呑みに入った、島根か奈良県産のお茶」。
英語…「This is a cup of japanese tea, on the table.」
生理…「喉が渇いてたら…もっと飲みたいのに少ないお茶だな。足りないよ」等。

色々な視点が持てる。

多様な視点や価値観は、他人への理解・寛容へも向かう。また、心の躍動の自由度が増す。

思考も身体も、柔らかさは強さの基本だ。凝り固まった考え方(一面的に考える)は損だ。 損する事も時には必要だが、損ばかりする必要はない。どちらも選択できる力を養いたい。





第146話 ◇ マメ・押し・金・顔••••••
男が女にモテる条件とは? そもそも女は「男に甘えたい」し、「男の器量を試す」生き物だ…と言ってしまいたい。
このブログは「文句のある人は黙ってろ」というスタンスなので、色々思うところのある門下生もいるだろうが、悪く思わないでほしい。

さて、話は「義」から始まる。
私達の「義」とは、「卑怯・臆病・怠惰な振舞いを自ら禁じ、道理に従って自らを処遇する精神」であり、「人が人として気高く生きることの美しさ」と定義する。

それを踏まえた上で、女にモテる条件は
「マメ・押し・金・顔」。

・臆病を克服すれば「押し(積極性)」が出てくるだろう。

・怠惰を克服すれば「マメ(観察力と応対)」になれるだろう。

・「金(財力)」は社会にコミットしていればついてくる。臆病の克服(積極性)とも関係する。ま、卑怯な男でも金は作れる。笑

・「顔」、顔立ちは親からもらったものだから不公平なものだが、整形もある。 顔つきは本人の生き方が刻まれてくる。顔は今までの生き方の結果だ。

…ということは、この道場で稽古していてモテないわけないじゃないか。ま、女を見極める目は必要だけど。
「女にモテるには?」などという話題で話している男は、義を貫けないつまらない奴だという証明でしかない…。

マメ・押し・金・顔…。俺は、余裕(ユーモア・優雅さ)を付け足したい。

この道場に出入りする男はモテる奴が多い。
モテないのは…毎年こんな事話してる俺だけだ…。泣 笑





第145話 ◇ 道場法話はスマホにメモ〜学びは楽しく厳しく••••••
◼︎会報/道場法話
・幾つかの「道場法話」を、スマホのメモ帳にメモしておく。
・考えるのは、外を歩きながら。
・考えるのは、短期的⇄長期的、片面的⇄多面的、表面的⇄根源的。
・アイディアは、音声入力か手書き。

◼︎技術
・数と時間をかける…基本は3万回、一流は1万時間。
・失敗を繰り返して(何かを犠牲にして)、一つのものを掴む。

◼︎知識
※知る…とは、結局「人間を知る」ことだと思う。
だから、知識が増える事で理屈っぽくなったり、話がつまらなかったり、考え方が極端になったり…、つまり、面白くない人間になっていくのは、そもそも学問への取り組み方が間違っている。

学問に取り組む事で、明るく、あたたかく、大きく、深く。情味豊かで、潤いのある、社会に役立つ人間になっていくのが本筋。

・五感も第六感も、全部使う。
→本を読んで。人から話を聞いて。一緒にやってみて。どんな感覚だったか記録して。次の課題を見つけて。まとめて。写真を撮って。味わって。嗅ぎ分けて。触れて。使って。聴いて。観察して。人に話して。いろんなことを結びつけて…。
・30分1コマで勉強する時もあるし、1日18時間2週間で1コマの時もある。

→皆、目的もやり方は違うだろう。でも、本筋は忘れずにいたい。

学び方は学生時代にも色々試してみた。気付いた事は、できる人達のやり方は「みんな違う」ということ。

「自分で自分のやり方を見つける」ことが必要なのかもしれない。

→「自分のやり方」を持っていると、学びは面白く厳しく楽しめる。





第144話 ◇ 始まりと終わり••••••
◼︎書道…
・硯で墨をすっている時の穏やかさ。
・筆を手にした時の緊張感。
・和紙が墨を吸い込んで見せる、文字の千変万化。
・変化の中にある不変の性質や流れを探求し、それに基づきながら意識的に変化に参じていく。
・我欲から離れ、無心になって、夢中の世界に漂う。
・反省、後始末。始めれば終わり、終われば始まる。次の準備へと循環させる。

◼︎稽古…
・座禅、準備運動、柔軟時の心身の穏やかさ。
・お互いに構えた時に走る緊張感。
・お互いの攻撃・受け・反撃で見せる間合いやタイミングの千変万化。
・変化の中にある不変の性質や流れを探求し、変化の原則に従って自ら変化していく。
・主観を離れて無私無欲になり、夢中の世界に漂う。
・稽古を全うし、次の準備へと循環させる。

◼︎仕事…
・実行計画(整え)→
・準備(緊張)→
・展開(変化・不変)→
・後始末(終わりを全うし、次の準備へと循環させる)。

◼︎時候や季節
・1月、2月、3月…。
・春夏秋冬春夏秋冬…。
・不変の性質に基づき、次へと変化
・循環していく。
・1年が終わり、新たな1年が始まる。

始まりと終わり、同じかもしれない。





第143話 ◇ 全(まっと)うする••••••
友人、仲間、同志…人々は集まるし、集めなければならない。
進歩は独力ではなかなか上手くいかない。新たな力と力の結合が必要だ。

新しく結びつけば、それを「いかに全うするか」を意識すべきだ。

→人と人との結びつきは、誠・自然・永続、そして、終わりを全うできるものを目指したい。
一期一会の心は「誠」。 ウマが合う、相性がいいのは「自然」。
結婚や事業は「永続」。

…しかし、往々にして、私利私欲や政略的な結びつき、一時的な享楽を求める結びつきを求めたりする…。

日常生活・稽古・仕事・勉強…始めたものなら必ず終わる。すべての結びつきについて節度を持ち、終わりを全うしたい。

世の中は、物事をいかに全うするか、ケジメや後始末の見事さを、男に期待している。





第142話 ◇ 星に砂つぶ••••••
小学校2年生の時。登校時、6年生の副班長Oさんは、ランドセルではなく中学生が使う白いカバンだった。その白いカバンの中を、1年生の友達Rと漁(あさ)り…バキッと音がしたと思ったら、三角定規が折れてしまっていた。

ヘタレな俺は顔面蒼白…。
本来なら1年生のRを庇わなければならないのに、「Rがやったんだ!」と責任逃れしようと大騒ぎ。Rも「僕じゃなぃよ!」と、ビビりながら声を上げて、お互いに責任のなすりつけ合い。

Oさんは私達2人の顔を見て一言。
「あ、これ最初から割れてたんだ。お前達、ケガしてねぇか?」。俺たちの手を見て怪我のないのを確認すると、何事も無かったように歩き始めた。それだけ。

…こんなに気まずい登校は無かった。自分の振舞いが情けなくて情けなくて情けなくて、その日は1日中泣いていた。

俺がOさんとRに詫びを入れたのは、翌々日になってから。
Oさんは俺に言った。
「逃げたら男じゃねぇよ」。

堪(こら)えきれなくて、また大泣きした。

6年生はデッカいなぁ…と思った、ヘタレな昔話。





第141話 ◇ 本筋はどこへ行った?••••••
「梅干しは食べられない」と、相手に意思表示した男の未熟さ。
皆、大の男の「好き嫌い」を聞きたいわけじゃない。

「自分の意思を示して何が悪い?」と思うなら、そのメンタリティはまだ子供であって男ではない。無邪気(利己)で可愛いが、仁(自己犠牲)が足りない。その振舞いが通用するのは、周囲が寛大で忍耐強いから。

ここで言っている子供とは、自分可愛さのあまり、相手に恥をかかせないという配慮や、やせ我慢に欠けた男のことだ。

そもそも、男の本筋は何か。
「男の本筋」は、力を養い、それを鍛え続けながらも威張ることなく、無心で周囲・世の中を扶け、進歩発展させていくことにある。
「女の本筋」は、そういう男の影響を受け取り、心身や周囲を清潔に美しくして調和を生み出し、万物を生成化育していくことにある。

冒頭のあの言い方は、100歩譲っても「俺が一番可愛い」という子供のメンタリティが見え隠れする。本意が全く別のところにあったとしても。

もちろん、余裕のある時はそんな応対はしないだろう。
しかし、自分に都合が悪い時、余裕がない時の「応対」や「挑戦」に、男の器量は出てしまうもの。

強者に負かされた弱者は、犠牲者のふりをすることがある。
しかし皮肉なことに、弱者もまた、その弱さで周囲を苦しませながら生きている。周囲の犠牲の上に生きている。 …子供はそこに気付かないことが多い。

自分可愛さのあまり、本筋を忘れてもらっては困る。強くあれ。優しくあれ。





道場法話 2016年度 6月

第140話 ◇ 稽古に助力••••••
◼︎出発点から進む少しの差によって、行き着く場所は大きく変わっていく。大事なのは終盤の計算し尽くされた腕力ではなく、正確で丁寧な序盤。
◼︎放ったらかしで強くなることはない。強くなるには継続した鍛錬しかない。だから容易ではない。しかし、堕落するのは簡単。
◼︎戦いで大切なのは体の大きさよりも、腹の中にある闘志の大きさ、負けじ魂。
◼︎自分に臆病・卑怯・怠惰な心があるうちは、勝てない。
◼︎勝負の世界は真っ白な世界。没我になっている。しかし、勝負には決着がつく。そこに勝因は無くても、敗因は必ずある。
◼︎観察力を磨く。自分には見えなくて、相手に見えている兆しは何か…を考える。

◼︎どんな状況でも、ひとりで立ち上がりひとりで戦いの場に向かわなければ、求めるものに手は届かない。
◼︎自分の損得ばかりを求め、施された優しさに気付かない愚かな男になるな。
◼︎しんどいことも、慣れてしまえばどうってことない。目線を上げて、理性で欲望をコントロールしろ。

◼︎世の中は弱者に同情はする。しかし、味方にはならない。他人を守れる強い人、優しい人ばかりではない。守りたくともその選択ができないこともある。結局、弱い者は見捨てられることが多い。だから、強くあれ。
◼︎合理的、論理的な見方には、弱者切捨ての思考が見える。
◼︎誰にも言えない悔しさ悲しさ怒りは、誰にでもある。
◼︎軽々しく人を評価するようなことは言ってはいけない。
◼︎もっともっと辛い思いをして闘ってる奴がいる。へこたれるわけにはいかない。

◼︎「お前は何て強いんだ!」そういう相手に会う時が来る。

◼︎人生は人のために生きる。それが命であり責任。果たせないのなら、勝負の舞台から降りなさい。



第139話 ◇ 笑い••••••
笑顔には笑顔で返したくなるのが人情だ。

少し考えてみたい。お笑いのプロと言われる吉本興業や、芸人さん達は、なぜ人を笑わせようとするのだろう?
私たちは、他の人々、動物、自然に笑いをふりまかなければならない、と言ってしまおう。
困難に遭った時、気持ちが暗くなる人も少なくない。その時、顔を上げて明るく笑って、新たな力を蘇らせるために、笑いは効果的。

接客業では「笑顔の素敵な人は、人間として相応しい」とも言われる。

しかし、自分ひとり笑っても、笑顔でいても、周囲が笑えなければ価値は半減する。その場限りの笑いは虚しいだけだ。

それよりも、自然と微笑み合える社会を作っていく方が大切だろう。
自分が笑っているだけ、人を笑わせるだけでは、もはや足りない。

笑いの本質とは何だろう?
バナナの皮で滑って転ぶ。笑えるが、滑った本人からすれば、恥ずかしいし、怪我したかもしれない。情けない。悲しい…。それをデフォルメして演じて笑いを取る。チャップリンはそうした。悲しみは世界共通だ。だから、チャップリンの笑いは世界中どこでも通用する。
笑いの本質とは、悲しさだ。
悲しいから優しくなれる。

悲しさを知って、野望に挑みたい。
事業に邁進したい。
稽古に励みたい。



第138話 ◇ 成長とは限定(1)••••••
一つの働きは、外に現れ、分化発展していく。そして、物事は相対し応じ合うことで発展する。
従って、双方向ではなく、「外へ外へ」という一方通行の働きだけでは破綻する。それは「根源から遠ざかる力」だけを意味するからだ。

例えば、学校を卒業して会社員になる。それは、会社員という役割に人間を限定していくことだ。課長、部長、専務…どんどん限定していく。その意味で、成長とは限定である。

可能性の種子たる子供は、知育、徳育、体育、芸術…様々な要素を持つ。
哲学、文学、芸術、生物、スポーツ、科学、数学…どんなものにも憧れ、感激していたのに、成長して大人になるにつれ、感受性は失われていく(限定されていく)。極端になると、株価と金勘定以外は無感覚になっていく。

勿論、専門という「限定」を極めることで、「万事に通じる」ようになるであろう。何かの専門になることは、とても意義あることだ。
しかし、「限定」されることに違いはない。「全きもの」という根源からは、どんどん遠ざかってしまう。遠ざかれば、それだけ力は小さくなる。

成長とは限定であり、根源から離れる分だけエネルギーも小さくなることは避けられない。
つまり、成長だけを追い求めれば、シュペングラーが「西洋の没落」で言ったように、あらゆる文化は成長→成熟→衰退という段階を経て死滅する。
しかし、成長を求める向上心や尊厳は、死滅するためだったというのでは、身も蓋もない…。

極まりなく、無限に造化(創造化成)の働きを体現していく…方法はないのだろうか???
→(2)へ続く。



第137話 ◇ 退屈に耐えられるか••••••
中国清代末期の軍人・政治家に、曽国藩(そうこくはん)という人物がいた。
彼が遺してくれた「四耐四不訣」と言う言葉の前半(四耐)を、私達の忍耐力を鍛える契機として活用したい。

<四耐四不訣>…「冷に耐え、苦に耐え、煩(はん)に耐え、閑(かん)に耐え、激せず、躁(さわ)がず、競わず、随(したが)わず、以て事を成すべし」。
→事を成すために、耐えるべき事、してはいけない事をそれぞれ4つ述べたもの。

1.冷たさ、冷遇等、冷ややかなる事に耐える。
2.苦しい事に耐える
3.煩わしい事に耐える
4.閑(退屈)に耐える。

これらのうち、特に「4.閑(退屈)に耐える」ことができるかどうかで、その忍耐力がホンモノかどうか分かる。
忍耐力があるとは、そもそも、誰もが耐えられることに耐えられる力ではない。それは普通ことこでしかない。忍耐力とは、誰もが耐えられないことに耐えられる力だ。

小さな成功に満足してしまうなら(耐えられないなら)、より大きな成功は望めない。大きな成功を阻害する要因の筆頭は、小さな成功だ。そこに満足することなく(小さな成功に耐えて)、歩みを進めなくては高みに届かない。

4.閑(退屈)に耐える… 私達は、忙しい時は暇が欲しいと言う。しかし、南の島へのバカンスだって2週間が限界じゃないだろうか?

最初の3つの忍耐である「冷ややかなること」「苦しいこと」「煩わしいこと」は、外側に対象がり、相手がある問題。
冷・苦・煩にどう応対していくかは、おのずと道が見える。しかし、閑に耐えると言うのは進む方向がなくなる事態。

そこでは、自分の内面と向き合うことになる。最大最強の敵は己自身であることを、嫌というほど思い知らされる。

「小人閑居して不善をなす」と言う。これは、自分の退屈を満たすものが外側にしかないことを示している。

閑によく耐え、応対し、活かしたい。



第136話 ◇ 弱い心を放置しておくと••••••
「山月記」(中島敦)より。 虎になってしまった主人公、李微(りちょう)にとって克服すべき弱き心とは、自分を縛る「臆病な自尊心」だった。

袁傪(えんさん)は虎になってしまった李微(りちょう)から話を聞く。「…こんな運命になった原因は、詩人として名を成そうとしながら、すすんで師についたり詩友と切磋琢磨しなかった自分の臆病な自尊心と、尊大な羞恥心だと思う。私は山にこもり、人から遠ざかることで、この「臆病な自尊心」を肥らせ続け、ついには自身が「臆病な自尊心」という虎になってしまった…」。

李微(りちょう)の言うように、人間は誰でも自分の臆病・卑怯・怠惰な心という猛獣を飼い慣らす猛獣使いだろう。しかし逆に、その猛獣に支配される人も多い。

猛獣に支配されると、才能を空費して、小さく小さく生きるしかなくなる。

自分の才能や天分を抑えているのは、自分の弱い心。でも、その弱い心が…最強最大の敵。自分のことはなかなか客観視できない。友人や師にアドバイスを求め、新しい出会いや習慣、新たな体験をキッカケとした、覚悟と努力で、弱い心を克服したい。

一流になるには、才能より大切なものが沢山ある。自分を変える勇気、継続的努力の習慣と切磋琢磨、創意工夫、他者への敬意と感謝、余裕…。才能の無さや環境を嘆く前に、飼い慣らすべき猛獣に支配されていないか確認したい。

弱い心を放置すると、弱さに支配される。弱さという怪物に支配されていないか。勇気はあるか。戦う武器は持っているか。



第135話 ◇ 兆し(きざ)を見つける••••••
稽古において、乱捕りの得意不得意の違いはどこから生まれるか考えてみたい。それぞれ観えているものが違うのは明らかだ。

乱捕りのポイントとして挙げているのは、以下の5つ。
1. 兆しを見つける観察力
2. 出足のタイミングの早さ
3. 間合い(位置取り)の正確さ
4. 時流に応対する
5. 時に中(あた)る

※今回は、「1. 兆しを見つける観察力」について。

森羅万象の千変万化。あらゆる物事は変化していく。そして、その変化には一定のルール(法則)がある。法則の幾つかは分かっているし、それは明らかなもの。人事を超えた神秘的なものであり、限りなく極まりないもの。
私達はそういった自然のルールに順応し、また活用して、自分や社会を治めていく。

大きなリズムから、その転換点の兆しとは何かを考えてみたい。

例)四季における春の兆しについて。
・体感気温… 「春になってきたなぁ」と言われるのは、体感温度が冬とは違って「あたたかくなってきた」というのが、分かりやすいが、暖かくなってきたから春の準備をするのでは、ちょっと遅い。気温よりもっと前に兆しをを見ることができる。
→<二十四節気>
・春分の日(3/20-21)
・啓蟄(3/5-6)
・雨水(2/18-19)
・立春(2/4-5)
・冬至(12/22-23)一年のうち最も昼(日の出~日の入り)の時間が短い。

→自然の動植物が春の兆しを感じて、春に向けて準備をするのは、おそらく私達より優れていて、また早い。

→社会の変化に応対するために、その「兆し」を何に観る?
株価に?天気に?歴史に?星に?学問に?テレビに?元気な人に???

丁寧な観察力に長けてくると、様々なレベルの「兆し」が感じられ、
→「2. 出足のタイミングの早さ」に繋がる。


第134話 ◇ そんなことより!••••••
辛いのは俺なりに分かるよ。不平不満も聞かせてもらった。しんどいことはこちらから求めなくても、沢山やってくる。自分から悲しいことばかり探す必要はない。

世の中の「造化(創造化成)」の働きは、止まないもの。今をどう創造変化させていくかに、毎日の醍醐味がある。
何を話してくれてもいいけれど、ホントに聞きたいことは、不平不満よりも、造化の働きをどう活用して自分を創造変化(化成)させていくか。
そのための挑戦と応対、掲げている目標・期限・計画、そこから垣間見える情熱が見たい。

それでもまだ過去を気にしてる、臆病な言い訳をしてる…

…そんなことより、やり直そう!
…そんなことより、顔を上げて前を向いて歩こう!
…そんなことより、リスクと共に挑戦しよう!
…そんなことより、泣いてる奴がいたら、庇ってやろう。
…そんなことより、胸を張ろう!
…そんなことより、元気溌剌でいこう!
…そんなことより、幸せになろう!

私達も社会も移り変わっていく。
私達のグループの綱領の一つである「順応同化」。周囲の変化を受け入れ、勇気を持って自分を変化(成長)させていくことは、期待ではなく義務だ。

ゆっくり大きく息を吸って、止めて!
そんな風に胸を張って堂々と生きよう。



第133話 ◇ 本筋は何か••••••
結婚式に招かれ、会場を歩き回りながらスピーチ。新郎新婦、そして皆さんお幸せに。

さて、新郎と新婦。夫婦の本筋とは何か…。

・新郎→「郎」という字は、もともと「良」という字。「良」とは、「畐」と「亡」を組み合わせた字。「畐」は財物。
→つまり、男は財産・地位・名誉・知識等の力を持たなければならない。それでいて、何も無い(亡)かのように、無心(利己的でない)で威張らないのが「良」。それが新郎の本筋。

・新婦→「婦」は、「女」(おんなへん)に「帚」(ほうき)。これは、ただ掃除する人では勿論なく、「帚」は「清潔さ」の象徴。
女性の一番の美徳は清潔であることを示す。心・身体・立居振舞・家庭・社会…一切を浄化して美しくしていく。それが新婦の本筋。

夫婦
「婦」は清潔、美しさ。「夫」は「扶(たす)ける」。家族・地域・社会…を扶けていくのが夫。
夫を良人(おっと)と書くのは、「力を持っているがそれを誇ったり威張ったりせず、その力で社会を扶けていく」。そういう人を女性は夫に選ぶという道徳を示したもの。

…このように言うのは、男女差別だという人もいる。
私は別の考えを持っている。物事とは、同質のものではなく、異なるものが相対し相応じながら千変万化して、一段上へと発展するもの(陰陽中)。
ただ、その千変万化は、私の予想を遥かに超える。

そもそも人間は、造化(創造化成)の働きに従って、運命を自ら作り出し、築き上げていくことが本筋。
易経にもあるように、「天行は健なり。君子は以て自彊して息まず(天地の運行が健やかであるように、君子も自ら努め励み、怠ることはない)」。

この社会の千変万化の営みの中にあって「成長・共栄・調和」という方向性を見失わないために、「本筋は何か」ということ確認したい。


第132話 ◇ 死後の世界••••••
ここで言う「死後の世界」とは、自分が死んだらどんな世界へ行くのかと、「死んだ後も自分のこと考えているのかよ!」とツッコミたくなるような利己主義からくる「あの世」ではなく、自分が死んだ後に、家族や友人たちが生きる「この世」のことを言う。

私達ひとりひとりは、絶対的な存在である。と同時に、与謝野晶子が歌っているように、自分を尽くすことによって、自分、社会、そして後世(死後の世界)のために、社会に衣食住しながら各々の殿堂(業界)を通して社会全体の進運を扶(たす)けている存在(位育参賛)でもある。

→「劫初(ごうしょ)より、造り営む殿堂に、われも黄金(こがね)の釘(くぎ)一つ打つ」与謝野晶子 (世の初めから、営々と人々が築き上げてきた文学の殿堂に、自分も釘一本でも打ち込み、その殿堂の営みに貢献したい。できるなら、それはただの釘ではなく、黄金の釘でありたい)。

力は、ただの腕力や知力では小さい。功力→徳力→道力となるに従って大きくなる。力は、腕力から外交力・教育力・防衛力へと育てながら、それぞれの殿堂へ貢献してゆきたい。

さて、まずは腕力から。 腕立て伏せ30分、2,000回。準備、始め!



第131話 ◇ 結果を求める••••••
稽古には、主体性と切磋琢磨が大切。 私達の綱領に「自力主体」がある。誰かが何とかしてくれるなどと、いつまでも上向いて口開けて、エサを要求するヒナみたいな態度じゃ情けない。
綱領の中には、「力闘向上」「切磋琢磨」もある。
今夜は、お互いの「切磋琢磨」においては、相手に「求める」ことも大切にしたい…という話。

もし、相手に何も求めないなら、結果を問わないということになる。
しかし、結果を問わないというなら、多くの行為が放縦になる可能性がある。

信頼関係の構築とは、相手に対する誠実な態度だけでは深化しない。自分を信頼してくれる人の期待に応える必要がある。結果を出す必要があるのだ。

事業活動も然り。結果を出すことが社会から期待されている。その期待に応えていく中で、我々は社会からの感謝(金)を受け取り、儲けることができる。
社会とともに成長・共栄・調和を図り、結果を要求し合うことで、信頼関係を構築し、またそれ(結果)が、社会を円滑に動かす力になる。

話を個人に戻す。人は誰でも他から何かをもらい、何かを他に与えて生きている。もし、「あなたはもらうだけでいいんだよ」と言われて嬉しいと言うなら、その人は恩義も自尊心も自覚していない。「誰の役にも立たなくていい」と言われてるのと同じなのだ。

相手の存在に価値を認め、自分に価値を求めるなら、道理に基づいた「結果」を、自分にも相手にも堂々と求めていい。



第130話 ◇ 腹一杯食べるのは幼稚だ••••••
以前、紅茶好きの友人の話をした(第31話)。ドイツ人の彼は「もしも、大好きな紅茶を毎日飲んでいたら、それが当たり前になって紅茶に感激しなくなってしまう。だから、大好きな紅茶は、毎日飲めるけれども、週に一回しか飲まないことに決めている」と、幸せそうに紅茶を飲みながら話してくれた。
節制を基本とした、彼の生活・人生のセンスは素晴らしいと思う。

会報にも載せたが、不摂生は飽食(あきるほど腹一杯食べること)へ繋がりやすく、しかも飽食は良いことのように思われている面がある。
反対に、節制すなわち少食といえば、貧乏かケチな人種の行為 のようにみなされている。それが大きな要因となり、多くの人が飽食を目指し、中年以降様々な病気を 抱えるようになる。 この国の毎年の医療費の増加を見てくれよ。

食における慎み(節制)は理性の賜物であり、多くの美徳がこれを基礎としている。 それは私たちの人生観に積極性を与え、行為に活力をもたらす源となりうる。
飲食 を慎む者は、鋭い五官、冴えた頭脳、丈夫な肉体、軽やかな挙動等に恵まれやすい。

経験上、節食は活力を生む。志を堅固なものにして頭脳も冴える。そのため、困難に直面したときも、それを乗り切る大きな力になる。

一口一口よく噛んで、腹三分~六分目。
眠くならないし、すぐに動ける。1日24時間では時間が足りない…と思っているなら、試してみろよ。

体の声と食欲は一致しているか?

食事の適量は、思っているよりもっと少ない。そんなに食べなくても大丈夫。

腹一杯食べるのは、幼稚だ。


第129話 ◇ 大切なこと、譲れないもの••••••
以前、父親の新車を運転中、居眠り運転でおカマを掘ってしまったことがある。事故処理後、父に電話をかけたとき、父は私と相手の身体のことを心配し、車の事は一切言わなかった。

論語10-17に、「厩(うまや)焚(や)けたり。…人を傷(そこ)なえりやと。馬を問わず」(家の馬小屋が火事で焼けた。…ケガした人はいなかったか、と言われただけで、馬のことを問われなかった」とある。

人道主義を唱えながら、家畜やモノを人間より愛するような、本末を転倒した人もいる。

さて、大事の決断とは、どちらを選んでも地獄だということが多い。 「盗人にも三分の理」と言われるように、どんな立場にも理はつくように、理屈で正しい判断ができる程、事は簡単ではない。

あのニュースを聞いた時、私はこう思った。まずは、3歳の男の子が無事でよかったじゃないか、と。
そして、ゴリラが死んだことは悲しい。冥福を祈る。と共に、動物園でも大切な人の手を離しちゃいけないと改めて思った。

大切なものは幾つかある。今、そのうちの何かを捨てろと言われたら、…何を残すだろう。ただ、譲れないものは、ある。

そして、他の人達も、譲れないものを持っているだろう。それは忘れない。
今夜の稽古も、お互いを尊重しながら切磋琢磨していきたい。



第128話 ◇ バラと桜••••••
バラは、優美さを持つ。華美な色彩と濃厚な香りを周りに漂わせる。
ただ、甘美さの陰にトゲを隠し、散るよりも枝についたまま朽ち果てるように命にしがみつく。

桜は、色の派手さを誇らず、淡い匂いは人を飽きさせない。
その装いの陰にトゲや毒を隠し持たす、自然のままに命を捨てる覚悟がある。

桜を贔屓(ひいき)してしまったけど、いろんな好みがある。いろんな見方がある。どちらもいい。

雲がかかるのは、月のため
風が散らすのは、桜のため
月に叢雲(むらくも)、花に風
雲や風があるからこそ、月や花は尊く美しい

強さだけじゃ、粗野になる。学問に努めても、理屈だけじゃ情味に欠ける。
強さにふさわしい温かさと余裕が欲しい。強くなって心が冷たくなるようじゃ、稽古の仕方が間違っている。
強さの根源は仁、そして悲しさかもしれないのだから、心は大きく明るく温かくなくちゃ。

拳を振り回すだけじゃ、力は仁に通じない。
強さは目的ではなく、前提だ。
目的は、仁や情味を体現しながら、あらゆることを成し遂げていくこと。粗野な男や、弱い男じゃ、…情けない。


第127話 ◇ それぞれの責任••••••
よく論語を引用するが、これは日常実践の教訓として、自分の責任を自覚するために使う。間違っても、自分の責任を回避するためではない。

一度きりの人生への態度は幾つかある。
◼︎自分の頭でものを考える。自分で出した答えには最後まで責任を持つ。
もしもそれが怖いなら、
◼︎誰かの操り人形で人生を過ごすか、他人が作ったレールを歩む。操り人形じゃ、充実感を味わうのは大変だけどね。

走り続けても、空を見上げてため息をついても、それぞれの人生。自分で生きると決めるのも、他人の敷いたレールを歩むと決めるのも、それ以外も、結局のところ自分で選択した、ひとりひとりの生き様だ、と考えたい。

今の生活にも責任がある。自分の人生、自分が納得できるように生きる。自分で自分の答えを出せば、後悔は存在しない。責任ある大人は、いつだってそう生きてきたし、これからもそう生きていく。

「ひとりじゃ寂しいから、誰かと一緒に…」というのもわかる。でも、完全に利害が一致する他人なんてどこにもいない。恋人でも親子でも兄弟でも親友でも。みな、ひとりひとり違う。しかし、それは孤独とは違う。

時は哀しくて優しい。そして、待ってはくれない。ひとりでも、皆と一緒でも、責任と共に生きたい。



第126話 ◇ 星に砂つぶ••••••
宇宙にある星の数はどれくらいなのか?

・太陽系には、地球を含む8個の惑星と、月のように惑星の周りを回る衛星が146個。つまり惑星と衛星と太陽(恒星)で計約150個の星がある。
・私達の天の川銀河には、約2,000億個の恒星があると言われる。
・恒星1個が、約150個の惑星と衛星を引き連れているとすると、一つの銀河には150×2,000億=30兆個の数の星があることになる。
・分かっている宇宙全体における銀河の数は約2,000億。
→宇宙には少なくとも30兆×2,000億で、
6𥝱(じょ)個の恒星があることになる。

※ 数の単位
一 - 十 - 百 - 千 - 万 - 億 - 兆 - 京 - 垓 - 𥝱(じょ) - 穣 - 溝 - 澗 - 正 - 載 - 極 - 恒河沙 - 阿僧祇 - 那由他 - 不可思議 - 無量大数

宇宙(6𥝱個)の星の数は、全地球の砂粒の数より多いという
。 宇宙の星の数と比べ、この砂の中のたった1粒が私たちの地球であり、人の営みや歴史は、全てこの砂粒の中で起こったもの…。そう思うと、全てのことは小さなこと。
もっと余裕持って、両手広げて、のびのびと活き活きと行動していきたいもの。

ちなみに、人体を構成する原子の数は7杼(じょ、10の27乗個、7,000,000,000,000,000,000,000,000,000)で、宇宙の星の数より多い。笑



第125話 ◇ ガマンを忘れた人たちへ••••••
今から2,000年前の弥生時代(B.C.300〜A.D300)、素焼の焼き物で埴輪(はにわ)を作っていた時に、はるか海の向こうのギリシャでは、大理石でミロのヴィーナスが作られていた(B.C.130頃)。

ミロのヴィーナス像は、過去に一度だけフランスを出たことがある。1964年、日本に来た時がそれだ。ミロのヴィーナス展の来場者数は175万人。ちなみに去年(2015年)の展覧会入場者数トップは「モネ展」の76万人。

ミロのヴィーナス像は、なぜこんなにも人々の心を捉えて離さないのか? それは、両腕を欠き、彫刻作品として「不完全」だったためではないだろうか。

徒然草にも説かれる「未完の完」。岡倉天心は著書「茶の本」の中で、「不完全を完全に導く心の働きの中にこそ、美は生まれる」と書いている。
完全を拒む意図の意外さ。「不完全な部分」に、観る者の想像力を遊ばせる余裕が生まれる。

生身のヴィーナス(人間)である貴方も、時として「不完全」であればこそ、その魅力は「完全」を超えることがある。








道場法話 2016年度 5月


第124話 ◇ 相手を思うなら••••••
相手を思うなら、相手に分からないように自分を傷付けなきゃいけない時もある。

「お前は悩みなさそうでいいな」等と思うのは浅はか過ぎる。誰でも、人には見えないところで涙を流してる。

それでもまた、そこから一人で歩き始める。自分が傷付いていても、相手には見せないだけ。優しい人だから。

優しくなりたいなら、傷付くことを恐れていてはダメだ。相手に種明かしなどしてはいけない。大切なことは胸の奥にしまっておく。

相手を想うなら、全てを無くすことさえ恐れずに…。

心の裏表。優しさの後ろ側。








第123話 ◇ 主体性 安保••••••
昨年の安保法案に批判的なメディアは「この安保法案でアメリカの戦争に巻き込まれる」と言う。
しかし、アメリカでは逆。「日本の紛争に巻き込まれるのは嫌だ。尖閣問題にしても、日本が自分たちで守ろうとしないものを、なぜ我々が守るのか」という当然の声も少なくない。

…少し考えてみたい。
日本は、いつになったら自分で自分の国を守るのか?
→世界の常識はこうだ。戦争は肯定しないが、その状況に陥れば決然と戦う。不用意な干渉にはきっちりと対応して、共存と平和を維持しようとする。

戦争をできる限り避ける努力(普段の外交・軍備・経済的・文化的交流)をしつつ、最悪の時は戦って守り抜く軍備と法整備と気概が必要ではないか。戦わなくても話せばわかる?共存を望まない相手には、そもそも話など通じない。

…先月、都内に集まった某富豪達が、声を揃えるように言っていた。「有事の時には、日本を脱出して亡命する」と。
とんでもない!強盗に入られて、家族を見捨てて自分だけ逃げる馬鹿がどこにいる?

国家論を語ってくれと言うのではない。論理で国が守れるわけではないのだから。
各自の日常に当てはめて欲しい。守るべきものがあるはずだ。ならば、逃げ出すのではなく、闘う覚悟があるはずだ。








第122話 ◇ ガマンを忘れた人たちへ••••••
凄惨な事件が起こっている。沖縄でも東京でも…。ガマンを忘れ、すぐにキレ、他人の命をも蹂躙する男たち。 克己を知らない人間たちの欲望が、社会を食い尽くそうとしている。「ガマンしないで欲望のままに振舞えることが贅沢だ、豊かだ、幸せだ…」等と、バカなことを言うケモノを作っているのは誰なんだ!

我々が克己心(自律心)を忘れたら、獣に堕ちるか軟弱になる。克己(ガマン)こそが、活力や美徳を生む。そこから余裕ある心が生まれる。余裕がなければ物事に自分が飲まれてしまう。余裕があれば逆にこちらが飲み込むことができる。
物事を自分の中に飲み込むからこそ、様々に応じることができるのだ。どんな事でも、心の何処かでごく僅かでも喜べれば、そこから余裕が生まれる。余裕は、含みや潤いを与え、深みをもたらす。

人を変えるのは、根性を叩き直すしかない。それには自身の修養しかない。制度や政策では変わらない。自分で自分を変える以外無い。それは歴史が何度も何度も証明している。
この国には、ガマンを忘れた人間と、欲望を満たすことを煽る人間の2種類しかいないのか?克己心と余裕を養い、凄惨な事件を起こす代わりに、もっと気の利いたことをやる人間はいないのか?

私達は何を成し遂げ、何を遺(のこ)してゆける?内村鑑三(キリスト教徒)はこう言った。「何人であっても、未来に遺(のこ)せる最大の遺産がある。それは、金を遺すことでも、事業を遺すことでも、人を遺すことでも、思想を遺すことでもない。私達が遺(のこ)せる最大の遺産は、高尚なる生涯である」。
私も同感だ。ひとりひとりの「気高(けだか)い生き様」を遺すために必要なのは、「克己(ガマン)」と「余裕」だと思う。








第121話 ◇ 勇気を養う••••••
「勇気とは、重圧のもとでの気高さである」(A. ヘミングウェイ)

仕事、学問、家庭、地域、稽古、筋トレ…今までやった事ないくらい、みんな沢山の努力をしている。 今足りないものがあるとすれば…、自分の力を出す勇気。

鍛えて力を会得しても、勇気がなければその力を出すことは出来ない。

「弱いというのは、けして悪いことではないよ。ダメな奴は、ダメだけどな」(イギー・ポップ)

ダメな奴…では情けない。

<勇気を養うには…>
・学問…四書五経 等、古典を学ぶ
・勇気ある人のように振る舞う
・武勇伝から自分を鼓舞する
・自分を信念に従わせる。
・目標を定め、決死の覚悟を決める。
・感謝、陰徳、喜神…余裕を持つ。
・人に背中を押してもらう
・環境を追い込む
・志、目標を堅固に
・身体を鍛える
・その他

「財を失うことは、小さく失うことである。
名誉を失うことは、大きく失うことである。
勇気を失うことは、すべてを失うことである。
生まれて来なかった方がよかったであろう。
(ゲーテ)








第120話 ◇ 臆病・余裕・大胆・無我••••••
◼︎事に処していくには、その大小に関わらず臆病ではいけない!また、余裕がなくてはいけない!余裕綽々ニコニコしながら、肚の中では「何でも来い!」「やれるものならやってみろ!」という断固とした心で処していかなくてはいけない!
物事は収まるところに収まるものだから、大胆に無我になって真摯に取り組めばいい。

◼︎物事は、その大小に関係なく、すべて自分の中に飲んでしまうことが大切!
物事を大きく見てしまっては、相手に飲まれてしまう。余裕が無いと飲まれる。だから、余裕は大切。人から「無理するなよ」と言われるのは、言われる方に余裕が無いからだ。そんな小物では情けない。言い訳も絶対ダメだ。

◼︎負けじ魂で根気強く取り組み、成功するまで止めない。この態度で事に臨めば、敵のことは大して気にならなくなる。堅固な志と計画で無我になって進めば、敵の中にも肝胆相照らす仲間が必ずできる。お互いに肚を知り合ったなら、敵味方の区別など無い!

◼︎修養を重ねれば、世の中にありがちな困難に、一々頭に来たり、弱気になったり心を揺らすことはなくなる。それくらい何でも無いという余裕ができる。そんなところに一々一生懸命になってたら、物事に飽きて根気が続かなくなる。大事などできるわけがない。

◼︎自らの経験経歴を、先人の書物(論語等)や実例に照らし合わせて、その利害得失を研究するのが活学。理屈以上の呼吸を会得し、機会をとらえて事に応じ、活用していくのが活学。








第119話 ◇ 事故••••••
福岡に、ボートレーサーの養成学校(やまと学校)がある。全寮制で、非常に厳しい訓練校である。5.19、模擬レース中に訓練生が死亡する事故が起きた…。

日常でも仕事でも、事故と無関係ということはあり得ない。
私達の生活では、交通事故が上位にある。警視庁HPによると、交通事故(死亡事故)は、安全運転義務違反(漫然運転・脇見運転・安全不確認・運転操作ミス)に起因(61.5%)する。
1. 安全運転義務違反:61.5%
2. その他の違反  :9.7%
3. 歩行者妨害等  :6.4%
4. 最高速度    :5.6%
5. 通行区分    :5.0%
6. 信号無視    :3.3%
7. 優先通行妨害  :2.8%
8. 一時不停止   :2.4%
9. 違反不明    :2.3%
10. 酒酔い運転   :0.6%

私達の稽古の場ではどうか。道場での事故原因は大きく4つ。
・一難去ってホッとした直後
・気が散ってる時
・周囲を見てない
・知識不足 等

→事故は、本人の応対次第という時もあるが、その応対を遥かに凌駕する、どうしようもない理不尽な状況に飲み込まれることもある。事故に遭いたくなければ、何もしなければいい?でも、何もしないという答えは人間の本性に抵触する。
→リスクは避けたい、リスクがあっても挑戦したい…どちらも分かる。

冒頭のボートレーサー訓練生の事故。
本人の無念さは如何ばかりだったろう。家族、遺族、友人、仲間、教官…の悲しみは如何ばかりだろう。いつか、悲しみを乗り越えられるだろうか。
御冥福を祈り続けるしかない。








第118話 ◇ 逆転させる••••••
例えば、占い。
当てるというのは、人の占い。しかし、当てるだけが占いなのだろうか?
それよりも、占って吉と出たらいかに実現させるか、凶と出たらどう逆転させるかを第一にする。凶はひっくり返す。こうしてこそ、成長・共栄・調和に資するのではないか。自然のルールである造化(創造・化成)に適うのではないか。
となると、大事なのは、「当てる方法より、変える方法」→創造と変化。
凶運の相はどうする?→変わるまで包み、行動を変えていく。凶運を封じて、造化の道を示す。

そういえば、人の相を見るに、ポイントは目と声と心気と言われる。特に、目は心の窓。目で人の相の60%判断。
→最上の目は、母親が我が子をあやしているときの目。慈眼。
慈眼…慈悲の目。含み、悲しさ、情味、温かみを含んだ目。
声は「雲遮月(うんしゃげつ)」だった。…月の光が輝かないで、薄雲がかかり、ほのかに月の光が漏れる。そういう声が良いと言う。なかなか難しい声だ。
気合いは、雷のように。稲光りのように。日本刀のように。

己を鼓舞し、自分で自分を変えていきたい。








第117話 ◇ 「勝つ(結果)」と「克つ(根っこ)」••••••
「勝つ」…戦ったり競ったり争ったりして、相手より優位な立場を占めること。目的を達成すること。
「克つ」…圧力や逆境、苦難や試練に耐え、乗り越えること。克服すること。
「克己心」…自制心。自分の弱い心(卑怯・臆病・怠惰)にうちかっていく強い心。
→心が我欲に支配されるのではなく、心で我欲を支配し、コントロールすること。
→西郷隆盛は「南洲翁遺訓」の中で、「総じて人は己に克つをもって成り、自らを愛するをもって敗るるぞ」と言う。

己に克つことが勝つことの前提であり、従って、勝つためには、逆境に耐え苦難を乗り越えて栄光を掴むという道を歩くことになる。

・生物の「存続」の場合、
…「生存競争」「闘争本能」「弱肉強食」
→勝つことで子孫を残してきた。

・生物の「進化」の場合、
…環境に適応する
6,500万年前の隕石の衝突による地球環境の変化に恐竜は滅んだが、哺乳類はその環境の変化に適応し危機を克服した。恐竜と喧嘩して勝ってきたわけではない。
→克つ(克服)ことで適応し成長してきた。

21世紀、私達の生活は豊かに便利になった。
しかし、勝つことを要求する自由競争社会が経済成長を促進した半面、格差は増大し、環境破壊、種の絶滅、資源の枯渇等による、富や食糧の分配をめぐる争いは、ますます大きくなる。
政治も、成長・共栄・調和の未来を描くのではなく、国益と覇権を巡る争いを大きくしている。

1.「克己心(自制心)→勝つ」
2.「我欲(欲望のまま)→勝つ」
→鍛えた拳で手に入れるものは、克己心を鍛え我欲をコントロールして勝つ(結果)ことであり、我欲に負けて欲望をのさばらせて勝つことではない。








第116話 ◇ 衝動・欲望を叶える代償••••••
衝動・欲望は、その使い方次第で善にも悪にもなる。欲望を、志や利他的に使えれば社会に救いはあるだろう。しかし、利己的欲望に支配された言動や行動は様々な問題を引き起こす。

例えば経済。その規模が大きく(豊かに)なると、製造よりも、「欲望・不安・退屈」という心で消費に傾く。クレジット(今欲しい、支払いは後)も消費に拍車をかけ、消費者は己の欲求を満たすことが最優先となる。

その結果、己の欲求を満たすために、社会的な責任、他者・生態系・環境への配慮に関心が薄くなり、「強欲こそ美徳」社会へと流れて行く。
このような社会では、「今すぐ知りたい、手に入れたい」という利己的欲求以外は無視され、周囲への献身・節制・慎み等は、無自覚のまま失われていく。これでは人生も社会も行き詰まる。

→結局、制度や政策ではなく、自己に返り改めていくほかはない。
→「自分」とは、「独自・絶対」と「分際・部分」が合わさったもの。
→論語は2,500年前から「中庸で行け」「利よりも義を優先させろ」「和を大切にして広く親しめ」と、解決策を示している。

頭で分かっていても行動で示せなければ(活学)、分かったことにならないのが人生。
→欲望を利己的にのさばらせてはダメ。
→克己・節制・忍耐。これこそが活力・エネルギーの源。
※欲望を満たせ!欲望をコントロールしろ!
→どちらを選択すればいい?主体性があるなら、答えは明白だ。








第115話 ◇ 恩師からの言葉に泣いた••••••
・君が一生懸命取り組んでいる姿、君が喜ぶ姿は、君が私にくれる最高の喜びの一つだ。

・人はどんな境遇でも、考え方と行動で十分に生きられる。 困難が無くならないような生き方をするなら、「どうやって面白くしてやろうか」「どうやってこの問題をクリアしてやろうか」と考え、直面する問題の負の面ばかり見るのではなく、勇気を出して前を向いて進んで欲しい。

・人生を生きることは恐ろしくても、いちかばちか賭けて、前に進んでみろ。








第114話 ◇ 1万時間••••••「技芸はどれくらい稽古・練習すれば、プロ(一流)になれるか?」
→答えははっきり出ている。それは、才能ではなく稽古の時間。

プロは1万時間。
毎日10時間の稽古・練習で約3年、 毎日5時間やれば約6年、 3時間やれば約10年でプロになれる。
1万時間練習してプロになれなかった者はいない。逆に、1万時間未満の練習量の者はプロにはいない。

※才能だけでプロ(一流)になった者はいない→稽古・練習という時間の積み重ね、
継続(1万時間)だけが力なり。

・子供時代のスタートは、思いやりがあり楽しく優しい先生に教わる方がいい
→ピグマリオン効果(才能があると信じて接すると、本当に才能ある人に育つ)。
生徒を楽しませ、「頑張ろう!」「幸せ!」を感じさせる。子供が楽しめるよう、先生が楽しむ。
また、それをやって良かったこと、楽しかったことを子供に聞かせる。
・そういうスタートを切ったら、次の段階はビシビシ、キビキビ指導する。
甘やかしてばかりでは、磨かれない。

※大人はどうか?
自分はできない→1万時間やったか?
やらない理由を見つける前に、30分でも1時間でも、1万時間に向かって進むことが大切。
1万時間でプロになれる。楽しくできるにこしたことはない…が、楽しみ喜びは自分で見つけ出す。
楽しい場と厳しい場、両方必要。








第113話 ◇ 道器••••••「至人の心を用いるや鏡の如し、 将(おく)らず、逆(むか)えず、
応じて蔵(おさ)めず」(荘子)

心と形を忘れて、周囲と調和して一となり、無心で自然に応じる。自然の感応により、万物を創造化成し、 変化していく造化の働きを、私達の実践的立場から「道」と言う。 造化の働きにより作られるものを「器」という。 道は融通無限、器はある目的のため。 器は道によって生み出されるので、道は器を伴う。
道は必要に応じて無限に器を作っていく。 だから、本来、道器は一貫したもの。

しかし、多くの人は、何かの専門(器)になろうと努力し、道を忘れるか、学ばない。だから融通がきかない。 人の所作も器のあらわれ。つまり、所作は道理から出てくる。従って、所作の中には深い理が含まれる。 道も心も、本来、極まりも形も無い。無意識で森羅万象、万物に充満しているもの。
そうなっていなければ、必ず形がある。形があれば敵(対立するものの名)も味方も自分も他人もある。
形あるものは、必ずそれに対立するものがある。

心、道、形を忘れることで、調和して「一」となる。感応し自然に応じる。 その時の結果(形、技)が、
道や心から生み出されると言える。

もし、苦楽損得好き嫌い等の境界を作ってしまうと、形の前に対立し、結果の前に争うことになる。
世の中は広大であると言っても、結局は心の外に求めるものでは無い。

迷えば、自分の心が最大の敵となる。結局のところ、自分が本来の自分に戻るしかない。
師はそれを伝え、その道理を示すだけ。会得するのは自分でしかない。
「教える」とは、自分にありながら、自分で気付いていないものを知らしめるだけであり、
師が授けてくれるものではない。

道や心は無形であり、万物に充満し、創造変化(造化)の働きに従うことが道理。形のある器ではなく、
形が無いからかこそ、森羅万象に応対できる。その応対、あらゆる事を遂行していく中で、
様々なもの(結果、形)が生み出されていく。
形(結果)は道の副産物になる。現代文明においては、 その副産物(技術・知識・形・結果)にスポットを浴びせる。 道と形(結果)、両方にこだわりたい。

心を持つ人間、つまり私たちには、とんでもない可能性が秘められていると思わないか?
自分を使い尽くすなんて出来ないだろう。
自然の悠久に比べれば、情けないくらいに儚い存在なのだが。








第112話 ◇ かすり傷•••••• 「筋肉痛がひどいから」とか、 「足の裏のマメが潰れたから」とか、「爪が剥がれたから」とか、「肋骨が折れたから」とか、 「雨だから」…とか、「上司と喧嘩したから」とか…稽古が出来ない条件探したら、きりがない。笑
何事も、やるのか、やらないか。理由を探せば双方同じくらいにあるもの。

そうではなく、やると決めたらやる。信念と勇気が身体を動かす。 好条件が揃ってなきゃ出来ない…
では情けない。

道着を脱いでからも同じ。
何事も「どうすれば出来るか」に、頭を集中させる。それが建設的思考・積極的態度というもの。
出来ない理由を考えるクセのある人は、自分の力を自ら見限ってしまっている。
自分から投げ出す人を、臆病者・卑怯者・怠け者と言う。

自分で道をつける事もできず、その道を歩く努力ができないようでは、「男」とは言えない。
自分で決めたのなら、その自分との約束は守らなければならない。

だから、男にとっては、即死と致命傷以外はかすり傷なのだ。
「仁」を体現し、あらゆることを成し遂げていく。それが死ぬまで解放される事のない、私達の仕事だ。








第111話 ◇ 媚びるな。••••••  人に媚びるような態度で稽古をしてどうする?臆病・卑怯・怠惰を 絵に描いたような情けない男など見たくもない。泣かずに、自分自身対して怒れ。自分が止まれば全て止まる。 止まってはいけない。
世の中、誰かに媚びて飼われれば飯は食わせてもらえるだろう。 しかし、一生鎖に繋がれる。安定を求めるか、何かを動かすか。人の一生はそんなに長くない。
→我々のやろうとしていることは、今の繁栄をどう延長させるかではなく、新しい未来の開拓だ。 人間を創れない、今の社会をひっくり返すことだ。それは、クーデターを起こせというのではなく、 義・勇・仁・礼を心に己を鍛え、
輝かせ、自分とその周りを明るく灯すことから始めるしかない。
過保護な人・社会・国家に未来などない。鍛え学ばなければ未来はやってこない。 ぬるま湯・馴れ合いから抜け出し、自分の頭と身体を使い、獅子(漢)となって生きる事だ。

→その方法は、原点回帰。原点とは何か。それは「人よりも真剣に、人よりも努力すること」。 論語にも「性相近し、習相遠し」(生まれつきの能力に大差はない。学びと実践により、 人は実力に大変な違いが生まれる)とある。 また、どんな環境でも「衣食住」を整えられる力をつけること。

稽古=研究会=例会
「窮鼠猫を噛む」という。確かにネズミも追い込まれれば決死の反撃に出る。 しかし、ネズミが凄んでも、猫には可愛く見える。猫が凄んでもライオンには可愛く聞こえる。 そんなライオンは、ウサギを獲るにも全力を尽くす。 まずは、ひとりひとりが皆と和するときは和し、譲るときは譲り、 闘うべきときは闘う獅子(ライオン、漢)になること。 それが研究会・定例会・稽古の目標。頭と身体、己の牙を研ぐことを怠るな。

私たちは、獅子の集団であり組織だ。
→獅子は、己の義・信念に基づいて道を作り、忍耐強く努力することで自分の城と立場を築いていく。








道場法話 2016年度 4月

第111話 ◇ 計••••••新年度、もう息切れしている人がいる。笑 年明けから心機一転、毎日一生懸命やってきたつもりが、この頃になって赤字になっていたと気づいて息切れしているのでは情けない。 そんな人は、結局人生の総計を黒字にすることを考えればいい。あまり短期で考えず、長期戦略をしっかり立てる。 「日計すれば足らず歳計すれば余り有り」(荘子) → 日々の収支は赤字でも、一年の総計を出してみると黒字になっている。 一時の浮き沈みに縛られてしまうと、成功するものも失敗する。 短期的にすぐに黒字にしたいという思考習慣の人は、博打も投資も株も向かない。精神を擦り減らしてしまうだけだ。呼吸も浅く、落ち着きがない。 物事は、長期的・多面的・根源的に考えることをお勧めする。

第110話 ◇ 変化••••••正反対の結果が欲しいなら、正反対の原因を撒(ま)くしかない。 去年度の自分は、今年度の自分の敵と考えるくらいでなければ変わらない。 雑草は全部抜かなければならない。痩せたいなら、今の食事量を減らさなければならない。節制なく好き放題に食っておいて、少し運動を増やせばいいだろなんて甘いこと言うなんて、なんと情けないことか。雑草を抜かずに、肥料を多めにやればいい等という根本的誤ちと同じ。 ・自分との約束を守る→とにかく精神力! ・今やるべきこと一つに集中する(つまらないことでも)→身体を動かし血流が活発になれば、気力も充実する。 ・やるべきでないことをやらない(止める)。 ・一つ終わったら、次にやるべきことに集中する。 ・やるべきでないことはやらない(止める)。 →今、一つやるべきことを集中してやり、やるべきないことをやらない。

第109話 ◇ 分際••••••私達は、自己(自由、独自、絶対)として存在していると同時に、自己が集まって形成する社会全体の部分(分際)として存在することで、成長・共栄・調和を図っている。 →「自由と分際」が相まって「自分」。 絶対的で自由な存在でありながらも、同時に社会全体の調和を保ち貢献していく分際という存在。 →この両方の自覚がないと、自由をワガママと勘違いしやすい。 社会の秩序を維持するには規則も必要。しかし、規則からの解放や逸脱を自由と誤解すると、社会の一員(分際)としてのあり方を忘れ、自分勝手になりやすい。その「自己」は、仁義を忘れ、成長・共栄・調和から離れた「利己」でしかない。 社会の一員(分際)として、熊本にできることを考えて、そして行っていきたい。

第108話 ◇ 飛び込め••••••「窮鼠猫を噛む」という。確かにネズミも追い込まれれば決死の反撃に出る。しかし、ネズミが凄んでも、猫には可愛く見える。猫が凄んでもライオンには可愛く聞こえる。そんなライオンは、ウサギを獲るにも全力を尽くす。
まずは、ひとりひとりが皆と和する時は和し、闘うべき時は闘う獅子(ライオン、漢)になること。それが研究会・定例会・稽古の目標。「倦むことなかれ」。頭と身体、己の牙を研ぐことを怠るな。
→己の義・信念に基づいて道を作り、忍耐強く努力することで自分の城と立場を築いていく。

第107話 ◇ 稽古=研究会=例会••••••「窮鼠猫を噛む」という。確かにネズミも追い込まれれば決死の反撃に出る。しかし、ネズミが凄んでも、猫には可愛く見える。猫が凄んでもライオンには可愛く聞こえる。そんなライオンは、ウサギを獲るにも全力を尽くす。
まずは、ひとりひとりが皆と和する時は和し、闘うべき時は闘う獅子(ライオン、漢)になること。それが研究会・定例会・稽古の目標。「倦むことなかれ」。頭と身体、己の牙を研ぐことを怠るな。
→己の義・信念に基づいて道を作り、忍耐強く努力することで自分の城と立場を築いていく。

第106話 ◇ 地震••••••2016.4.14夜、熊本地震。亡くなった人たちもいる。余震も多く、不安は計り知れない。
援助物資、義援金、ボランティア等できる事を行う。
各自の立場でできること、属している組織でできること。東日本大震災の教訓も活かし、できる事を行う。

即死か致命傷でなければ、起死回生の復活は必ず果たせる!

第105話 ◇ 渾身(こんしん)•••••• 2時間で10km歩く稽古。

姿勢や歩く姿は、その人の人格、体調だけでなく、心の様相をも現す。
腰や背骨が砕けてしまったような姿勢では見苦しい。軟体動物のようにぶらぶら歩いている姿は情けない。

「道」はチンタラ歩くものではない。
「道」をシャンと歩けないような者では、人の上に立つことはできない。
「道」を歩いている姿が一番人の目につく。
シャンと歩けなければ、所作も悪くなる。悪い所作での仕事には性根が入りにくい。
性根のすわっていない者の所作も悪い。所作、仕草が悪ければ、渾身の力は出せない。
力を出し惜しみする活動は醜く、渾身の力を出す活動には美がある。

渾身、全身全霊で行う→腰を立て、背筋を伸ばす。横隔膜を下げ、両手は柔らかく使う。

動きの基本は、「仕草(所作)、重心、呼吸、調和」。
獲物を獲る姿勢と目つきを思い出せ。

第104話 ◇ 超一流•••••• 巷では、一流のスポーツ選手でも賭博に走るし、一流の大臣でも睡眠障害に陥る(国会に出れば眠れるのに)…。
映画「カサブランカ」ではないが、最高の「やせ我慢」ができれば男になれるのに…。

超一流の仕事、超一流の男、女、服、食べ物、家、態度、緊張感…。愛すべきは、超一流のものか、ウソのないもの。
超一流かどうかの基準は、世間の尺度(値段・美醜・評価等)ではない。

→その基準は「己にとって最高のもの」。それこそが超一流。

私にとって最高の男とは、やせ我慢ができて、主体的な男。


第103話 ◇ 子供と夢••••••私たちは、子供は幼稚であると思っているかもしれないが、それは錯覚。

1.子供は豊かな内容・能力・可能性を持っている
2.子供は感動・感激すると、そのものになろうとする
→もちろん、論語9-22「苗を植えても穂の出ない者もいるし、穂が出ても実らない者もいる」が、子供は「可能性の種子」!!

→無限の夢を持つ子供は何にでもなろうとするが、その時「感動する」「感激する」という心理的な働きが不可欠。 知って動く(知動)という言葉はないが、感激して動く(感動)言葉はある。子供は感激すると、自分もそうなりたいと夢を膨らませる。
→しかし、実際は夢の一部を実現するにとどまる。実現できなかった夢は実現した夢の糧になる。どんな夢も無駄になる事はない。
→だから、幼年時代や少年時代の「感激」を大切にして、何にでもなろうと夢を持つことは大切。
※そして、子供に感動・感激を伝える生き様を見せることも我々の仕事だ。

第102話 ◇ 賭博(戯言)••••••たまには戯言を。
プロスポーツ界で、一流と言われる選手達の賭博行為がニュースになってる。

そのスポーツ技術が一流の当事者達。しかし、技術が一流だからといって、技術の上達に引っ張られ、人格も自動的に 一流になるわけではない。 人格には人格の修養が必要だ。

スポーツ界でも武道の世界でも、勝負に強くなるには、「※心・技・体」の一致や「勘」を養うことが大切と言われる。
言われるということは、一致させるのは難しい、何れかに偏りやすいということだ。

※(ここでいう「心」とは、今は「平常心や忍耐、集中力等」と言われる事が多い。その意味では「人格」とは異なるが)。

さて、皮肉を言わせてもらう。
賭博で磨いた勝負勘が、競技の試合勘を鍛えのかも。だから、彼等は一流の競技者になれたのかもしれない。 何でもあり…賭博も重要な自主トレの一つだったのかもな。笑

「夢を叶える為なら、賭博だってドーピングだって、死に物狂いで何だってやってやる。それが俺の信念・覚悟というものだ!」
こんな彼らと渡り合っても、勝つ自信はあるか?それとも…?
「それはダメだよ」と言うだけじゃ、…ダメだろ。笑

第101話 ◇ 学問の本義・目的••••••学問の目的とは、成功や出世等、功利的なところにあるわけではない。 そもそも、ただ知識を得ることが学問だと考えるのは、大きな間違い。

→荀子にこうある。
「それ学は、通の為にあらざるなり。窮して困(くる)しまず、憂へて意(こころ)衰えざるが為なり、禍福終始を知って惑わざるがためなり」
(学問とは…どんなに窮しても苦しまず、どんな心配事があっても、気力が衰えることはない。 何が禍であり、何が幸いであり、どうすればどう終わり、どう終わればどう始まるのかを理解し、惑わされないためのもの)。

→私たちの生活の、禍福・因果の関係は想像以上に複雑で、容易に理解できない。 しかし、どんな習慣なら、どういう結果になり、どんな原因を作ればどんな結果が出るかということは、少し勉強すれば分かるようになる。 これが学問。

人生は造化(創造変化)の限りない積み重ね→「天行は健なり。君子は自強して息(や)まず」(易経・乾)。 元気溌剌として、自ら学ぶことを忘れず、成長・共栄・調和を図りたい。

第100話 ◇ 技・術・略 ぎじゅつりゃく••••••「技」…技(わざ)→突き・蹴り・受け・投げ・受け等の基本動作。
「術」…技の組合せ、戦術→ 鍛錬を積んだ技を、状況に応じながら変化させて活用。
「略」…知略、戦略→技、術を統御する知略・戦略。計画。

※技・術・略を併せ備える者は、千万人と雖も威服せしめることができる。根っこには仁。 →人を動かすのに、力技だけではすぐに限界がくる。仁を根底に、知略・戦略と技術が必要。

原理原則・基本知識・動作をこなせる→滑らかな連携動作ができる→相手に対することができる。
※理論や知識→鍛え抜かれた技術と感覚がなければ無力。
※特に大切なことは、「仁」の体現には「知略・戦略」が欠かせない。
→技術略の次の段階は、「道」。

第99話 ◇ 無心••••••<基本を学ぶ>…慎重・丁寧
遠近法、一点消失法、椅子やテーブル、階段や天井の高さ、縦横の線、楕円や立体の描き方を練習し、 好きな画家のスケッチをたくさん眺める。 写真の構図やアングルを、好きな写真から学ぶ。街や植物を観察。

<練習>…繰り返し そして、自分でペンを取る。
こう描こう、あんな風に描こう…等思わず、描く範囲と縮尺を定め、ただ見えた通りに線を紙になぞっていく。 利き手と反対の手を使うのもいい。主観を入れるのは、描く前まで。
描く時は無心になって、見たものを紙の中にそっと写し込む。自分は、風景と紙をペンで繋ぐ仲介者。

<基本・知識を深める>…継続
勉強…どこまで深められるか

<無心>…素直
私のこのスケッチの描き方は、技を相手に掛ける時と同じ。それを技の掛け方をスケッチに応用しただけ。 技もスケッチも同じ。勉強も仕事も同じ。やっている事は一つ。
→主観は時に目隠しになってしまう。見ようとすると見えないが、無心になると見える。

第98話 ◇ 三段階人物鑑定法••••••渋谷栄一「論語講義」より 木戸孝允→「温かさのなかに厳しさがある」西郷隆盛→「威厳がありながら圧迫感がない」
徳川慶喜→「謙虚でありながら堅苦しい感じを与えない」と評している。

論語2-10「その以す所を視、その由る所を観、その安んずる所を察す」(視・観・察)
→人を見るのに「行動」を視るだけでなく、その「動機」を観極め、どんな結果に「満足」するまで察する。

彼の意図・思惑はどこにあるのか?彼はどんな絵を描こうとしているのか?彼は何に満足して生きているのか? 等、考えさせられたことはないだろうか。
→私達は、外見90%(容姿や言動)…つまり、視覚や聴覚に頼って相手を判断しがち。

→人を見抜くには、外見に惑わされず、
1.日頃の行ないを視る。
2.その行為の原因・動機を観極める。
3.どんな物事や結果に、安逸・満足を求めているかを察する。

この「視・観・察」の人物鑑定法、自分自身にも当てはめてみたい。

第97話 ◇ ノートより••••••・泣いて済ませようとするのは卑怯者の振る舞い
・人生をどう受け止めているかは、後ろ姿と歩き方を見れば分かる
・相手を穢(けが)すことは自分を穢すこと
・子供には、目に見えないものを与える
・心掛けは一生モノ
・自信がないから派手になる。言葉が汚くなる
・立場が上であるからこそ、相手のことを考えた行動を取る
・見た目よりも先に磨くべきは、自分の心
・自分の持つ力は、人のために使った時に磨かれ光る
・人にどう見られるかではなく、自分がどうあるべきかを基準にする。但し、自分勝手では世に立てない。
・自分の命を賭けられない中途半端な覚悟で事に臨むから、ビビる
・敵(かな)わなくても、守りきる
・「嫌だ嫌だ」で渡っていけるような甘い世の中は何処にもない
・困ってる者を助けるのは義。しかし、手のひらを返して、こちらに手を出そうとしてるなら容赦はしない。
・一つの分野で最強を目指すと決めた時から、命は捨ててるはずだ
・己を知り、世界を知り、強く優しくなる
・己の信念に肚(はら)をくくっていないから、ここぞという時に心がブレる
・覚悟決めれば、怖いだの、世間体だの、くだらない事は考えなくて済む

第96話 ◇ 新年度、心新たに。•••••• 今までの歴史があるから、今の社会がある。今の社会があるから、つまり社会のおかげで儲けられる。 ならば、その儲けは社会に還元すべきだ。 俺たちも社会に貢献すべきだ。もちろん人物にも物事にも制度にも、いい面悪い面両方ある。 良い面は活用し、悪い面は改善していく。社会を俺たちの味方にするかどうかは、社会をどう認識するかによる。 自分から社会は始まる。自分次第で社会はどのようにも変化する。
「関係ない」と言って社会を拒んだら、社会も俺たちを拒むようになる。対立する。

社会とは、自分以外の全てのことと思ってくれていい。 根本において人は、真なるもの・善きもの・美しいものが好きだ。 物事には、丁寧に慎重に毅然と取り組み、人には礼をもって、誠実に親切に温かく接することが仁義であり、道義だろ。

礼を通して毅然と誠実に振る舞う中にも、明るく穏やかに、和気あいあいとした雰囲気が作れなければ、潤いがなくなる。 殺伐とさせたり、周囲を緊張させたり萎縮させるのは、人への気配りを欠いたワガママな態度でしかない。 「ワガママでいい」と言う連中もいるが、周囲に迷惑だけ撒き散らしておいて「いい」という道理はない。
「そんなことは知ったことじゃない」と言う連中もいる。が、学んで自分を成長させず、人とも共栄を図ろうとせず、 調和を軽んじるなら、 あまりに弱いままに甘んずることになり、それは情けない。

もちろん完璧な人間などいない。俺自身も大したことはない。
が、今書いてるようには思っているし、そういう行動に努めようとしてる。

別に、人にもそう考えろと強要するわけじゃない。いろんな考えがある。

どんな考えの人とも親しくしたいとは思う。ただ、拒絶するわけではないが、親疎に違いは生まれる。
大切にしようとするもの、価値観が違うなら、お互いに適切な間合いじゃなければ、お互いの大切なことを大切にできなくなる。 だから、近づくのも遠ざかるのも、お互いを尊重する結果だ。

お互いが成長すれば、また関係性も変わる。

新年度、心新たに。


道場法話 2015年度 3月

第95話 ◇ ドイツからの留学生••••••28歳、男。日本文化に興味あり→武道にも興味あり。

稽古後の話
「弓と禅」(オリゲン・ヘイゲル)
→坐禅と動禅=易筋行=武道
→健康…ドイツ医師 ヨーレス
<健康の根本3原則> 1.主体性をもって生きる
2.人間関係、社会に親しい関心を持って生きる
3.私利私欲の小我を脱して生きる
→現代人の疾病は、3原則を見失ったことも大きな要因

→東洋哲学…孔子「論語」
2-15「学ぶ」「考える」はセット。どちから一方ではNG
お互い、学び、考えて切磋琢磨しながら、ドイツと日本の未来に貢献したいもの。

非公式の親善大使役をさせてもらったつもりでいる。

第94話 ◇ 逃げるな••••••自分に、「誠」をもって対峙する強さも度量も敬意もないなら、物事にも人にも自分にも軽薄に対応する。 傍目には、スマートでこだわりないように映るかもしれないが、そんな処世術は自分も周囲も破滅させる。

「誠」をもって人物・物事に対峙するなら、大変な重み(責任)を受け入れなければならない。卑怯・臆病・怠惰な態度ではそれができない。 自分の逃げ道を用意して、中途半端に対峙する。…目を逸らしたり、凄んだり、だらしなくしたり、関係ねぇとか、うるせぇとか、 知らねぇとか、何がぁとか言って。 自分を一時的に守り、自覚する勇気を先送りする。しかし、これらの態度は「仁」ではない。

そういう人達は、人にも自分にも物事にも真剣であったなら積み上げられたであろう強さや優しさ、人徳や賢さや豊かさを、 愚かにも捨てている。情けない。

人間は、議論や制度や知識・技術などではどうにもならない。人間は人間の性質を変えるほかには救われない。 根性を叩き直す…自反尽己(じはんじんき…自分にかえって、自分に潜在しているものを尽くす)しかないのでは、と思う。
→人間を変えるということは、自分を変えることに他ならない。自分を棚に上げて物事を語っても何も変わらない。

少なくとも、道場には仲間がいる。辛いことがあるのは皆分かってる。絶対逃げないことだ。自分自身に見切りをつけてはいけない。 背中はお互いが支え合う。そして自分で自分を支えられるように。 人からも物事からも逃げないことだ。

第93話 ◇ 守・破・離 しゅはり••••••事理を学ぶには、順番がある。

1.「守」…師の教えを守って稽古し、原理原則・基本の知識・動作・技術をしっかり身につける、「修養と鍛錬」の段階。

2.「破」…身につけた師の教えと技術を、己の特性に合わせて具体的状況の中で適用・応用させていく、「挑戦と応対」の段階。

3.「離」…「守」「破」の段階を通過し、実生活の様々な分野へ活用・発展させ、成長・共栄・調和を体現させていく、 「創造変化(造化)」の段階。

「陰」…統一・潜蔵の働きから万物を生み出していく働き→分化したものに再び新しい意義・命を与えて統一し、奥深く内に収める力。
「陽」…分化・発現・発展の働き→漠然としたものを細かく分けて明確なものに実現する力。
「中」…相対(相待)するもの(陰陽)を克服・調和させて、一段落上へと発展させる変化創造(造化)の働き。
※物事は、陰(統一・潜蔵・調和)と陽(分化・発現・発展)が相応じて、無限に生成化育していく。片方だけで進化発展するものではなく、
※陰陽とは「正反対のもの」という意味ではない。

第92話 ◇ 死生観••••••「自分探し」は、その人が死生観を持たないから生まれる。自分を探せば利己的な答えを掴みやすい。 自分以外の何かの為に生きていないと、人は利己的になりやすい。

自分探ししている人達は「私は何者か?」と問う。答えは無数に出せる。つまり、決まった答えは出ない。 問うべきは「私は何者か?」ではなく「何が私か?」だ。

自分とは、自(独自の絶対的存在)と分(歴史的社会的部分、分際)という各々の存在を合わせたもの。 その上で「何が私か?」と問えば、ただそのままの自分に価値があるのではなく、価値ある何かに向かって努力すること、 生きてゆくことに繋がる。

「何が私か?」が分かれば、どう死ぬかは決まり、結果、どう生きるかが決まる。生き方が決まれば、その人の才能や能力は開花できる。
「何が私か?」…自分の命の対象が決まれば、死生観ははっきりする。 反対に、「どう死ぬか?」を決めなければ、「どう生きるか?」の答えは曖昧になる。そこにつけ入る価値は、 金・地位・快楽を求める生き方だ。しかし、その生き方からは、子孫に引き渡す文明や文化は生まれない。

知り合いのソムリエは「ワインが私である」と言った。「仁義が私である」「ピアノが私である」…と言う人もいる。 流されずに生きてゆきたい。

第91話 ◇ 便利さと必需品••••••生きることに、尊い価値を築きあげる。 その尊さの根源は野生であり、野生を持ちながら文明や文化を志向する(成長・共栄・調和)ところに、生命の必然性もある。
しかし、現代は便利さと引き換えに、精神を失った。文明は人間を軟弱にしてしまう。 が、文明を捨てて原始時代に戻れと言うのではない。
→「精神を軸にして、各自の生き様を貫く道具として、便利さや物質や制度を享受する姿勢」が必要ではないか。 精神より物質に価値を置くと、主客転倒する。そうなると、物質や制度に頼らなければ生活できなくなる。 しかし、人はパンのみでは生きられないのだ。

快適や便利とは、不便を知ってる世代だからこそ言える。
次世代以降にとっては、便利なものではなく、ただの必需品となる。必需品なら、それが無い生活には容易に戻れない。
→便利さとは一代限りのものであり、次世代以降の人を弱くするものでもある。特に、物欲や食欲、 享楽に気持ちや生活が左右されると人間は堕落し、文明は滅びる。己の外部にばかり刺激を求め、内面の感動・感激を失えば、 人は弱くなるばかりだ。

いくら豊かでも、便利な物・制度・環境は、自分の生き方を貫くための、一つの手段として扱う。己の精神の下僕(しもべ)であることを 忘れないようにしたい。

第90話 ◇ 人間は正邪善悪を併せ持つ••••••
「地震・雷・火事・親父」などの天変地異、病気や事故、争いや不遇…の中を、苦しく悲しく図太く生き抜いてきた人間は、 多面的で矛盾に富んだ性格や文化を作り上げる。
→従って、人の心には底の底の底があり、裏の裏の裏がある。人を見るのに、軽率に正邪善悪の一面だけ見て他を捨てるのは、 自分に都合のいい「偏見」でしかない。
人間は多面的。権謀術数が魑魅魍魎と渦巻いているからこそ、敬愛や善良・純真を求める。安心を求め、冒険を求める。
→我々を素にするのは、結局「仁」だ。従って、正邪善悪は、同じ幹から出た枝同士でしかない。極悪人が純心で優しかったり、 善人が軽薄で嘘つきであることも珍しくない。貧しいが人間味が豊かであったり、裕福だが生活が空虚であったりする。人は多面的だから。
だからと言って、警戒一辺倒では器が小さくてつまらない。
→誰にでも仁で応対する。が、賢さは失わない。仕事・稽古・学問を通じて、人の機微を把握し、情操を陶冶しながら、敵を味方に、 夢を風に、すべてを仁に変えていけたら最高だ。笑。

第89話 ◇ 何を鍛えているのか〜安定と挑戦の間••••••
学生から社会人になると、精神的にも経済的にも、寄って立つ場所が落ち着かせようとする。つまり、安定してくる。
→しかし、生活の時間や食事等がルーティン化してくると、感激・感動する感受性や自主自律の心を養わなければ、 創造変化(造化)という命の本流から外れる。
→卑怯・臆病・怠惰へと流され、何の進歩も変革もないまま年だけを重ねることになる。 →そういう場所には、残念ながら理想とするような人物はいない。
→「先月より去年より成長進歩したか」と振り返り、「目標」「今に集中して物事に取り組む」という決意を「日々新たに」して、 やるべきことに淡々と取り組む。つまり、主体性を発揮していく精神力と実行力→これを日々の稽古で鍛えている。
だから大切なのは、稽古後、道着を脱いでから、稽古の「残心」をどう活かしていくかだ。
→FEG〜「成長・共栄・調和」「自立・団結・貢献」「義・勇・仁・礼」の体現を、今日もその役割の中で、どうぞよろしく。

第88話 ◇ 修養の価値••••••
自分を振り返ると恥ずかしい限りだが、謙譲の徳が備わっている人を見ると、人と接しても穏和に調和でき、秩序を保つことが上手く、 しかも本人には何の作為もない。修養の賜物だなぁと、頭が下がる。
単に自分が快適なら良い…というなら、そんな連中が多ければ、そこは弱肉強食の獣の社会へと堕落する。 確かに、一人一人の能力・適性・ヤル気を主張することは悪くない。
が、社会は自分ひとりの空間ではない。様々な考えや境遇の人が集まって構成されている。だから、お互いの成長・共栄・調和に資するよう、 調和を図ろうと努力すべきだ。
→そのためには、どうしても各人の役割における責任、忍耐、克己、自己犠牲、謙譲、礼節等が大切だ。
コツコツと修養して、学ばなければ、身につくものではない。稽古然り。
我儘を通すことや、奇跡・マグレ・偶然などには価値を置かないこと。あくまでも、仁(成長・共栄・調和)の体現への鍛錬だ。

第87話 ◇ 残心••••••
残心とは、心が途切れない、油断しないという意味である。それは余韻の美学である。常という平常を大切にする心(平常心)である。
心技体を惜しまず、全身全霊で事に応対する結果、途切れることなく波のように次から次へと新しく湧き出てくる気力、心・技・体がある。 それを残心と言う。
豊潤な地下水が湧き出るように、尽きることのなく気力を満たし継続していく心。
溢れ出てこない?笑
まだ全身全霊で事に当たってないからではないか?自分が次の気力を必要としていないからではないか?
何かを残そうと出し惜しみしていると、何も残らない。思い切って全てを出し切ると、新たな命が残り継続してゆく。

第86話 ◇ 根→幹→花→土→••••••
1.根っこ(心)…遵奉精神(義勇仁礼)
→論語を始め、古典・歴史・人物から「仁(全てを生成化育させる働き)」を学ぶ。
2.幹(体)…理念(成長・共栄・調和)と、行動指針(自立・団結・貢献)。それを体現する心身。
→筋トレ・稽古・経験で錬磨する。
3.花(技)…社会での様々な事業・貢献・利益・還元
→各々の仕事・事業を深く高く→社会との繋がりの中で広く。
※沢山の花を咲かせるには、強く大きな幹が必須であり、そのためには深く豊かな根っこが必要。心と体と技を切り離すという処世は採らない。
→道徳(仁義)と武(心身の陶冶)と経済(貢献と利益)の一致を図る。

 ・世間によくある困難が、いちいち心身にこたえるようでは、大した事はできず、大した仲間もできない。

 ・様々な処世法はあるだろうが、ただ全身全霊で今に応ずるだけのこと。

・自省自修の努力。私利私欲を殺す。逆風を楽しみ、決然と事に当たる。

第85話 ◇ 記憶力強化法••••••
いわゆる、様々な記憶法の研究は誰かに任せる。
→記憶力強化法…「曾子の三省」に倣って1日を振り返り、日記を書く。
参考)曾子の三省(論語1-4)
曾子曰。吾日三省吾身…。
1.他人の相談に乗った時、十分誠意を尽くしたか。
2.友人との交際時、言行一致していたか。信義に背かなかったか。
3.まだ理解の浅いもの、実践できていないものを他人に教えなかったか。
→以上をベースに、
0.筋トレやストレッチ後、
1.毎晩寝る前に日記を書く
→その日にしたこと、人に応接した言動を振り返り、忠節や誠を尽くしたか、仁義・道理に反していなかったかの省察を怠らない。
2.もし夜怠ったら、翌朝省察する。
→夜、日記を書きながら一日を振り返ると、その日の出来事が整理され、強い印象となって心に残る。
「俺は記憶力が悪い」と情けないこと言う前に日々鍛錬。稽古然り。稽古日誌も忘れるな。

第84話 ◇ 春だから••••••
女性には、母・妻・女・仕事…複数の顔がある。女はカメレオンのように周囲に合わせて色を変える。相手の期待に合わせて自分の色を変える。 男ほど不器用ではない。
私達男は、
・彼女の「母としての顔」「妻としての顔」に感謝し、報いているか。
・彼女の「仕事の顔」に敬しているか。
・彼女の「女の要素」を満足させているか。
男は誕生日や記念日等、昔の出来事を反芻したりしない。が、女性は大事にする→「女」の部分に関わるから。
彼女の中の「女」を満足させるためには、「記念日は大切にしている」と振る舞うことが大切。
ケンカのルール
・相手の逃口を必ず作る。追い詰めてはいけない。
・相手の親兄弟の悪口は絶対言わない。
・年に数回、毅然とした態度をとる。
・けなすより、繰り返し誉める→女は誉めたように変わる。
話を聞く時は「受容・傾聴・共感」。
アドバイス不要。否定は御法度。
今は、男も女性化している。男の操縦法としても使えるかも。たまにはこんな話も。春だから。
…書いてて情けなくなった。失礼。さて、しっかり稽古していこう。

第83話 ◇ 痴呆••••••
強さの根底は仁(優しさ、慈悲)。
日本は65歳以上が28%を超え、超高齢社会は益々進んでいる。2050年までには、総人口も1億人を下回るかもしれない。
先日の老人ホーム慰問も、歌ったり遊んだりして老人を慰める…「してあげる」という老人は弱者と決めつけて接していた感覚があった。 社会の役に立たないものを大切にしてあげようというやり方では痴呆を増やすだけだ。今の社会の接し方が高齢者の脳を活性化することはない。
そもそも、弱者かどうかというのは、生き方の結果であって個人の問題。年を重ねた結果ではない。
人の悲しみは、知識・経験・知恵を社会が必要としなくなったところから起こる。知恵や技術を与えたりするだけでなく、周囲を楽しませたり 、高めたり、清らかにさせたり、安心させたり…どんな人でも人の役に立つ。もし孤独を感じてる人がいたら、まず自らを省みることが必要。
お互いに「仕え合う」ことから、「仕合わせ(幸せ)」は生まれる。それを忘れずにいたい。

第82話 ◇ バトン••••••
門下生→過去、暴走族の特攻隊長。先日、鹿児島の知覧特攻平和会館で特攻隊の遺書に遭遇。
さて、彼らの犠牲が今の日本の大きな礎だとすれば、彼らの遺書は我々子孫に向けて書かれたものでもある。 我々へと託された彼らの遺志は、歴史を積み重ねてきた先人達が、自らの命…あらゆる可能性と引き換えに、「 しっかり生きてくれ。頼むぞ」という遺志を、我々に託したのだ。
自らを犠牲にして私達に全てを託した先人に、私達は臆病・怠惰・卑怯な態度を見せられるのか。しっかり生きて、生きた証を上乗せして、子孫に渡す。
壁は、やろうとしていることの大きさに比例する。全身全霊で事に当たり、倒れてもまた立ち上がれ。 立ち上がれなくなっても、顔を上げろ。全く動けなくなっても心は止めるな。稽古然り。男であるなら男になれ。
「往を継ぎ、来を開く」。己を鍛えて、人を赦して、皆繋がっていく。生きるとは、決して自分一代限りのものではない。

第81話 ◇ 怪・力・乱・神••••••
論語述而7-20に、「怪力乱神を語らず」とある。
「怪・力・乱・神」…怪奇談、武勇伝、反乱者の話、鬼神の話。
→確かに、世の中にはこの手の話は多い。が、怪しい話は人の道に反し、武勇伝は人徳の方向性を誤らせ、乱れた話は国を治めることや文化に背き、 神がかり的な話は人を惑わす事が多い。これらの話は成長・共栄・調和に向かわない。
→怪力乱神は否定しないが、語る必要はない。語るのは、「当たり前」の事でいい。
では、大きな問題に直面したらどうするか?怪力乱神を聞くのではなく、温故而知新(2-11)。故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る。 時間を逆行し、過去の経緯(歴史)を学べば、問題点が明らかになり、打開に繋がると伝えてくれている。
特に、武道の技を怪力乱神と結びつけてはならない。武は怪力乱神などではなく、仁(万物を生成化育させる力)だ。

第80話 ◇ 再び、武••••••再び、武
「武」とは、二つの戈(ほこ)を止める…二者間の争いを止める力。しかし、止めて終わりではない。
仁(成長・共栄・調和)に鑑みれば、両者の争いを止めるというのは同時に、理不尽・矛盾・衝突を克服し、共栄・調和へと一段上に 進めることが本筋であり、 そこに「武」の醍醐味がある。
また、私たちが争いの当事者になることも当然ある。絶対に争いを避けるという選択もあるが、「戦わねばならない時は、どこまでも戦う」 というのが、私の立場。
「戦いを辞さない覚悟」を持てなければ、たとえどんなに善だとしても、悪に負ける。
譲れないものや信じるもの、人間には守るべき主張があるだろう?
今日も闘う覚悟は常にあるか。
共栄・調和を見据えているか。


道場法話 2015年度 2月

第79話 ◇ 恨みの晴らし方••••••恨みという感情は良くないものか?恨みは、生存の危機に際し、 毅然と立ち上がる生命力そのものと呼べないか。

・動物は「報復・仕返し」を当然行う。縄張りを荒らされると、必ず相手に報復する。 生きるための戦い→生きるために絶対必要な事は悪徳ではない→動物の世界では弱肉強食は正しい。
・人間は「パンのみに生くるにあらず」。人間は精神の動物→人間から精神性を奪ったら地上最弱生物となる。

・<自分が受けた肉体的ダメージ> →社会制度で保護、決闘(現在は禁止。しかし、肉体的な生命より大切な精神性を示そうとした先人の知恵)
・<精神的ダメージ> →「おんどりゃ〜!きさま〜!」恨みとして把握→勝手な暴力的報復は社会的秩序維持のためNG→ 「見返してやる!!」 という力に転換→相手を凌駕する(見せつける)。

恨み→命を燃やし、自己成長の根にもなり得る。恨む力は人生を拓く力になり得る。

第78話 ◇ 自己に自信は不要(2)••••••「信じる」力の偉大さは会得したい。家族・兄弟・友・社会・人類・祖先を信じ、言を信じる。
信じることは人生に価値を与え、疑うことは役に立たない。疑いから出発した科学でさえ、 それを信じた人々によって今の興隆を築き上げた。

信じることが力の源泉になって、何かを得る。議論はただの理屈であり、理屈はどんな立場からもつく。 信じる力には遠く及ばない。理屈に共鳴は起こらない。議論に耳を傾けるというのは、論者の信ずる心に共鳴することに尽きる。

なぜ「初めて」は困難であり、価値があり、「二番目」は簡単なのか?二番目は、できるという事が簡単に信じられるからだ。 「初めて」は、事実を目の前にしなくてもできると信じて、貫き通さなければならない。 初めての事にかかる金・時間・労力の90%以上は、できるかどうかという疑い・不安との闘いに費やされる事をリーダーは 知っておくべきだ。リーダーに「信」は必須だ。

私達の人生は毎日「初めて」の道だ。だからこそ、疑いではなく信じることが大切。 強く深く人生を信じるほど、豊かになってゆく。

第77話 ◇ 自己に自信は不要(1)••••••自分に対して自信を持つ…という考えは持たない。
→そんなことより大切なことは、「今に集中」。 創意工夫・不惜身命・全身全霊で、喜心を持って目の前の状況にぶつかる。「案ずるより産むが易し」。 次々と展開される事態にも不惜身命で。自分の計画と違っても、その中でより良きと思われる方向へ進む。 あとは、「人事を尽くして天命を待つ」だけだ。
こんな態度で歩いていると、周囲の目には「あの人は自信のある人だ」と映る。

自信を持とうとしている人は、もしかしたら、他人を羨んでいるのではないか?他人と比較したいのではないか? しかし比較は、傲慢さや卑屈さを生み易い。

自信喪失の反動から、「自信を持て!」と言われる事もある。戦後教育がそうだった。
しかし、自己の中に自信など必要ない。むしろ、「自信は持つな!」と戦史は教えてくれる。 そもそも、自信を持たなければ、自信喪失などあり得ない。

「自信」との勝負には、「ひたむきさ」で返り討ちにする。
※道場法話…自己に自信は不要(2)へ続く。

第76話 ◇ 慈悲••••••「慈」…生きとし生けるもの(万物)への思いやり。
「悲」…他者の弱さや苦しみを分かち合う気持ちを持つこと。
→「慈悲」とは、「人間の弱さ・苦しみ・嘆き等を知り抜いて、人間を受け入れる心」。

万物の根底にあるのは、「仁」(相対し、相応じる力を統一させて、万物を生成化育させていく働き・力の徳)だ。
人間の弱さ・苦しみ・嘆きを知り抜いて、人間を受け入れる力(慈悲)と、万物を成長・共栄・調和へと化していく力(強さ)。
これらを備えて、その人間に潤いや深さ、風韻やリズムが出てくる。

慈悲と強さを備える。
それでも、人間は弱くて悲しい。無力感に襲われる。それでもそれでも、慈悲は捨てられない…。

第75話 ◇ 2種類の悩み••••••悩みを持たない人はいない。
悩みは「自分の内側からくるもの」と、「自分の外側からくるもの」があり、一方は衰退に向かい、もう一方は成長に向かう。

悩みの種類(2種類)
1.自分の内側からくる悩み→自己中に起因する。自己を停滞・衰退させ、人間を幼稚にし小さくする →他者との比較(例. 収入・容 姿・学歴・地位 ・力量等)から生まれる→嫉妬、虚栄、不安がその根源。
→「自己のことを思い巡らす者は、自己を妨害している」

2.自分の外部からくる悩み→自己を成長させる力になり、人間を成熟させ大きくする→仁義や誠、信頼が根源。 この種類の悩みは、社会と環境が己に与える試練。
これを乗り越えたら、また新たな試練に直面する→限りなき自己成長のサイクルに乗る。
→「自己を忘れている時が、自己を肯定している時だ」

→巷は、1.の悩みを奨励している情報も多いし、1.2.の悩みを区別していないものも多い。 しかし、1.の悩みの根源である嫉妬心・虚栄心・不安感という歪んだ力をもとに築かれる成功は、 結果として破滅を招くことを歴史は教えてくれている。1.は悩むに値しない。
2.の悩みと共に生き、悩みの克服を楽しみの一つとして捉えたい。

第74話 ◇ 言葉(文字)••••••言葉は、人を生かすことも殺すこともできる。その重要性から「言霊(ことだま)」と呼ばれてきた。 「はじめに言葉ありき」…聖書ヨハネ伝にもあるように、人間は言葉の動物だ。 …しかしそれは、何を言っても構わないということではない。

どんな言葉を発し、また心に刻むかで私達の生き方も決まる。
→言葉はただのコミュニケーションの道具ではない。発する言葉が心を作り上げていく。言葉は人生の生殺与奪権を握っている。
→口に出してはいけない言葉がある。
・自分の自慢・長所…幼稚で軽薄だ。
・他人の秘密・短所・悪口…他人も自分を作り上げているものの総体の一部(人類皆兄弟)だ。 だから、人の悪口を言うことは、自分を軽んずることに繋がる。
・捨ぜりふ…関係が終わってしまう言葉→今までの構築が無に帰するか、残酷さだけが残ってしまう (例 辞めてやる 離婚だ 死んでやる )。

何でもヤバイで済ませるなんて…マジヤバ〜イ。

第73話 ◇ 作務(掃除)••••••作務とは掃除。掃除は応対となり、進退の作法へと繋がる。

稽古に限らず、いかなる問題にしても、それを克服し進める上の原理・原則がある。
人間生活の根本は仁、孝悌、敬愛。→そんな自分の心が埃まみれになっていないか、 己の心を磨くつもりで拭き掃除。
→「省」(己をかえりみて、つまらないものをはぶいていく)。
挑戦と応対。→1.目標(挑戦)は何か。2.あらゆる事に応対していく。

人類文明の第一歩は、人間が立ち上がり、前足が手になると同時に、頭が活躍し始めたことにある。 作用反作用の法則からすれば、弊害もそこから始まった。
立つことで生じた弊害…例えば、胃下垂→人間は時々動物のように四つん這いになるといい。 10〜20分程、四つん這いで歩き廻る。

→四つん這いになると、頭はあまりものを考えない。神経衰弱は改善する。
四つん這いになると、腰や内臓への負担が減る。胃腸病や胃下垂、腰痛は改善する。

自宅も職場も道場も、拭き掃除。
→四つん這いでの雑巾掛けは、労働ではなくて養生・療養の一つ。

第72話 ◇ 人格••••••人格とは人間の格を言う。格とは価値の軽重の違いを表す。 人格はそれを有する者と有しない者に厳然と区別される。
人間は食べるための時間や労力をできる限り少なくして、別の価値に振り向けようと努力を積み重ねてきた。 その価値の一つが人格。
→深い信頼・愛情・友情は、双方人格を持つ人間同士で成り立つもの。

自分とは、独自(絶対的存在)と分際(役割・部分的存在)を合わせたもの。
人格の初めの一歩は家庭にあることが多い。 家族が成長し調和と共栄を保っていくために必要な目的性を子供に持たせ、 自分の価値と役割を認識させることが大切。豆粒のような人格は目的へ向かって鍛錬していく中で磨かれ、 成長へと繋がっていく。
役割を認識し、自ら責任を背負うことが、とにかく大切だ。

巷は、許せる人を人格者と見る風潮がある。しかし、君子でさえ憎む相手はいると孔子は言う(論語17-24)。 他人を優しく許すだけでは、無責任なだけであって人格者ではない。人格者は目的を持っている。 だから強さ・厳しさを伴い、含みも深さも持ち合わせる。
優しさと強さを切り離しては意味がない。どんな時も。

第71話 ◇ 成長(変化)••••••・己を変えるには、習慣を変える。習慣を変えるとは、新たな習慣を取り入れること。

・思考はどう変えるか?→成りたい自分をイメージしたら、気持ちの上では既に理想の自分に成り切って、 その立場から思考する。

例)ダイエットしたいなら、「自己管理できるセレブ」に気持ちは成りきる。
自己管理ができるセレブなら、どう考えて、どう行動するか。それを常に意識して行動する。
→自己管理できるセレブは、腹八分で箸を置く。だらしなく間食しない。そんな姿勢でTV観ない。 礼儀正しく振る舞う。勤勉。思いやり。凛として、あたたかい雰囲気…。
→思考も習慣も理想に向けて変えていけそうだろ?笑。そうやって小さな目標を次々とクリアさせていく。 リバウンドなどするわけがない。

理想の自分に成り切って、その立場から思考し行動してみる。

第70話 ◇ 己を修めて以って敬す(論語)••••••今も昔も変わらない。
「己の身を修める」。これを、つまらない連中ほどバカにする傾向がある。

「敬」とは、堅苦しいこと、消極的なことではなく、偉大なものに対する理想精神であり、 そこから己に返って生まれる自省自律の厳粛な情緒である。
苦労の少ない人間ほど、自己の鍛錬を棚上げして、世の中を良くするとか、役に立つことが大切だと言う。
しかし、それはただの独りよがりであり、己の鍛錬を棚上げして、世の中に役立つ道理はない。

己の鍛錬とは、特別なことをするのではない。日常、日用の工夫・努力に徹することが修行・稽古の肝である。 ピント外れのこだわりを持っても情けない。

礼節と同様、小事を丁寧に行っているか。
稽古という己の鍛錬・修練を通じて、家族・社会・国家の進運に参じることが本筋だ。

第69話 ◇ 仁道••••••武道とは、仁道である。「仁」とは、ただ思いやりとか優しいとかいうものではない。 「万物を育てる働き・力」の徳を言う。
従って、仁道とは、万物(まずは自己)を活かす道である。

私達の人生は、進歩発展(変化)させていく努力にこそ価値があり醍醐味がある。
その醍醐味を味わうことで成長していく。その実践を「道」という。私達は道により存在し、活動している。

その道が人間を通して現れたものを「徳」と言う。
従って、徳とは人間の本質的要素である。徳を持たない人間は道を持たず、従って、不徳な人間はいずれ自滅していく。

人間の存在の根本(徳)と、活動の根本(道)原則を合わせて、「道徳」と言う。
道徳が人間の様々な社会活動に現れて仕事になる。これを「功」「業」と言う。

仁は道となり、道は実践であり、その実践から徳が現れ、徳は功・業となって社会の進運を助けていく。
これが武道である。従って、殺人拳などではなく活人拳である。
万物を生成化育していく心の働きがなければ、武道ではない。強さの根源は仁であることを忘れないように。

第68話 ◇ 朝こそ全て••••••おはようございます。
今朝も暖かい空気の朝。梅の花も満開。
→「早起きは三文の得(徳)」と言うが、「春眠暁を覚えず」とも言われるように、早起きは難しい。

しかし、0400に起床する。0500に起床する。昔から優れた人で早起きでない人はいない。そんな偉人に畏怖し憧れる。
→目が覚めたら瞬時にベッドから起きて、顔を洗う。目を洗う。コップ一杯の水。外に出て深呼吸。
その後は、例えば筋トレ→ジョギング。

…一段落したら、シャワーを浴びて、熱い茶やコーヒーと共に古典に親しむ。

夜でなければ仕事ができないという人は別だが、常態では朝が一番大切。活きた時間は朝だけだ。

朝がだらしなければ、本当の一日は始まらない。ダラダラと無意味に日が暮れる。
「明日こそ!」という言葉は、今日ダラダラ過ごした者の覚悟の先延ばしなどではない。 「今日闘った」者の再挑戦の誓いだ。
一日は、朝こそ全て!

第67話 ◇ 天才・秀才••••••自分の能力の無さを嘆く必要は全くない。
→世の中、天才・秀才は確かにいる。しかし、ひとりの英知や才能、能力は知れている。
→留意すべきことは…
悠久の歴史に何億という人の中から残っているような人物達や文献をよく学ばないと、 いい気になったり傲慢になりやすいということ。
人間がいい気になる、傲慢になるというのは、浅薄で軽率で情けないこと。
自分免許で得意になるというのは、「井の中の蛙大海を知らず」で、人間の浅はかさを露呈することだ。

→深く人物を知り、古典に学べば、その大きさ・深さ・鋭さに、必ず自ずから謙虚になる。
他人が比較したがらない程の圧倒的実力を養いながら謙虚でいるというのは、 どんな道を修めていく上でも極意の一つになろう。
特に、謙虚な達人や有道の人の前でいい気になることくらい、愚かで浅ましいことはない。

克己、自律、継続した鍛錬努力で己を修めていく。そこから培われる風格は風韻となり、 成長・共栄・調和へと治(おさま)っていく。
大切なのは、自分が天才や秀才かどうかではなく、決めた事をやり抜くという精神力。

第66話 ◇ 強さの根底は仁(優しさ、愛(かな)しさ)••••••・稽古とは、心身を一如として摂養し、造化を体現する。
例えば、合気道「養神館」の「神」とは、根本的な心。従って、「養神」とは心を養うこと。
→心を養うには「無欲」が一番!と先哲は教える。
無欲の意味を「何も考えない、何も欲しないこと」だと誤解したら、私達の「成長・共栄・調和」はどこへ行った? ということになる。無欲を「何も欲しないこと」と解したら、死ぬのが一番手っとり早い。ボケるのもいい。 化石になれ…となる。そんなわけない。

→無心とは、我々が「成長・共栄・調和」へと精進する素直な心の状態をいう。つまらぬことに気を散らさないこと。
我々の精神は天地の一部である。天地とは大きな韻律(リズム)であり、創造変化の力そのもの。 従って、私達の精神もまた、元気溌刺として躍動し、創造変化(造化)を体現すべき。人生とは造化の体現である。

私達の不健康や老化の原因は、肉体よりも、その精神の不感症からくる。感動・感激しなくなることが一番の原因。
→無心無欲とは、感動・感激の生活から来るもの。
そこで、・心の摂養法…例)
1.心中常に喜神(心)を持つ…どんな状況でも、心の奥に喜びを持つ。
2.心中絶えず感謝の念を持つ
3.陰徳を志す…cf.「功過格表」

・身体の摂養法…例)筋トレ!
・心身の摂養法…例)怖れず臆せず勇猛果敢に、世の中の艱難辛苦、利害得失、栄枯盛衰、喜怒哀楽をなめ尽くせ!

第65話 ◇ 強さの根底は仁(優しさ、愛(かな)しさ)••••••
強さの根底は「冷徹さ」ではなく、仁だと言った。その仁に「かなしさ」を意識しなかった己の薄情さに…呆れた。 「かなしさ」を意識しなかった己の情緒や感受性の鈍さが、かなしい…。 喜劇王チャップリンは、「笑い」の根底は「かなしさ」だと言った。 バナナの皮で滑って転ぶのは、そばで見ていたら笑えるが、転んだ本人からしてみたら、あまりにも情けなく、かなしいことだ…と。 そのかなしさを自分で演じ、笑いへと昇華させる。 チャップリンの笑いが、時代を超え、民族を超えて普遍であるのは、「かなしさ」が私達にとって普遍的で根源的なものだからだと思う。 「情」が根底になければ、理論や技術はつまらないものに終わる。 私達は、強く逞しく元気溌剌で進みたい。しかし、その根源に「かなしさ・優しさ」(仁)に気付かないという情けなさに、反省した。 今夜も、鍛錬。

第64話 ◇ 稽古(古きと比べる)••••••
天地自然は日々創造変化している。 だから、我々も常に自己を新しく。そうでないと、自然の摂理である造化(創造変化・成長・共栄・調和)に反する。 自己を新しくするには、古きと比べることから。古きとは、先輩や師であり、過去の自分。 人間の進歩というものは「感動」から始まる。精神が停滞しないためには刺激が必要だ。それは感動・感激。そのためには「感受性」の高さ。つまり、精神・向上心の問題。感動・感激がなくなると老いていくものだ。 また、刺激を安直な肉体的欲求(食欲・性欲・物が欲しい)に求めてばかりいると、精神は堕落する。 人間の精神が高みにあれば、他人との衝突はなくなっていくもの。 例えば、商品部と販売部が揉めている場合、双方の上に位置する事業本部の目線で戦略を見直すと、解決策は出てくる。

第63話 ◇ 易経••••••
上経(30卦)は自然の法則を基にし、下経(34卦)に入るとそれを人間に適用して、再度原理原則を繰り返している。そして合計64卦ができている。またそれらは大変に実践行動的。 易を学ぶと、萎縮したり軽率に思い上がったりできなくなる。 易を知らないと、成功したら成功したで、失敗したら失敗したで、それっきりになる。が、易を学ぶと縦横自在であり、行き詰まって落胆失望することなく、有頂天になって慢心することもない。 …実に偉大であり、恐ろしくもある。 易には六義ある。 1.変化 2.普遍 3.明らか 4.神秘 5.伸びる 6.治める 以上は、稽古している技の話ではなく、易の話。しかし、主語が技になっても当てはまる。同じ。鍛錬・修養を「倦むこと無かれ!」。

第62話 ◇ 修正版。おみくじ••••••
大吉、中吉、小吉→吉の大小を言い、大吉だから嬉しい、小吉だから情けないというのは誤解。 「大」は、陰陽で言えば陽で、分化・発展・進歩を表すから、計量的には大となる。 「小」は、陰で、統一・含蓄・潜蔵を表すから、計量的には小となる。 「中」は、「中庸」等で説かれるように、矛盾を克服して一段発展させる意。 「末」は、先、将来。 「大 吉」→分化・発展・進歩という陽に進むがよろしい。 「小 吉」→統一・含蓄・潜蔵という陰に進むがよろしい。 「中 吉」→矛盾を克服し、一段発展させるがよろしい。 「末 吉」→継続した努力を、コツコツ重ねるのがよろしい。 「大凶」→分化・発展・進歩という陽に進むがよくない。自身の修養・自省、周囲への労い、蓄財へと向かうのがよい。

第61話 ◇ おみくじ••••••
大吉、中吉、小吉→吉の大小を言い、大吉だから嬉しい、小吉だから情けないというのは誤解。 「大」は、陰陽で言えば陽で、分化・発展・進歩を表すから、計量的には大となる。 「小」は、陰で、統一・含蓄・潜蔵を表すから、計量的には小となる。 「中」は、「中庸」等で説かれるように、矛盾を克服して一段落発展させる意。ほどよく真ん中という意味ではない。 「大吉」→分化・発展・進歩という陽的に進むがよろしい。 「小吉」→統一・含蓄・潜蔵という陰的に進むがよろしい。 「中吉」→矛盾を克服し、一段発展させるがよろしい。

第60話 ◇ ジャン・クリストフ••••••
岩波文庫で4冊組。計2,300ページ程の長編。 1日13ページ読めば、半年で読破可。 「毎日自分との約束を守る」という習慣。 読書も、筋トレと同じく、継続は力なり。 ジャン・クリストフより… 第8巻 女友達 「君たちは少しも同情をうける資格はない。 幸福になるべき方法がそんなにたくさんあるのに、愚痴ばかりこぼすのは不都合なことだ」。 第10巻 新しき日 「前進し、なお遠くへ行き、なお高く登ることだ。そうすれば、先に立って進むことにこちらで疲れるよりも、犬どものほうでついて来ることに疲れるだろう。…実を結ばぬ木は苦しめられない。金色の果実を頭にいただいている木だけが、石を投げつけられる」。 皆、自分を見くびるなよ。一人一人がダイヤの原石だ。どれだけ鍛錬できるかにかかっている。 山本有三「路傍の石」…「たったひとりしかいない自分を、たった一度しかない人生を、本当に生かさなかったら、人間、生まれてきた甲斐がないじゃないか」 お互い切磋琢磨していこう。

第59話 ◇ 敬」。後生畏るべし(こうせいおそるべし)••••••「
「後生」とは、後に生まれた人。後輩。 論語9-23…「後生畏るべし。焉んぞ来者の今に如かざるを知らんや」(無限の可能性を秘めた若者の存在を畏れるべきだ。今の我々の水準に及ばないなどと、どうして分かるものか)。 「敬」の意味3つ→高い、慎む、敬う 「敬」の対象3つ→人(上下)、物、事(仕事)、自分 敬愛の心…佐藤一斎の「言志四録」から紹介 →敬愛の心とは、天地が万物を生成化育する心。草木を生育したり、鳥や虫を生育するのも、この敬愛の心を推し進めることに他ならない。 →仁に同じ。 草木禽虫(きんちゅう)を愛するとは分かるだろうが、敬するとは? →中江藤樹は「孝経解義(こうきょうかいぎ)」の中で、「敬は上をうやまい、下を侮(あなど)らざる義なり」と言う。 →敬は上の人をうやまうだけでなく、下の者も侮ることなく、その長所美点を尊敬する。 →草木禽虫について言えば、我が子を育むように大切にするということ。 「敬」は、人間関係の上だけでなく、仕事(論語1-5)や物に対しても大切な徳。仁と同じなのだから。 →敬の極致は自分が自己を敬すること(論語14-44)…「己を修めて以て敬す」→己の心身を修めて、己にあるものを敬する→己自身が常により高いものを求めて、建設的・積極的に生きようとする態度が、自己に対する敬→つつしむ、いましむ 己の中の良心・理性・我を敬する人にして初めて、人・物・事を敬する事ができる。 武の道も社会も然り。敬=仁の徳を根源とし、私達の積極的活動により実現する。「倦むこと無かれ!(論語13-1)」。

道場法話 2015年度 1月

第58話 ◇ 私的生活と公的生活••••••
根っこには「仁(生成化育の働き、思いやり、寛容さ、忍耐強さ)」がなきゃいけない。 その根っこから、私的生活(家庭、プライベート)と公的生活(社会生活、学生生活)か出てくる。 私的生活においては、反省したり謙虚さを持つ事は大切。だが、公的生活はむしろ逆。過去にとらわれず、積極的にいろんな事に立ち向かう強さ(実行力、継続力、忍耐力)が非常に重要。 根っこは忘れてはいけないが、自分が悪いと反省ばかりしたり、引っ込み思案な優しい態度だけじゃ、アホな連中に付け込まれる。 仁(思いやり、万物を生成化育させる働き)と強さを大切に。積極的態度と建設的思考を大切に。 武とは、その人間の行う悪を憎み、それを断固として排除する強い態度で臨み、悔い改めれば仁の態度で接すること。 善人は団結しにくく、自罰的で引っ込み思案が多いので、最初から話にならない。 むしろ、すぐに団結し、攻撃的で何があってもへこたれない悪人の態度(あくまでも態度であり、悪人になれと言うのではない)の方が、公的生活を治めていく上では有用だ。 根っこの「仁」を背骨に据えれば、愚かな善人などという弱者を演じることは不要だ。つまらないものに噛み付くのではなく、強者として歩もう。 。

第57話 ◇ 時間管理と記憶力••••••
毎日の生活パターン、リズム、習慣、態度が素の自分→人生を決定する。 ・自分との約束を守る ・勤勉さ ・継続する習慣 省…まずは自分の1日の時間の使い方を「かえりみる」。 →棒グラフ󾕊や、円グラフで視覚化。 例)起床してから家を出るまで、何分の空き時間があるか?夕食から入浴までは?寝る前の1時間の使い方は?総勉強時間は? つまらないものを「はぶく」。 例)スマホ、ネット、TV、ゲーム等の時間を短縮 →その後は「FEG目標管理シート」活用 時間には種類がある。 →1時間以上のまとまった時間 →30分程度のまとまった時間 →10分前後の細切れの時間…この時間の使い方が重要。 cf)記憶力 →エビングハウスの忘却曲線(最初の20分で42%忘れる。60分で56%、9時間で64%忘れる…) →短期記憶〜中期記憶〜長期記憶への定着させるには「反復(よく使うこと)」が何より重要…覚えたいことは、最初に覚えてから9時間後までに反復。習慣と訓練で必ず記憶力は飛躍的に上がる。 脳のクセを利用…「できると確信したことは、必ずできるようになる」→脳はその必要があると判断すれば、その能力を飛躍的に向上させる器官。 暗記…時間を決める。五感をフルに使う(音読、筆記、身体を動かしながら等。→隙間時間(10分程)で行う)。姿勢、呼吸をきちんと。集中して。

第56話 ◇ 韻律••••••
生命、到る所に韻律がある。優れた韻律は共鳴を呼び、枯渇を潤していく。 私達ひとりひとりの韻律は、鼓動から始まる。韻律とは、私達の内に厳粛に存在して働く、止むに止まれぬ絶対至上命令である。 自分の韻律に感激してこそ、人間の瑞々しさは発揚し、創造は躍進する。 稽古においても、姿勢・仕草・呼吸・技術…どれをとっても、韻律、共鳴、潤いを含むことが大切。

第55話 ◇ 老=秀→矍鑠(かくしゃく)••••••
現代の日本において「老い」はNG。「若さ」の礼賛しかない。それは死生観を持たない人達が多いからだ。消費社会は、物事を単純に割り切るだけで「どのように生き、どのように死ぬか」を直視しない。 私達の生老死は、自然の法則。それなのに、老死を否定する人間に、人間らしい人生はあるのか? 生老死とは、単なる肉体の問題であり、人間論ではない。 多くの日本人の言う「若さ」とは「生物学的若さ」であり「人間的・精神的若さ」ではない。 端的に言えば、私達は20歳までは自然の力により生物学的に成長が与えられる。その成長が止まってからが自分の人生だ。死ぬまでどう肉体と精神を鍛錬・錬成するか。「どう死ぬか。どう生きるか」を考えず、経済的利益と自己の楽しみという価値観しか持たないなら、賢さも成熟もやってこない。 健康は、若さにしがみつくためにあるのではなく、老いて、良い死を迎えるためにある。若さにしがみつくのはただのコンプレックスでしかない。必要なのは死を見つめることで生き方を定め、不惜身命の気迫で進むことだ。そうすれば、老いれば老いる程、賢く、成熟していく。若さを求めるだけで、成熟することを忘れてはいけない。学識も知恵も成熟もない若さとは「未熟」なだけだ。若さに憧れるのは幼稚である。「老」とは「秀」である。成熟に憧れ、情熱を抱いて生きる人達こそ、魅力的な老人となる。 人間が死ぬ時に問われるのは、テレビやスマホにどれだけ時間を使ったかではない。魂の成熟だ。どれくらい「涙」について知っているかだ。 そもそも、知恵も成熟もない長生きだけの老人を、若者が尊敬などできるわけがない。単に肉体的若さを保とうとする老人に、人間としての尊さが存在するのか。自己に固執する人間はいくつになっても幼稚に見える。 老いを悪く捉えるのは、消費社会の罪悪だ。現代日本では老人=弱者を意味する。しかし、弱者とはその人の生き方の結果に過ぎず、個人の問題だ。老いとは、より賢く成熟していくことであり、本来老人は弱者などではない。 歴史的にも社会的にも、社会は老人中心の方が安定する。若者中心の社会は軽薄か争乱の時代だ。 長く生きたいのは、年を取りたいからではなく、最後まで成長・共栄・調和という成熟に向かいたいからではないか?その気概を持って生きることを「矍鑠(かくしゃく)」と祖先は言った。

第54話 ◇ 「疒」に「知識」で「痴」••••••
知…物事をはっきり割り切る頭の良さ 例)水は→ H₂O しかし、現実には 様々な成分を含み、H₂Oという水はほぼ存在しない。硬水、軟水、水素水、インドの水、イギリスの水、美味しい水、腹を壊す水…。 複雑で無限定、大事なものを捨てて抽象化して簡易化する。簡単に割り切ることは、非常に危険。一見明瞭な気がするから、一応満足する。が、明確にさせる代わりに複雑なものが捨てられてしまう。これは非常に愚かなこと。 →簡単に割り切る人達は、事業経営も社会福祉も歴史の進行も人生も、非常に複雑だということを忘れる。 そういう過ちを避けるために、 →「省(かえりみる、はぶく)」 →「敏」…素質、能力をフルに使う →「謙虚」に人、古典、歴史に学ぶ 本筋は、成長・共栄・調和。無限の造化であり変化。固まってしまってはいけない。自己を豊かにどこまでも発達させていこうと思えば、創造力変化力が必要だ。 職人として若くして一本立ちするのは素晴らしいが、精神や人格が硬化してはいけない。「若朽・老朽(じゃっきゅう・ろうきゅう)…覇気が無く、役に立たないこと」は恥と考えるべきだ。 政治も経済も医療も教育も文化も…学問、経験、修練、感動、肚が坐った、いわゆる人間のできた人でなければ、各運営ができなくなってくる。どの業界もそういう「人」が不足している。 「ただの筋肉マニア」、「ただの人体操作のプロ」、「ただのお山の大将」に興味を持つ必要はない。 己を磨き、周囲を照らせ。 本日の稽古も、お互い切磋琢磨していきたい。

第53話 ◇ 韻律••••••
生命、到る所に韻律がある。優れた韻律は共鳴を呼び、枯渇を潤していく。 私達ひとりひとりの韻律は、鼓動から始まる。韻律とは、私達の内に厳粛に存在して働く、止むに止まれぬ絶対至上命令である。 自分の韻律に感激してこそ、人間の瑞々しさは発揚し、創造は躍進する。 稽古においても、姿勢・仕草・呼吸・技術…どれをとっても、韻律、共鳴、潤いを含むことが大切。

第52話 ◇ 自力主体••••••
私達が、まず知らなければならない人としての要諦とは何か?…それは、この社会に送り出されてきた「自分の尊さを自覚する」ことではないか。 釈尊が「天上天下唯我独尊」と言ったのは、暴走族のお前たちのような「思い上がり」からではない。 自分が、かけがえのない存在であり、人生は一度きりという事に気付けば、自分を取り巻く森羅万象全ての尊さと偉大さに、畏敬の念を持たざるをえない。真の「独尊」に気付かなければ、森羅万象の計り知れない強さも優しさも気付くわけはない。 このような私達の自覚のもとに世界が現れ、人生が現れ、生活、道を考え、生きる上での意義や力を渇望するようになる。 そこで父母とは別に、師友を求める。志を高く持ち、良き師、良き友と切磋琢磨することで、自分を全うできるようになる。 父母に恵まれないのは不幸かもしれないが、良き師、良き友と交われないのは不幸だけででなく不徳。 私達が外の刺激ばかりに反応し、心を奪われて、価値といえば「唯物的」か「好き嫌い」しかないなら、過去5,000年の先哲から何を学び、何を未来に引き渡せるというのだろう?自分を見失いながら、外から得られるものにロクなものはない。 あらゆる成長・進歩の世界は、自分が自分に返る(省、自反)ところから築き上げられる。自反という一人一人の心を通じて発達する。個人の尊さ・偉大さの上に、生活・社会・国家・人類の一切がかかっている。 お前達の特攻服に書いてある「誠」も、自反・省(自らをかえりみて、つまらないものをはぶく)から考えるのが本筋だ。 偽りとは自分を偽ること。自分を偽らず、自分の良心に従うことを「誠」と言う。

第51話 ◇ 稽古初め••••••
数を数えるとき、親指から順に指を折って数えていくと、6のときに小指が立つ。「小指(子供)が立つ」ということで、6歳の6月6日が芸事の稽古初めという説がある。 6に因み、新年の稽古初めは1/6、即ち今夜だ。 ・動的ストレッチ ・筋トレ
・受身 ・剛法(左右、裏表、前後、天地の8種)…陽 ・柔法(左右、前後の4種)…陰 
 相手が攻撃(剛柔)を仕掛ける。 「剛法」…受けて繋ぐ。位置取りとタイミング。
「柔法」…相手の力を受けて、自分の身体を通して相手へ繋ぐ力の流れ。一体感。「やった感」のない方が身体の使い方がより自然。つまり強い。 
剛柔どちらも、形を覚えたら実際に動いた時の体感に重きを置いて数をかける。上達していくに連れ、体感も変わる。言葉に引っ張られないこと。会得とは頭の理解では終わらない。体感。実践。数をかける。 甘い、ぬるいは不要。 己の内側から、歯を食いしばって、汗を振り絞って、根性も勇気も力も声も出す姿勢を貫く。

第50話 ◇ 生徒の勉強②••••••
「君子豹変す」「大人虎変す」。豹よりも虎の体毛の方が美しく鮮やかな金色に生え変わる。何れにしても、「ここぞという時に本来の面目を発揮する」という良い意味で使われる言葉。 
生徒の「いじめ」「勉強」「家庭」の問題は、学校を卒業して社会人になると解消することもあるが、当人にとっては今の処し方が一大事。 「いじめ」…自分の尊厳は自分で守る。相手と正面から話す、怒りを表わすなど、勇気がいるが、やる価値はある。いじめられた傷は、大人になっても残る。何年も経つのに、その時の卑劣な連中のせいで感情を動かされるのは、悔しくないだろうか。 大人になっても、職場でいじめがあるかもしれない。周囲に相談してダメなら、自分で自分を守るしかない。私は己の意思を曲げてまで、その集団に合わせる事はしない。 悩んで状況が変わらなければ、他のことを考え、己の研鑽(心技体)に没頭するのもありだ。 
「勉強」…悩みを箇条書きで書き出し、一つずつ対策を考える。何がどのようにダメか、その改善方法を考える。勉強の目的は何か、目的達成に必要なことは何か、どうすれば達成できるか、あとは実行と継続あるのみ。実行・継続する精神力が重要。 物事を実現する方法は、子供も大人も基本は変わらない。「明確な目標」に向かって、どうすればいいのか計画し、期限を決めて実行。そのための忍耐力・実行力・継続力・根性を鍛えることが学生時代の勉強だと割り切ってもいい。 自分はダメだと思うなら、能力があっても失敗する。言い訳に長けた大人になりたいのだろうか?どこかで自分の殻を破らなければならない。それは「今」しかない。勇気が欲しいなら、勇気ある男のように振る舞う。なりたい自分の心はどんなものだろう。その心の通りに振る舞うこと。自分との約束は必ず守ることで自信を育んでいく。 
「家庭」…親は敬う。まず孝行の対象。生成化育・造化そのもの。しかし完璧な存在というわけではない。年だけ重ねて、頭や精神は子供という大人も多い。残念ながら、一般的な大人は言葉と行動が一致しない。「その程度なのか?」と思うだろうが、その程度の大人が多い。「教」とは率先垂範を指す。自ら手本とならない教師も多い。が、反面教師も教師も、その価値に違いはない。 生きるとは複雑極まりない。己を強く持ち、全てを自分の人生を切り拓く糧とする。今こそ、豹変虎変の時。

第49話 ◇ (参考)生徒の勉強①••••••
学校(高校まで)の勉強の復習と、予習の仕方。参考に。 大切なのは、目標を明確にすることと、決めたことを続ける精神力、忍耐力、実行力、根性。資質よりも継続した努力。 <復習> 1.授業中ノートをちゃんと取る 2.放課後か帰宅してから、ノート見て今日の授業の再現(映画を早送りするように)。思い出したことをノートにメモする。 3.全科目やる(1科目につき1〜5分) 4.課題はやる(嫌な科目なら、忍耐力・継続力・実行力・根性を鍛えていると考える) <予習> 1.次の授業、先生がどこを重視するか予想して、授業をイメージ(1〜5分)。 2.キーワードになると予想した言葉を、ノートに書き込む。 3.授業を受けて、予想が当たったか外れたか。予想ゲームにする(1ヶ月もやれば、大抵当たるようになる)。 ・復習の方が大切。 ・試験前は、問題解いて、できない問題はノートに戻るか、先生・できる友人に相談。 ・易しい参考書、薄い問題集、それぞれ1冊ずつ徹底的にやりこむ。 <自習> ・60分間でどれだけ学べたか常に意識する。 ・記憶は五感を駆使。まず音読。立って音読、座って音読(参考書やテキストは2回音読) ・就寝前に短時間暗記、起床後短時間復習。 ・長時間(量)より集中力(質)。 ・目標を明確にして書き出し、張り出す。 ・省(かえり)みて、つまらないものは省(はぶ)く。 ・電車、バス、トイレ、風呂、ベッドでの短時間勉強。 ・ノートの取り方(別途) ・できるだけ自分の生活に結びつけ、活かすようにする。 ・「四書五経」を読み込む…実践・具体化すること。

第48話 ◇ 孝 背負う••••••
孝…老と子を合わせた漢字。長幼の連続・統合。長幼の繋がりや横の繋がりが断絶すると、様々な争乱が起こり自滅へと向かう。 孝とは連続・統合を大切にすること(詳しくは、論語活学講座にて)。 そこでふと、先祖の数を考えてみる。 私達の父母(計2名)がいなければ、私達は存在しなかった。私達の1代前は、父と母の2人。2代前は父の父母、母の父母で、合計4人と考えると、私達のn代前には「2のn乗」の数の先祖がいることになる。  1世代を25年とすれば、10代遡ると250年。この間の先祖の数の累計は…。 1代前…2人   2代前…4人(累計6人) 3代前…8人(累計14人) 5代前…32人(累計62人) 10代前…1,024人(累計2,046人) そして、20代前…1,048,576人(累計2,097,150人) ※この計算方法は、先祖に共通の親は絶対にいないということを前提としている点で、正確ではない。本来は、世代が重なるにつれて先祖が重複する可能性が増える。兄弟親戚では少なかったかもしれないが、血縁関係が薄くなるにつれ、先祖が重なるという可能性は高くなる。 いずれにしても、「この人がいなければ、今の自分の存在はない」という先祖が多数いたことは事実だ。人類誕生、生命誕生以来、連綿と「命のリレー」が行われてきた結果、今の私達がいる。 あなたは人見知りが激しい? 上記の様に考えれば、人類皆兄弟どころか、生命皆身内だ。 そして私達ひとりひとりは、少なくとも1,000人以上の先祖(つまり、多数)の「しっかり生きて子孫にバトンをつないでくれ!」という想いと、そのための潜在能力を受け継いでいる。 私達「1,000人を背負っている者同士」が、こうして顔を突き合わせて同じ時代に生きている。1,000人が背中を支えてくれている意味を考えて、今日の稽古も楽しみたい。

第47話 ◇ 初詣の後に••••••
「仕事は祈りである」 「仕事」の部分を何に置き換えても成り立つものにしたい。 ・稽古は祈りである ・筋トレは祈りである ・学問は祈りである 等 己の仕事において、最善を尽くすのは当たり前のことである。しかし、最善では足りない。 人間の知性・技術の限界を知った上で、無我・不惜身命の努力で最善を尽くし、その上で天に跪(ひざまず)き、成功を祈る姿。 そこに、人間としての尊さがある。 「不惜身命・無我・最善の努力→祈る」 この姿勢を「楽しむ」と言う。 2016年、楽しみましょう。 本年も何卒宜しくお願い致します。

道場法話 2015年度 12月

第46話 ◇ お辞儀••••••(2)
深くお辞儀をさせて頂きます。 お辞儀とは「吾を以て汝を敬し、汝を以て吾を敬す」と仏典にあります。 つまり、「自分が相手に敬意を表すると同時に、相手を通じて自分が自分に対して敬意を表する」ことがお辞儀をするという事です。 お辞儀をするということは、お互いに敬い合うということであり、自分から他者に挨拶するということは、同時に他を通じて自己を敬すということになります。 そこにお辞儀の意義があります。 改めて、お互いにお辞儀で締めくくりたいと思います。 本年も大変お世話になりました。 どうか、みなさんの年末年始、よい時間を過ごせますよう、心より願っております。

第45話 ◇ 力••••••
少林寺拳法の道訓は「道は天より生じ…」と始まる。 「天」や「道」とは何を意味するか? 天とは、 1.まずは人間の社会の有限に対する「無限」を表す 2.同時に、「創造」、生みの力を表す。 即ち、天はそれ自身が無限であるがゆえに、万物の生成化育である。 3.生成化育化育とはまた、限りない「変化」である。 これら、「無限」「創造」「変化」が天を意味し、そこから様々な自然観・社会観・人間観を生み出してきた。だから、天を知らなければならない。天は人間の自由にできるものではなく、「絶対」なもの。天の絶対的な働きを「命」という。 だから命とは「絶対」なものであり、その変わらない原理原則に従って、いかに人生を変えていくかという「活動」「実践」である。 この「活動・実践」を「道」という。それが人間に現れたものを「徳」という。これらを結んで「道徳」という。 天道や道徳が、人間の様々な社会活動に現れたものを「功(業)」という。 「天・道・徳・功(業)」が人間社会を動かしていく四つの基本概念。 力も、唯物的な腕力等のただの力では甚だ未熟。力が「功→徳→道」へ近づき、根ざすほど本当の力になる。 唯物的な力はダメ。教育力、経済力、政治力、防衛力等の力になるほど、本物の力と言える。それが進んで「徳力」「道力」になれば、自然、根本的で最も意義ある力となる。 天からみて納得できるようなものでなければ「道力」ではない。 私たちは稽古で、唯物的な力だけを鍛えているとしたら、その稽古は未熟過ぎる。 力とは何であるか? 自らを省み、つまらないものは省いてゆきたい。

第44話 ◇ 朝が全て••••••(2)
1. 朝、布団の中で意識が覚め、目が覚めて、布団から出て立ち上がるまで5秒以内。隣に子供がいたら10秒以内。隣に女がいたら、…私より遅くまで寝てる女…まぁどうでもいい。すぐに顔洗って、外で深呼吸。素振りかジョギングを終えてシャワーを浴びる。朝食を取りながら、仕事でも学問でもデートでも…、食卓の話題は尽きない。 2. 朝、布団の中で意識が覚め、目が覚めたら、布団を抱くか隣の女を抱くか。布団の中で可能な限り惰眠を貪る。 例えばこうやって朝を比べてみたら、「朝が全て」という意味が分かる。朝の来なかった人に、一日はやって来ない。朝、意識が目覚めてから布団を出るまで5秒以上かかる人は、是非1.を試して欲しい。 5秒以内に立ち上がるなんてできないと主張する? 起きなきゃ家族が死んでしまうとしても?起きたら10億円手に入るとしても?…条件次第でできるかできないかコロコロ変わるなら、「やる」という覚悟がないだけだ。「やる」と覚悟を決めて、やって欲しいな。 「やる」と覚悟を決めて本気になったら、男なんて3日で変わる。日常生活・社会生活を他人と比較不可能な努力や負けじ魂で過ごすようになる。 ということで、おはようございます。

第43話 ◇ 2015最終稽古••••••
私達は学問・稽古・教養と、社会での実践を分けて考える癖を持つ。学問や教養は学校でやるもの。稽古は道場でやるものと。そうすると、勉強が終われば、社会に出て実践だという安易・浅薄な考えになる。 そんな安易だから、学校を出て数年すると、多くは馬鹿になったり、小賢しくなったりして、人間がダメになる。 私達はいつでも、一つの終わりは次の始まりという心構えで時習していかなければならない。 「人は終わりに近づくことを憂うるなかれ。いまだかつて始めらしい始めを持たないことを反省せよ」と言われる。私達も「俺は今まで何を始め、何を成してきたか。これからやるぞ!」という気概を持たなければならない。 従って、今年の成績の悪さを悔やむ必要はない。悪ければ来年、負けじ魂を持って勇敢にやっていけばいい。まず己を省みて、つまらないことを省いていく。そこで初めて、新たな覚悟で学問・仕事ができる。 一つ目標を立て、「やる」と決める。「やる」と決めたことを、日々果たしていく。それを長年継続していく行動にこそ、自信は生まれる。 皆、今年はよく成長したと断言できる。 来年、他人とは比較不可能なケタ違いの努力で、仕事も学問も挑んで頂きたい。 2015年、お疲れぃ!

第42話 ◇ 自信••••••
自信は、言葉や思想・価値観を学んだからといって身に付くものでは無い。 そもそも、人間と他の動物との違いは、「敬」と「恥」という心を持つか持たないかにある。 本来人間は、他に対する「敬い」の心と、卑怯・臆病・怠惰…な態度や行動は「恥ずかしい」と感じる心を持つ。 つまり、 ・私たちは、弱い自分や甘い自分(恥ずかしい自分)に打ち克(か)っていく強い心、克己心というものを本来持っている。 克己心の根底に持つべきは「喜神(どんな状況でも心のどこかで、楽しめる・嬉しがる・感謝する・感激できる)」…「敬」でありたい。 そして、 ・心の奥に常に喜神を持ち、克己心を養いながら(自分との約束を守る)、長年継続して取り組む「行動」に自信は付いてくる。まさに「継続は力なり」「継続は自信なり」。 結局、 楽をしたり(卑怯・臆病・怠惰)、短期間で身につくものに大したものはない。 最初は小さく始め、人や目標によって負荷の度合いは違うが、「継続する」という行動と、「自分で決めたことはやり抜く」という根性・負けじ魂とが渾然となって自信は培われる。 ※自信を付ける ・「自分との約束を守る」(克己心) ・「継続」(行動) →私たちに本来備わっている能力である。

第41話 ◇ 世の中は広い。上には上がいる。••••••
先日、紹介を受けて、アメリカ人のある黒人男性に会った(日本語ペラペラでした)。上腕の腕回り65cm。女性のウエストより太い。 ※ギネス認定者は79cm。限りなく上には上がいる。笑 成り行きで腕相撲する事になった。 私の成績は、20戦20敗(全敗)。 格闘技歴10年程というので場所を移して乱捕りも行う。 2戦2勝(腕相撲の雪辱を晴らすべく、20戦するつもりだったが)。 悪魔だと彼から言われ、釈明する事になった…。 ・脳には「できると思え!」と指令を出す事で、脳は身体の器官の性能を向上させる。 能力のリミッターを外す。 ・死の覚悟…無我、集中 ・潜在意識、集合無意識との交流 ・負けじ魂、根性、継続してきた行動からの自信 これらが渾然となって明確な目標とモチベーションとなり、己を動かすという事を伝え、悪魔を否定できないが、乱捕りと悪魔は関係ないと伝えた。 彼と共感を得られたことは、 ・「死中有活(窮地に於いては、死を超越した覚悟で臨む事で道が拓ける)」 ・「地下百尺の心(人間とは、棺桶の中に入れられ、上から蓋をされ、釘を打たれ、土の中へ埋められてそれからの負けじ魂がなければ、大した役には立たない) ・「百尺竿頭に須く歩を進め、十方世界に全身を現ずべし(工夫・尽力を尽くしに尽くして、さらに尽力し、更に一歩進め己を社会の進運に役立たせる)」 そして、彼から筋トレと、その心得を教わった。 ・この30年1日も筋トレを休んだ日はない。 ・人より優るのは簡単だ。人より苦しい思いをすればいい。 ・雨風や暑い寒いでトレーニングを休むなんて、そんな幼稚さは捨てた。 ・自分を鍛えないのは、自分と神への裏切りだ。 ・筋トレは回数じゃない。身体が動かなくなるまで追い込む。 ・筋トレの苦しさが、人生の楽しさを教えてくれる。 ・人とは比べない。圧倒的な差をつけて、人から比べさせない。 変えないのも自分。変えるのも自分。 ただ、鍛錬で人は必ず変わる。 彼との約3時間、いい出会いだった。

第40話 ◇ 主体性!主体性!主体性!••••••
・死の覚悟
・明確な目標とモチベーション
・主体性を持つ
・やせ我慢(克己心)
・5分、10分…細かい時間の使い方→毎日の「継続」の秘訣。

皆、今日も楽しんで!

第39話 ◇ 独••••••
独の本来の意味は「絶対」。誰かとの比較ではなく、絶対的な自己を「独」という。 だから、「独立」とは何ものにも依存することなく、自己自身で立つ、その者自体に於いて存立するという気概・権威ある言葉。 「中立」の本義も同様に、対立する双方のどちらにもテコ入れしないで中間に立つことではなく、その信じるところは絶対で、その時の政策や方便などでは、どちらにも加担しないこと。 「独立」も、相対的な矛盾から離れて孤立することではなく、矛盾や理不尽からつまらない影響を受けることなく超越し、もう一段上に出る創造的進歩・成長をすること。 独立を「孤独」と解するのは誤り。 自己の中に絶対的なものを持つ。そして、それを自覚する。自己の存在の絶対性に徹してこそ、初めて他人を知り、関係性を築き、進歩共栄、調和を図れるようになる。 私達の根本において「独」がなければ、私達の存在自体が曖昧、不安定になる。外にすがるものを求めると、「弱」になる。 独は孤ではない。 私達の成長・共栄・調和のためにも「独」という気概を大切にしていこう。

第38話 ◇ 勝因••••••
少し技を覚えたところで謙虚さを忘れ、いい気になると、おっちょこちょいになる。つまらないことで足元をすくわれる。 これは先日話した「木の五衰」の2番目、「裾上がり(根上がり)」に該当する。その後、どんな道筋を辿るか予想はつくだろう。それを修正するには「省(はぶ)き」「省(かえり)みる」、克己に戻ることだ。 技を小手先でやってしまうと、人生も小手先になる。技を浅薄軽率に割り切ってしまうと、人生の物事も浅薄軽率に割り切るようになる。 人生は非常に複雑な原因・縁・結果の網で、千変万化していく。私達が軽々しく独断することは、とんでもなく愚昧・危険なことである。 単純に因果の論理を進めていく間には、沢山の内容が捨てられてしまう。その中に重要なものがあるかもしれない。 人間の世の中は、何がどういう関係を持つか計り知れない。「自分の専門以外は興味ない」というのは、道理の分からない人間。世の中の因果の微妙さ、複雑さが分からない浅はかな人間だ。「人間万事塞翁が馬」とも言う。何が禍福かをすぐに決められるほど、いい加減、単純なものはない。 情緒、感激、敬、恥、そして義・勇・仁・礼を心掛け、平生から善いもの、善い友、善い書物…何でも善いもの、優れているもの、尊いものには、出来るだけ縁を結んでおく。その上で克己心を鍛え、学問・仕事の専門知識・専門技術の鍛錬陶冶に励む。それを「勝因」と言う。 浅薄軽率に割り切ることを、「敗因」「悪因」と言う。

第37話 ◇ 門下生の成長の余地••••••
・今の状況、環境を自分の心の中に飲み込み、仁を基調として改善し、社会の進運をたすけていくのが仕事→相手を自分のこととして慮り、先回りして動き、相手や周囲の笑顔に役立ったことが一日何回あるかカウントしてみろ。その人数、回数を限りなく上げていく工夫をどれだけ真剣にしている?その規模や数字を上げていくのが仕事だろ?実践しないという喧嘩を売るなら、実践するまで殴り続ける。 ・笑顔で多くの人に挨拶(クライアント、警備、事務、清掃、他のスタッフ…等)挨拶は心を開いて相手に迫る。その本義は相手に敬することで自分を敬する(大切にする)だったことは伝えたはずだ。実践しないという喧嘩を売るなら、実践するまで殴り続ける。 ・専門技術・専門知識(術・智…陽)向上への取り組みと、人格(義・勇・仁・礼、敬・恥…陰)成長への取り組み、実践は?陽対陰の比率は49:51。実践しないという喧嘩を売るなら、実践するまで殴り続ける。 ・少なくとも上記から、「毎日の目標→反省→改善→目標…」は日記等に書き出して自己管理できるはずだ。 周知のように、人間が他の動物と違うのは、「敬」と「恥」という二つの心を根っこに持ってるということだ。そこから日々、「始」を生み出し実践すること。 追随や惰性だけでは倦怠(退屈)に近づく。それは死の予告だ。 私達は「息」しているだろ。「生」きているんだぞ。自分を起点とした成長・共栄・調和が、社会(職場)の成長・共栄・調和になっていなくてどうする? しっかりしなさい。

第36話 ◇ 活学••••••
学問、学ぶ事は大切。学ぶことの広さや深さは際限ない。 しかし、何を学ぶかというよりも、 学ぶことで、自分や周囲をたすけ、成長・共栄・調和へと実践するという姿勢が大切。 教室や研究室での学問に留まらず、学問を通じて会得した事で、実際に世の中の進運をたすけ、成長・共栄・調和への礎となるように、自らが率先して開拓活動を死ぬまで継続していくことが大切。 「自分」という字は、絶対独自の「自」と、繋がりの中の一部分という「分」が合わさったもの。従って、己の成長・共栄・調和はすなわち、社会の成長・共栄・調和でなければ、それは学問とは呼ばない。 私達が稽古の中で、勝負の要諦として相手や周囲との「一体感」を持てという意義もまたそこにある。「活人拳」を表明する以上、私達の稽古も、己を鍛錬陶冶することで、自己と周囲の進運をたすけているということは当然のことである。

第35話 ◇ 子供は幼稚と限定しない••••••
幸田露伴の随筆「洗心廣録(洗心録)」 1.「懐(ふところ)の蒸れ」…枝葉が茂り風通しが悪くなるために木が弱る。 2.「裾(すそ)上がり」…弱ると根が上がってくる。そうすると生長が止まる。伸びなくなる。 3.「梢(うら)枯れ」…末端(梢:こずえ)から枯れてくる。 4.「梢(うら)止まり」…成長が止まる。 5.「虫食い」…生長が止まって、虫がつき始め、木は枯れてゆく。
 木の五衰(樹木の五衰)を起こさないために、先ず大事なことは、枝葉が茂り過ぎない様に「省(かえりみる。はぶく)」すること。道理、原理に基づいた間引き、剪定が必要。 この木の五衰を私達に応用してみる。つまり、人の五衰を考えてみる。 私達人間が枝葉を貪欲・多欲に伸ばし、修養しない。=「省(かえりみる。はぶく)」しない。 →風通しが悪くなる。学ばなくなる…「懐の蒸れ」
→謙虚さを失い、足元が浮つく…「裾上がり」
→人間が軽薄・傲慢になり、ケアレスミスが多くなる…「梢枯れ」
→人間としての成長が止まる…「梢止まり」
→安楽、惰性、ギャンブル…くだらないことに親しむようになる…「虫食い」。 →下衆な連中と連み、没落・自滅していく。 要は、風通しを悪くするから、いつの間にか「悪魔システム」に組み込まれる。 それを防ぐには、自らを常に「省(かえり)みて、余計なものを省(はぶ)き、本来の進歩・向上力の発現に努めること。 つまり、克己(こっき)。幼稚な心を捨て、己(おのれ)に克(か)っていくことで、成長・共栄・調和を体現していく。 →稽古とは、省であり克己でなければならない。

第34話 ◇ (樹)木の五衰(ごすい)••••••
幸田露伴の随筆「洗心廣録(洗心録)」 1.「懐(ふところ)の蒸れ」…枝葉が茂り風通しが悪くなるために木が弱る。 2.「裾(すそ)上がり」…弱ると根が上がってくる。そうすると生長が止まる。伸びなくなる。 3.「梢(うら)枯れ」…末端(梢:こずえ)から枯れてくる。 4.「梢(うら)止まり」…成長が止まる。 5.「虫食い」…生長が止まって、虫がつき始め、木は枯れてゆく。
 木の五衰(樹木の五衰)を起こさないために、先ず大事なことは、枝葉が茂り過ぎない様に「省(かえりみる。はぶく)」すること。道理、原理に基づいた間引き、剪定が必要。 この木の五衰を私達に応用してみる。つまり、人の五衰を考えてみる。 私達人間が枝葉を貪欲・多欲に伸ばし、修養しない。=「省(かえりみる。はぶく)」しない。 →風通しが悪くなる。学ばなくなる…「懐の蒸れ」
→謙虚さを失い、足元が浮つく…「裾上がり」
→人間が軽薄・傲慢になり、ケアレスミスが多くなる…「梢枯れ」
→人間としての成長が止まる…「梢止まり」
→安楽、惰性、ギャンブル…くだらないことに親しむようになる…「虫食い」。 →下衆な連中と連み、没落・自滅していく。 要は、風通しを悪くするから、いつの間にか「悪魔システム」に組み込まれる。 それを防ぐには、自らを常に「省(かえり)みて、余計なものを省(はぶ)き、本来の進歩・向上力の発現に努めること。 つまり、克己(こっき)。幼稚な心を捨て、己(おのれ)に克(か)っていくことで、成長・共栄・調和を体現していく。 →稽古とは、省であり克己でなければならない。

第33話 ◇ 「倦(う)むこと無(な)かれ」••••••
→訳)途中で嫌いになってはいけない。 人間は、自分の思うようにならないと、つい嫌いになりがち。家庭、学校、専門の勉強、会社、政治…どれも時々嫌になる。 勿論私もよく倦む(途中で嫌になることがある)。ただ、「論語」などを読んでいるから、「倦むこと無かれ」という言葉に戒められて、やり直すことができる。 良い師に巡り合えれば幸運だが、なかなか難しい。それでもやはり人間には教えが与えられていた方がいい。 そうすれば、倦んだとしてもまたそこに予期しない広がりや何かを見つけることも可能。 「倦むこと無かれ」は単純な言葉だが、…単純な言葉だからこそ、意味深遠、情理不尽。 劉向「列女伝」に孟母断機の教えがある。 学問を中途半端でやめて帰省してきた孟子に対し、孟子の母が織りかけの織物をハサミで切り、「お前が学問を途中で止めるのは、こうして織物をハサミで切ってしまうのと同じ。学問は絶対必要なもの。それを中途半端で止めるなら、何の役にも立たなくなる」と戒めた故事。 倦むこと無かれ!

第32話 ◇ 洒落(しゃらく)••••••
推古堂剣掃(すいこどうけんすい・明末 陸紹珩(りくしょうこう))にこんな言葉がある。 「高品の人は胸中洒落(しゃらく)、光風霽月(せいげつ)の如し」 洒…洗う。さっぱりしていること。 落…こだわりなく、大まかで線の太いこと。 →訳)品格の高い人は、胸中が洒落で、いかにも雨上がりの日光に輝く草木に吹き渡る風のようだ。 「肝胆相照らせば、天下と共に秋月を分たんと欲す。 意気相許せば、天下と共に春風に坐せんと欲す」 お互いに心の中を打ち明けて、気が合う、精神的にウマが合う人間同士ほど、楽しいことはない。 「天下と共に秋月を分たんと欲す」…秋の月は心が澄んで、清く綺麗だ。 「意気相許せば、天下と共に春風に坐せんと欲す」…男らしい快楽の代表としてよく引用される。 こんな友人はなかなか得られないが、そもそも自分もそれだけの人間にならなければならない。お互いに誇れるよう、修養と活躍を!

第31話 ◇ 紅茶好きの友人の話••••••
「もしも、大好きな紅茶を毎日飲むとしたら、必ず感激は消え失せ、「当たり前」になってしまう。欲望を満たし続けることで感激する心を失う。 だから、大好きな紅茶は、毎日飲めるけれども、週に一回しか飲まないことに決めている」。 彼はこういう些細なことも自己管理できる男だ。 恥ずかしいことに、私は、好きなものを好きなだけ入手し、飽きたら別のものへ興味を移す…。 好きなこと、やりたいことを体現できることが力であり強さであると考えていた時期があった。 これは、無我から来る大欲ではなく、ただの我欲である。力でも強さでもない。無節操なだらしなさであり、弱さである。 「欲しいものは自分の力で手に入れる。その何が悪い?」そんな事を豪語していた、浅はかな自分をぶん殴ってやりたい。 次から次へと唯物的な欲望を満たし続けていくだけなら、人間ではなく動物に堕ちる。自分を管理することの大切さよ。

第30話 ◇ 利き手と反対を使う(呼吸との連動は忘れずに)••••••
利き手と反対の手で写生する 自分の意図を絵に込めるよりも、ただ写すことに没頭しやすい →無我、没我の心境を少し体験しやすい ・別のスイッチが入る(別の見方の体感) 数と時間をかけることで、ブルース・リーではないが「忘れるまで覚える」「考えるな、感じろ」が少し分かる 利き手と反対で ・ゴマ、米等を皿から皿へ一粒づつ箸で移し換えて一列に並べていく ・食事 ・技 ・他

第29話 ◇ 事を処する態度••••••
・まずは実力をつける。安静時には工夫を。 ・心を静かにし、よく形成を見極め、気合いをかけて後、鋭く強く実行する。大上段から圧倒するようにかかる。 東洋の政治学では、人物を徳と才に分ける。 徳…その人間に本質的に備わっているもの 才…能力。頭の働き、腕の働き、知識・技術 徳>才(徳が才に勝っている)→君子(徳人) 徳<才(才が徳に勝っている)→小人(才人) 「君子」…例)西郷隆盛 「小人」…例)勝海舟 ※小人と言うと、良くない言葉に聞こえるが、勝海舟のように大徳・大才を持ち、徳と才を比べると才の勝った男、つまり才人を言う。 「君子(徳人)」…陽剛の徳を持ち、事においては自分の信念を堂々と抵抗を恐れず世間に貫く。言葉は慎む。 もし、君子が妥協的態度で行くと、抵抗勢力や中傷につけこまれて失敗する。 →基本は剛法で処する 「小人(才人)」…機転を利かせ、時に妥協的態度も使いながら、才覚でのし上がり処していく。 もし、小人が陽剛で行こうとすると失敗する。 →基本は柔法で処する

第28話 ◇ 知識・見識・胆識••••••
「知識」…雑学、情報→大した値打ちなし 「見識」…知識・経験等を基にして自分の頭で考え、価値判断できること。 「胆識」…度胸と実行力を伴った見識。 ※「胆識」を備えて、はじめて知識人と呼ぶ。 知があって人があるのではない。人があって知が生まれる。

第27話 ◇ 騙されまい?••••••
権謀術数に長けた者が悪事を行うときに、例えば3つの悪事を成そうとすると、その3倍の9と言う。善人がこれと争い6つを止めても、悪人の目標は3つであったから、彼の作戦に善人は落ちたのであり、しかも善人は悪人の作戦を知ることもない。 しかし、これは臨機応変に用いる方法であり、恒久の道ではない。従って、原理原則にはならない。つまり、こういう詭道に翻弄されること自体が愚かだということになる。 事を為すときには、誠の一字が大切。 「だまされまい」と考えると、大したことができなくなる。「だまされたくない」「心配」などは、一切考えなくてよい。心得ておくこと、学んでおく事は、「権謀術数は、知って用いず」。 武田信玄の旗に掲げられた「風林火山」は、「孫子」から取ったものだが、これはただの形容詞であって、孫子が戦争哲学はもっと前に書かれている。それは「兵は詭道なり」。戦いは、いかに相手を騙すかが根本であると言う。その方法は恐喝恫喝から分裂闘争、友好親善まで自在に変化する。余程注意しないと、終始翻弄されて、その上叩き潰されるというのが常識。 結局は、自分という人間としての器量相応に人物を見分け、任用する。任せた以上は、不慮のことが起きた時は、一緒に心中するほかない。それから先は、考えても分かるものではない。 逆説的だが、覚悟が無ければ活路は見出せないもの。そして、生きた応用のきく学問。活学。物理化学の法則のように、古今東西を問わず、人間の営みにも原理原則がある。学ばないから歴史は繰り返し同じ失敗を繰り返す。 →学ぶだけでは「知識」の段階(続く)

第26話 ◇ 素交と利交••••••
相手を見るときは、 1. 目をじっくり 2. 後姿 3. 仕草・姿勢・呼吸・動作・声色 4. 顔(40歳以上の人) 5. 行動 6. 心 人を、容姿・服装・肩書・職業・年齢・収入・学歴・国籍・性別・人種等で判断することは避ける。 人間同志の交わりについて(五交)cf.儒教 <素交(そこう)と利交(りこう)> 素交…素とは白い生地のこと。地位・名誉・学歴・財産等の修飾を取り去った裸の付き合い。例えば「忘年の交」「忘形の交」。 この時期の忘年会とは、本来はその年の憂さを晴らす飲み会ではなく、文字通り年を忘れる…先輩・後輩の年齢差を超越して心と心との付き合う会。同様に「忘年の形」は、地位や身分などを忘れて交わること。 利交…何らかの利害関係による交わり。文選(もんぜん)という書は、これを五つに分ける。 1. 勢交…勢力に従う付き合い。 2. 賄交…ある目的達成の手段に金品を贈って付き合う。金目当ての付き合い。 3. 談交…話し相手や名声のための付き合い。 4. 窮交(きゅうこう)…うだつの上がらないもの同士の傷の舐め合いの付き合い。 5. 量交…成功や失敗に応じての打算的な付き合い。 「利交」という交を早く絶つ方がよいというので、これは「絶交論」でもある。人間は素交を尊ぶ。 素交会でも立ち上げて、和気藹々とした時間を作って頂きたい。 友…手と手をあわせる。手を繋ぐ。 朋…師が同じ同門。志を同じくした仲間。 自分には相手の親友となる資格があるか。友は私を誇れるだろうかと自問する今日この頃。 皆には親友がいますか? 尚友(書物を読んで昔の賢人を友とすること)を持っていますか?

第25話 ◇ 祝 出発••••••
失敗、おめでとう。 その失敗は、真剣に全力で取り組まなかったか、それ以外が原因の自分の責任。 もし、自分が浅はかだったという自覚が生まれ、心と行動を変えられたのたなら、大収穫だ。失敗おめでとう。 だがもし、その自覚が生まれなかったら、残念だが成長はまだない。成長・変化するまでには、まだまだ同じような失敗を経験することになる。自分で自分を潰すようなことがないといいな。 失敗を踏み台にして、当たり前のようにまた立ち上がって、今度は真剣に、粘り強く、元気溌剌として進んでゆく。集中して無我になって、次の目標に体当りを食らわして下さい。「あの時の失敗のおかげで!」と言えるよう頑張って下さい。 忍耐力、集中力、真剣さ、創意工夫、全力を尽くすことを学んだら、今回の失敗は大収穫。行き詰まることなく、次に繋がる。 「天行は健なり。君子、自強して息まず」だ。

第24話 ◇ 楽器••••••
雑音や騒音はすぐ消えるが、精神や技術が統一され内面化されたようなものには、非常な力がある。 音楽ばかりでなく、音楽を生み出す人間そのものが一つの楽器と考えていいと思う。だから、心のことを「心琴」ともいう。 人と交わることは、自分という楽器をその人に触れさせることだ。 が、最近は楽器のような人が少ない。音楽を出さない。だから、人間ができてくれば、その人はどこか音楽的であり、リズムや風韻がある。 だから、声音もとても大切。声からその人間の健康・心理・徳の状態まで分かる。その学問が声楽。 含み、含蓄のない声、外へ出っ放しの声、内容のない声、金切り声、かすれ声はあまり良くない。 いい声は「雲遮月(うんしゃげつ)」…月の光が輝かないで、薄雲がかかり、ほのかに月の光が漏れる。そういう声が良いと言う。 なかなか難しい声だ。 気合いは、雷のように。稲光りのように。日本刀のように。

第23話 ◇ 正座••••••
先週末の3時間半の正座。 その後立ち上がって歩くときの、己の心と身体。自分で納得できる心、納得できる立居振舞でしたか? 意外と身近なところで、思わぬ心を露呈するかもしれません。 道場法話 メモ…3S政策(Wikipedia参照) <3S政策(さんエスせいさく)> Screen(スクリーン=映画) Sport(スポーツ=プロスポーツ) Sex(セックス=性産業) これら3つを用いて大衆の関心を政治に向けさせないようにして、家庭教育・躾・学問・歴史・信念・理想等を捨てさせる愚民政策。 この政策により、日本では性風俗が開放され、映画やエンターテインメントが興隆し、プロ野球をはじめとするスポーツが国民行事となった。スクリーン(映画)、スポーツ、セックス(性産業)またはスピード(クルマ)は大衆の欲望動員による娯楽であるが、それらに目を向けさせることにより、民衆が感じている社会生活上の様々な不安や、政治への関心を逸らさせて大衆を操作し得る。 戦後、アメリカが日本支配のために採った政策の一つ。 愚民政策から70年。 気をつけたい。

第22話 ◇ 新入門に泣く••••••
何より辛いのは、せっかく人として生まれきていながら、世の中の役に立たず、自分で告白したように、あなたはただ他人を傷付けて生きてきたということ。 近くに励ましてくれる人が誰もいなかったことは残念だった。だからあなたは、外見や肩書や点数や容姿で、自分も他人も評価するようになったのかもしれない。 しかし今夜、私たちのために防具を運んでくれたあなたのいたわりに、一緒に道場を作務(掃除)してくれたあなたの親切に、私たちは頭を垂れる。 相手へのいたわりや親切は、人として生きていく上で最高ものだ。 だが、そんな力をあなたは自覚することなく過ごしてきたらしい。あなたのいたわりや親切の点数は、渡してくてた履歴書にも記載されていない。 こう言うのは辛いが、心が冷えているから、人の世はひとりひとり別々だとあなたは言い切ってしまう。そんな世の中は淋しいことに気付いてないなに、頼れるのは己だけという気持ちは持っているから、弱肉強食の生存競争ばかり考えてきたのだろう。あなたの持つ破壊力は大きくなるだろうから、そろそろ自滅すると思う。 心に少し留めて頂きたいことがある。 過去はもういいから、顔を上げて前を向いて歩いて欲しい。臆病・卑怯・怠惰な自分に勝ちをおさめられるよう己を鍛え、あなたの本性を発揮して、世の役に立つ人間になった方が楽しいのではないか?

第21話 ◇ 集中力••••••
集中力を高める訓練(一例) ・やるべき事を明確にする ・25分タイマーセット ・25分間集中して一つを行う ・5分 休憩 この30分間を1セットにして、4セット終了したら15分休憩。 他例1…H26.11.26ノート参照。 他例2…坐禅 さて、挨拶とは己の心を開き相手に迫ることだ。…相手に礼することで自分を礼し、自分に礼することで相手を礼する。それを形に表したものが挨拶であり、即ち礼である。 道場に一礼したら、また、相手に一礼したら、各々心の中のスイッチが自動的にオンになり、ゾーン(※1)に入らなければいけない。 ※1 ゾーン…極度の集中状態であり、他の思考や感情を忘れてしまうほど、物事に没頭しているような状態を体験する特殊な感覚。 不安や緊張などがひき起こす余計な情報処理を少なくし、 身体感覚に極度に集中することで、心技体が直感的に働き、的確で素早い動きになること。 cf)ピーク・エクスペリエンス(至高体験)…超時間的・超自我的体験とした心理状態。 フロー体験…日常や仕事で経験する「没頭・没我状態」。 物事を極める極意として、「今に集中する」というシンプルな答えがある。 ・書道を始めて半年程度経った人が、「息を吸ったとき、一瞬だけ集中できるようになった」と話してくれた。 ・相手と対峙して構えた時、状況を全部腹の中に飲み込んだような、全部自分の内側に入ったような感覚になった。自分の一部になったのだから、何でも全部自分から積極的に働きかけることができる。 ・頭で記憶するのではなく、手足、身体全部で記憶して、頭で考えずに最短最速で動けるくらい数をかける。 ・自分の隣と上に、それぞれ別の自分が出てきて、状況を客観的に見透せる。先が見え、時間がゆっくり流れている感覚。 ・身体の感覚、心の感覚が一点に集まって、一気に全体を包むように広がっていく感覚。

道場法話 2015年度 11月

第20話 ◇ 論語 学而第一••••••
「終わりを慎み、遠きを追えば、民の徳厚きに帰す」意訳)…過去(終わり)とは単に過ぎ去った時間ではなく、無限に蓄積された宝庫である。現在は過去と結びつき、過去は現在の教訓となる。 現在は過去に養われ、豊かな未来を開花させる。自ずと人は過去に対し謙虚になる。 ここに、古典に親しむ意義がある。 惜しみなく無限に湧き出る酒(教訓)は、我々が味わい、滋養し、未来を開花させ、後進に伝えるために、膨大な数の先人・先哲が、悠久の時間をかけて育て守ってきたものだ。

第19話 ◇ 修行••••••
日常生活・社会生活・思想・武道・学問等、日々の全てのことを、楽しんで(※1.)行い、道理(※2.)と一致させていく。これを修行と言う。日常生活や社会生活からかけ離れたものを修行とは言わない。今の自分から離れない。成長も向上も、自分の足元からしか進まない。 武道の稽古も同じ。鍛えた心身や技は、誰を倒すのかではなく、誰を守り何を活かすかが大切。一人一人、積極的にもっともっと強く、もっともっと豊かにならなくてはいけない。それが道理。 ※1. 楽しんで…義勇仁礼のもと、元気溌剌に、集中して、真剣に、丁寧に、キビキビと、無我の境地で。 ※2. 道理…生成化育の働き。成長(創造・変化)、共栄(仁義)、調和(相対しつつ矛盾を統一して進歩向上していく働き)の働き。

第18話 ◇ 楽しむ…••••••
義勇仁礼のもと、元気溌剌に、集中して、真剣に、丁寧に、キビキビと、健やかに、のびのびと、無我の境地で…等書いた。 2,000年以上前の「孟子」は、「楽しみ」を端的にこう伝えてくれている。 「心に省みて誠なりと確信できる、これこそ最大の楽しみである。しかもその誠の心でつとめて他者を思いやる。仁を体得するのにこれほど手近な方法はない」。 古典を「古い」と言う人達がいる。でも自分で考えもつかなかったこと、知らなかったことを学べるとしたら、それは「新しい」ことだ。 孟子の伝えていることは、古いだろうか?ならば、新しいこととは何だろう…? …門下生全員、多数決で「四書五経」「東洋倫理概論」等が必読書に決まったのみならず、修養・昇格カリキュラムに入った。 個人的に、この決定は、とんでもない鉱脈に辿り着いたと思っている。

第17話 ◇ 鍛えた拳はどう使う?••••••→これは、悪にどう対するかという態度の考察に置き換えてみる。

大きく分けて、態度は5つ。
1. 泣き寝入り…意気地なし。話にならない
2. 復讐…ちょっと元気がある。
3. 偽善…臆病や負け惜しみから取る態度。周囲や世の中を乱すので最悪。
4. 慈悲…宮本武蔵レベルの達人でなければ厳しい。
5. 武の行使…人ではなく行為を封じる。行為を憎み、人を憎まず。

我々の取る態度としては、5.
悪に対しては、武。武士道と同じ。

こういうことをはっきり心得ておけば、つまらない議論や思想に惑わされることもない。

合宿3日目の法話メモ

自分…
自→独「自」に存在すると同時に、
分→全体の部「分」として存在する。
この「自」と「分」の一致を表して「自分」という。自分を知り、自分を尽くす。
自分の持つ素質・能力の総称が「命」。
そして、自らの素質・能力を発揮していくことを「立命」と称す。

挨拶…お辞儀する
  自ら相手に頭を下げることは、相手に敬意を表すと同時に、相手を通じて自己を敬する(互敬)。

合宿最終日法話メモ
・我々は利己心に甘んじていないか。怠惰な傍観や臆病な逃避で日々を過ごしていないか。無益な疑いや批評に得意になってはいないか。
まず自分自身に活を入れよ。自分の生活と職場に新しい意義・使命・感動を立てよ。

・まず我々が、成長・共栄・調和の社会構築に頑張ろう。現状の暗黒を嘆くより、まず己の心に義(理想・誇り)の一燈を点けよう。我々の周囲の闇を照らす一燈になろう。手の届く限りの至る所に明かりを灯そう。一人一燈なら、万人万燈だ。社会は、日本は、たちまち明るくなるだろう。
義勇仁礼を胸に、成長・共栄・調和の明かりを灯す。これがリーダー条件だ。道着を脱いでスーツ姿になったら凡人という軟弱は許されない。
2015合宿、本当にお疲れぃ。連休明けからの娑婆を掻き回そうぜぃ。

第16話 ◇ 水月••••••洞上雲月録に出ている言葉を一つ紹介させて頂きます。「坐水月道場 修空華万行(すいげつのどうじょうにざし くうげのまんぎょうをしゅうす)」。

「水月」とは「水に映る月影」。その心が今月と来月の稽古のテーマ。「水月」は、腹部急所の位置ではなく、水面が無心に月を映し、跡も留めない澄み切った境地を象徴する。

普通、道場は道を会得する場であり、稽古場とは違うが、私たちは稽古等の学びと実践を通じて道の会得を目指すので、稽古場=道場と考えてよい。会得すべき道とは、義勇仁礼(生成化育と位育参賛。そして成長・共栄・調和の徳)。

残念ながら多くの高位の武人も、奇を衒い、技自慢、力自慢、不思議自慢をすることがある。しかし、義勇仁礼や稽古のテーマ(今回は「水月」)こそが、稽古の場を作る。また、「水月」のような無心で跡を留めない心での日々の稽古が、私たちを成長・共栄・調和(仁)へと向かわせる。その心を稽古にこめれば、未熟な技から玄の技へ深化しないわけがない。

第15話 ◇ 中国の古典・思想••••••とても興味深い。学生、社会人共に必読書。
FEG勉強会では「論語」「呻吟語」「菜根譚」「孟子」「小学・大学」「中庸」「易経」「老子・列子」「管子」「孫子・呉子」「荘子」「墨子」「荀子」等の講座を設ける。
座学で学んだものは、立ち上がったら即実践に使える事が、学び方の前提。

例えば「荘子」…生存競争で強く強くとムキになっていたことが、バカバカしく思えてくるから妙。不思議で妖しく危険な書。

「荀子」…孔子、孟子と対照的な、所謂「性悪説(悪→弱い。欲望に流されやすい)」の原典。人間の欲望を認めた上で、「礼・義」によって集団生活の秩序を整える。

「易経」…人間の営みの法則を明らかにした上で、運命を宿命論ではなく立命論として捉え、運命は自ら切り拓くところに作られるとし、未来を開花させる叡智。

荀子
* 性悪説…人間は本来弱く、欲望に流されやすい。それを矯正するものが礼・義である。意思と努力が大切。
* 学問奨励…「青は藍より取りて、藍より青し」「塵も積もれば…」「やるからには完璧を期せ」
* 王者の政治…人物を見極める。進言の扱い。平等不平等。重税はNG。政策。物資の流通。社会生活の基盤。
* 国を富ます…職分。賞罰。原則。国力のは。
* 臣下の種類・モラル
* 本当の兵法…強弱、存亡の目安。モラル。将軍心得14ヶ条。正義のためとは。賞罰だけでは人は動かない。徳・力・富。
* 天命と人間…人事を尽くし天事を侵すな。雨乞いしなくても雨は降る。
* 心のはたらき…迷いはなぜ起きるか。判断基準。健康法。心は自らを支配する。
* 言葉の乱れを正す
* 儒者の真髄…筋(スジ)を通す。聖人を偶像視するな。実践がいかに重要か。

企業にも、事業にも、自身の統治にも応用できる。

荘子(道家思想家 荘周(そうしゅう)の書)

老子とともに、「老荘」と呼ばれ、儒家(孔子、孟子…)、墨家(墨子)と鼎立(三者の対立)する道家の中心的思想家。

荘子…義論文と寓話の組み合わせ。空想豊かな特殊な世界が広がる。
人を活かしもし、殺しもする毒薬。あるがままの人間を直視し、現実から離れるか、立ち向かうかは私たちの自由。このへんに荘子の魔力がある。大変危険な書。

・不知の知・万物斉同…「知」は、物事を限定・分別・秩序づける方向に働くが、物事の根源である「道」には本来区別というものはない(万物斉同)。「知」に頼る限り、争いと悲劇からは逃れられない。知を捨てて全てをあるがままに受け止めろ。自他の区別を捨てて無心になれ(不知の知)。

・無用の用 …役に立たないからこそ、誰かの道具になることなく、自己のために生きることができ天寿を全うできる。
危険だろ。笑

第14話 ◇ 間合い••••••「カッコよくてお洒落だから道場に来てる…」と言った門下生の発言を受けて、「別の道場に行け」と応えた別の門下生との間でトラブルになった。
しかし、重大な問題は別のところにあった。
ふたりの間に入った途端、悪いのは「俺」だったと悟ってしまった…。

大変恥ずかしいことだが、人との「間合い」を間違えて、相手や自分の気持ちを揺らしていた罪悪や弊害にようやく自覚が及んだ。仲良くしようとしたり、理解しようとしたりして、自ら相手との「間合い」を詰めることがある。自ら心を開き、相手に迫るのが「挨拶」の本義だと伝えるが、人には親疎があり、得手不得手がある。近過ぎれば、ヤマアラシのジレンマじゃないが、お互いに傷付くことがある。
信念や義がぶつかり合うのはむしろ歓迎だ。切磋琢磨でき、成長・共栄・調和へ繋げられる。しかし、間合いを間違えてぶつかるというのは未熟過ぎる。

誰かを否定するわけでなく、見限るわけでもない。適切な間合いを、相手に応じ、時に応じて作り維持していく。自分と相手との関係性を考慮して、適切な間合いで心を開き相手に迫ってゆく。
近過ぎる間合いは「間違い」。遠過ぎる間合いは「間抜け」。深く深く反省。 さて、皆さん…いろいろ押し付けがましかった点について、好き放題言ったり、上から目線だったり、心を踏みつけたり…大変申し訳なかった。深く反省。

同じ組織内にも、いろんな人間がいる。目的・方針・計画は明確にする。そこにいろんな力が集まる。力を集中するには、人と人との間合いは近ければいいというものではない。お互いのために、適切な間合いを。

第13話 ◇ 道場法話メモ••••••
忙しすぎると、物事をじっくり考えなくなる。 忙しすぎると、自分をなくすぞ。
自分は何をもって、世の中の一隅を照らすのか。これが定まれば、仕事も勉強も卓越しないわけがない。
人間の本性(生まれながらの心)は善か悪か?それとも折衷か? 性善説(せいぜんせつ) 孟子…皆、善の兆し(惻隠・羞悪・辞譲・是非)が先天的に備わっている。 孟子が重んじたのは「仁・義・礼・智」 性悪説(せいあくせつ) 荀子…「人の性は悪なり、その善なるものは偽(ぎ)なり」。 ここで言う悪とは、「人間は弱い」「欲望に流されやすい」という意味であり、悪事や犯罪という意味ではない。教育に力点を置き、後天的努力により公共善を知り、礼儀を正すことで弱さを克服できるとした。 従って、荀子が重んじたものは「学」と「礼」。 どちらの説も修養により人間を成長させようとした。 私たちも、自身の修養により徳(FEG 義勇仁礼)を顕現させ、成長・共栄・調和を体現する社会のリーダーたれ。 知識を入れ、思索を重ね、実践を積み、明示されていない部分にまで類推を働かせろ。

第12話 ◇ 道場法話 メモ…自由••••••
理想がない。根気がない。粘りがない。迫力がない。負けじ魂がない。私利私欲と唯物…そんな生き方じゃ、男としてあまりにも情けない。 前姿はどうとでも飾れる。そんな前姿に惑わされることなく、義勇仁礼を語れる後ろ姿を鍛え上げる。私たちは、後ろ姿を見られている。 鍛え方を間違えてはいけない。人間の強さや自由とは、物質的満足の得られることにあるのではない。 窮しても苦しまず、憂えても意思は衰えず、禍福終始を知った上で、惑わないことにある。

第11話 ◇ 道場法話 メモ…修行と実践••••••
自分を作る修行は日常生活の中にしかない。山籠りや滝に打たれるなど、日常生活や社会生活から乖離しては、大した効果はない。
<修行>
毎日の当たり前のこと(実践)を確かめる。
1. 飲食に過度や不合理はないか。
2. 安眠・熟睡しているか。
3. 悪習慣を断ち切っているか。
4. 運動しているか。
5. 些細なことに一喜一憂していないか。
6. 度を過ぎた悲観・興奮はしていないか。
7. 今に集中しているか。
8. 経験(失敗)を糧にしているか。
9. 学問、仕事に全力で打ち込んでいるか。
10. 仕事に有能かどうかチェックしているか。
11. その仕事に一生を貫ける取り組み方をしているか。
12. 四耐(冷・苦・煩・閑)の実践に努めているか。
13. 明確な目標・理想を掲げているか。
14. 人に誠実であるか。
15. 自分に素直であるか。やましいところはないか。
16. 人格の向上のための教養を積んでいるか
17. 機会に備え、専門知識・技術を修めているか。
18. 信念・哲学・信仰等、精神の核となるものを養っているか。

第10話 ◇ 道場法話 メモ…文武両道••••••
「武」は「矛を止める(争いを止める)」という二字からなる会意文字。 日本人の武に対する考え方は、暴力の行使ではなく、それを止めることにあった。 従来、「文」と「武」とは補完的に考えられてきた。 即ち、「文」に流れると文弱になり、「武」に流れると暴力的になるという両方の弱点を補い合うために「文武」は車の両輪のように相伴うべきものという程度の意味で「文武両道」と解されてきた。 しかし、私達の「武」とはそこに留まるものではない。 生きるとは闘うことだという言い方もある通り、人間の現実は弱さや邪悪さと闘い、勝たねばならない。それが現実の姿である。臆病・卑怯・怠惰・無関心や邪悪な力と闘い、私達の生活・社会・理想を1歩1歩作り上げてゆく実践力を「武」という。 現実から逃げることなく、着々と淡々と現実を浄化し、成長・共栄・調和へと進んでいく。 風雨、雷、雪、嵐と闘って地中深く根を下ろし、若木が伸び、花が咲き、やがて実を成らせるように、現実の中から成長・共栄・調和という理想、文化の花を開いてゆく実践力・努力・骨力を「武」という。 だから、「武」があってはじめて「文」がある。本体は「武」である。 従って、理想を体現させ、文化の花を咲かせるような「武」でなければ、武とは言わない。 根底に人道的精神を確立させつつ、現実の弱さや邪悪さに堂々と直面し、その罪を憎むが人は憎まない。弱さや邪悪さから作られる罪を人間からなくすために、断じて暴力や罪悪という「矛」を「止」めるのが、私達の「武」である。 確固たる理想と道徳的精神を持ち、現実に免れることのできない邪悪の侵略と断固として闘い、これを無くして、人間をその「矛」から救う。これが「武」である。この「武」と、成長・共栄・調和に進む努力にこそ人間の価値がある。

第9話 ◇ 道場法話 メモ…「賞禄有功」••••••
人事の根本問題。今日では党費の調達に長けていると大臣に据えたり、営業成績がいいと課長部長に据えたりするが、これらは政治哲学の原則に反する。 功があれば、それを賞禄することが大切であるが、賞と禄は同じではない。
賞…金品
禄…地位
仕事のできる才能の有る者と、人を率いていく徳の有る者は別。どんなに仕事で手柄があっても、その仕事ゆえに禄(地位)を与え、人の上に立たせてはいけない人がいる。また、大した仕事はできいなくても、その地位にその人を据えておけば、自然にその場が治る人がいる。 上に立つ者は、これを使い分けることが肝要。

第8話 ◇ 道場法話 メモ…芸事・学問における親切な教訓(「十禅支録・中巻」虎関師錬)••••••
「去三取四」…学道の要はすべからく三を去って、四を取るべし。何をか三と言う。
1. 嘘…虚しい。学道の真剣な志のない事
2. 軟…虚しいからしっかりしていない
3. 怠…従って、大して勉強努力しない
何をか四と言う。
1. 誠…学問は飾りではなく、誠である
2. 堅…困難なものであるから志を堅く
3. 勤…よほど勤勉努力を要する
4. 細…大雑把ではダメ。綿密で細やかな心配りが肝要
「修(守)破離」と歩みを重ね、師から遠ざかるに従って、往々にしてこの四つを失いやすい。「去三取四」、親切な教訓であり先哲に自然と頭を下げたくなる。 礼(敬)と恥は、人間と動物を分けるもの。「浅学怠惰」の徒は、己の道を「誠堅勤細」に努めることが、礼というものだろう。 去三の嘘・軟・怠は、不義に通じる。 義とは「卑怯(嘘)・臆病(軟)・怠惰(怠)な振る舞いを自ら禁じ、道理に従って自らを処遇する精神である」。 5分の坐禅で自省後、稽古。本日のテーマは「誠堅勤細」。

第7話 ◇ 道場法話 メモ…後生(こうせい)畏(おそ)るべし••••••
後生畏るべし…可能性の種子。若い者は、無限の可能性を秘め、努力により将来どれだけの大きな人物になるか未知数。従って、若いからといって見くびってはいけない。
そろそろ、この門下生の中からこの座に上がり、まずは先哲の人物や学を講じるような、所謂「先哲講座」もやってもらいたい。私は聞き手にまわる。 辛辣な批評もする(自分に甘く他人に厳しいため)だろうが、私は、その講座に「後生畏るべし」とお辞儀をしたいと切に願う。 そういう志がなければ、道場に来てるただのお客さんだよ。観客席にいるクセは改めてもらいたい。 各々の専門知識・専門技術は死ぬ気で磨いて欲しい。また、人格・徳の修養は全員共通必須科目。 自分も他人も社会も笑顔に向かうために、まずは自分。自分に一燈を灯し続けたい。

第6話 ◇ 道場法話 メモ…ストレッチ••••••
Q.ストレッチで柔軟性アップするか?
→怪我予防になるか?
> A. 静的ストレッチ→筋力は10%程低下してしまう(2時間で戻る)
→ダイエット目的なら有り(10%程低下した筋力で動くなら、より身体に負荷がかかる)
Q. そもそも、怪我の予防を図るには
A. →筋力と柔軟性とバランス感覚
筋肉の性質→餅よのう。→温めると柔らかくなる。→動かすと、質は変わる。 そこで、怪我防止には、静的ストレッチよりも動的ストレッチ(ふりふりストレッチ)を取り入れる…リラックス、怪我予防、筋肉アップ 名称)「アロンガメント ジナミコ」…小刻みストレッチ →負荷をかけずに、可動範囲を少しずつ広げていく。
例)徐々に膝を高く上げるよう足踏み(左右30回程度)
…要は、筋肉にあまり負荷をかけることなく、動かしながら可動範囲を少しずつ広げることで、血流量を増やし、温める。
→動的ストレッチの前後で、柔軟性や筋力は20%程度アップ。
<健康と養生>へ続く。

第5話 ◇ 道場法話 メモ…健康と養生••••••
社会学者チェスタートン 「健康と養生を混同したところに誤りはある。健康はむしろ不養生と関係がある。医者が病人に向かって、身体に気をつけるよう注意するのは当然だが、健康な人に向かって話すべきは、健康な人間の根本的機能というものは、ビクビクと臆病に生きるようなものではないということを、断言することだ」。
私も同感だ。
健康というものは、自らの努力を必要とせず、医者は薬が与えてくれるものという幻想を持ってはならない。健康は創造的生活方法に依って立つものであり、状況や環境にいかに応じ、いかに自分を発揮していくかが肝要。 安全・快楽を過度に求め、苦痛や努力を避けようとする意気地なしでは、生物学的にも危険を有するものであり、国家社会の衰退にも向かっているとの自覚が必要ではないか。 個人の適応能力を高める工夫を修養していかなければ、生命の強さや沢山の長所を犠牲にして、ただ延命のための方法を探して、次から次へと放浪することになりはしないか。 易経の「乾」の卦にも明示されているように、「天行は健なり。君子以って自強息(や)まず」でなければならない。

第4話 ◇ 道場法話 メモ…「六然」••••••
六然…崔銑(さいせん)の「崔後渠集(さいこうきょしゅう)」という語録の中に出てくる。勝海舟がよく揮毫していた。
<六然>
自処超然(じしょちょうぜん)… 自分自身に関しては一向にものに囚われず、恬淡(てんたん)としている。
処人藹然(しょじんあいぜん)… 藹然とは、春になって木々が一斉に青々と伸びる、春に万物の新しく栄える姿。つまり、人に対しては、いかにもその人が活き活きといい気持ちを感じせしめられるような雰囲気で接すること。
有事斬然(ゆうじざんぜん)… 何か問題があるときに、うろたえたりへこたれたりしないで、すっきりしている。グズグズせずにキビキビと一気呵成に行う。
無事澄然(ぶじちょうぜん) … 無事の際には、見澄み切った水のように澄み切っている。
得意澹然(とくいたんぜん) …得意の時にはあっさりしていること。澹は淡と同じ。淡とは、あっさりしているということではなく(ごく初歩の解釈であり、本義ではない)、偏りがなく、他と比べようが無い何とも言えない味のことを無味と言い、淡という。 ※「崔後渠集」では、澹→欿(かん)になっている。欿とは、物足りない、本人自身が自分自身に物足りない、まだまだ駄目だという感じが、欿然。いかに得意な時にも、何か足りないような心境を持っていることが欿然であり澹然。
失意泰然(しついたいぜん)… 失意の時も泰然自若としていること。失意の時にあっても何でもないように振る舞う。呆然とするのではなく、大所高所から眺めてみることで、死地に活路を見いだせる。

第3話 ◇ 独立は足元から••••••
「独来独去 無一随者身自当之 無有代者」(大無量寿経)
独(ひと)り来たり独り去りて
一(いつ)も随う者無し
身自ら之を当(う)け、代わる者あることなし

訳) 人生は、生まれたときも一人なら、この世を去るときもまた一人。誰もついて行くことは許されない。 人生の中で苦しいこと、悲しいことに出遇っても、誰も代わってくれないし、自らこの苦しみ悲しみを引き受けて生きなければいけない。 しかし私たちは、この「独」を寂しい意味の孤独の独ではなく、「絶対」という意味にとる。 独自、絶対的信念と境地に立って進む絶対的進歩と解釈する。自己に徹し、絶対に生きるということ。
独立とは、独り立ち。自分独り、世の中がどうあっても、他人がいかにあろうが、自己に徹して生きて行くという意味になる。 私たちも、独立できるだけの信念と哲学を持たなければならない。そこから政治・経済・学問…様々な政策、何でもここから打ち出していけばいい。惰弱な利己的打算からものを見て、フラフラしているこんな国ほど弱く残念な立場はない。 学生諸君、家庭の愛情に甘えず、「これをさせてくれ」、それができるようになったら「次はこれに挑戦させてくれ」というような、問題に挑戦していく生き様を、足元の日常生活・学生生活から展開して下さい。 更に、これからの人生を、あなたが主人公として、世の中から「しっかり生きろ」と願われていることを自覚し、素晴らしい人生作りに挑んで下さい。

第2話 ◇ 道場法話 メモ…早起き••••••
「朝こそすべて」。これに尽きる。 平均寿命は男女とも80歳を超えているが、健康寿命(日常生活に支障なし)は、70歳そこそこだ。
そこで、一生(健康寿命…仮に72歳)を1日(24時間)に例えてみよう。目がさめると思う。
私たちは夜中000に生まれた。残り23時間59分。
昼1200の時点で36歳。
※ 36÷12=3。自分の年齢を3で割ってみれば、今何時何分を生きているか分かる。是非やってみてほしい。
私は43歳なので、43÷3=14.33…。1420頃を生きてることになる。 45歳になれば1500。 1つ歳を重ねると20分進む計算だ。
今、隣には55歳の男性が座っている。
彼は55÷3=18.33…。彼は1820頃を生きてる。
18歳のあなたは0600
27歳のあなたは0900
36歳のあなたは1200
1日の時間の使い方を、先人達は本当に工夫した。辿り着いた答えが「朝こそすべて」。 私の朝は0400起床。昼寝は15分。 あなたも目が覚めた?

第1話 ◇ 道場法話 メモ…豚に漢を見た••••••
野生動物のドキュメンタリー 動物の狩りは、相手がどんなに小さな獲物でも全力を尽くす。 野生の豚の家族のところに、ヒョウが飛び込んできた。不意を突かれた豚たちは、バラバラに散って逃げていくが、とうとう一匹がヒョウの牙に捕まった。
その豚は、一番弱い子豚ではなく、母豚でもなく、一番足が速く力も強い父豚。彼がヒョウの餌食になり、家族全員を逃した。
女、子供、弱い者を、自分の命に代えても守り抜く。漢の価値はそこにある。
豚に漢を見た…。
男に生まれたなら「男らしくしっかり生きろ」と、世の中は願いを込めている。 私たちは、豚以下の生き方をするわけにはいかない。